★ 大阪府の橋本知事が、教職員に日の丸・君が代の規律斉唱に罰則規定を設ける条例を府議会に提出しました。先週、26日、日本キリスト改革派教会西部中会「世と教会に関する委員会」は、知事、教育委員会、府議会各派に、委員長 袴田康裕教師名で、下記のような要請文を、三人の教師委員方と府庁に赴かれ、提出なさったことを伺いました。迅速な応答に、実に久しぶりに、日本キリスト改革派教会の力、存在価値を思わせて頂き、感謝しました。 下記、内容を掲載致します。 これもまた、教会のディアコニアです。
【 「日の丸・君が代」の強制に関する要請
私たちはキリスト教信者として、入学式・卒業式において日の丸掲揚・拝礼を行わないことと、教職員に対する君が代の斉唱を強制しないことを強く要請いたします。それゆえ「大阪府の施設における国旗の掲揚及び職員による国家の斉唱に関する条例」に強く反対いたします。その理由は以下の通りです。
1.「日の丸・君が代」の問題は基本的人権の問題だからです。
かつて「日の丸・君が代」が国民の精神的自由を奪い、戦争遂行のために国民精神を統合するために重大な役割を果たしたことは否定できません。またそれらが、宮城遥拝・神社参拝などのいわゆる「天皇教」のシンボルであり「讃美歌」であったことも否定できません。それゆえ、「日の丸・君が代」は個人の思想信条また信仰と無関係ではありません。まさに、思想・良心の問題として、さらには信仰の問題として、これに従えない人たちがいます。日本国憲法はいかなる人にも思想・良心の自由を保障しています。
2.「日の丸・君が代」の強制は、教育の荒廃を招くからです。
「日の丸・君が代」に反対している人たちの理由は様々だと思います。しかし、自己の良心のゆえ、信条のゆえに従えない人も多くいます。そのような人たちにとって、職務命令による強制は、時に病を発症するような強い心理的ストレスとなっていることが、専門家によって報告されています(野田正彰『子どもが見ている背中』、岩波書店、2006年)。良心的な教師たちが苦しめられていることを、子どもたちは見ています。教師をいじめて教育が良くなることはありません。強制は学校教育のさらなる荒廃を招きます。
3.「日の丸・君が代」は良心の問題そのものだからです。
私たちキリスト者は聖書の神を信じる者たちです。それゆえ他の神々を信じたり、拝することはできません。たとえ「社会儀礼」と一方的に位置づけられても、日の丸に拝礼したり、君が代を讃美することは信仰的良心としてできません。こうした少数者の良心を踏みにじらないで頂きたいと思います。私たちにとってこの問題は、決して「組織マネジメントの問題」(橋下知事)ではなく、良心の問題なのです。 】
☆ リジョイス用「信徒の手引き」-第4章 神の民として社会に生きる-(3,教会と国家)から、抜粋します。
【人類普遍の価値基準の実現のために】 教会は、決して自分たちの利益を拡大するために政治にかかわるのではありません。むしろ、市民社会に共通の幸福、人類普遍の価値つまり、人権の尊重、いのちの大切さ、平和、自由、平等、正義・・・などを求めるためです。これらは、いのちをかけて福音の真理を証した人々によって産み出されたものです。
【抵抗、反対声明】 もし国家的権威が神の主権を犯し、正義を破り、平和を破壊し、良心と思想を統制しようとするとき、抵抗することは、神にゆるされています。むしろ、「神は愛です」と宣べ伝えながら、抵抗しなければ、神の愛を裏切り、福音を傷つけることになるでしょう。
【教会共同体として】
【為政者のために祈る教会】 私たちは、神が為政者をお立てになられ、彼らを用いて人々の平和と福祉を保たせようとしておられることを知らされています。それゆえ、教会は、彼らを「敬」(一ペトロ第2章17節)いつつ、彼らが神を畏れ、自分の務めの尊さをわきまえ、正しく権威を行使する力が与えられるようにと、絶えず執り成し祈らなければなりません。それは、「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」(一テモテ第2章2節)
☆ 先週の午後は、読書会の代わりに、家族伝道の懇談会を開催し、21名の出席者を得、2時間余、充実した時を持ちました。「お互いのために、助け手となりたい・・・。」その熱い思いがあふれ出しました。主イエスこそ、家族の救いを願っておられます。祈り続けましょう。「何を、どのように祈るべきか」、祈りは、そこに集中します。そして、その祈りが明確にされるとき、私ども自身が変えられ、主に従う力が与えられます。
☆ 先週、愛知県立芸術大学から(講義の一環としてではなく!)ひとりの学生が来られました。感謝・ご加祷を!