過去の投稿2011年6月5日

「あなたも家族も救われる」

「あなたも家族も救われる」
2011年6月5日
テキスト 使徒言行録 第16章25-34節 
【真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。】

私どもは、今年度、「家族伝道」を年間目標として定めました。そして、先月、家族伝道の懇談会を開催いたしました。皆が、お互いの家族の救いのために、何とかしたい、助けの手を伸ばしたいとの願いがあふれ出る集会でした。しかしながら、現実には家族のことは、いわゆる他人が口をはさんだり、そこに直接入って行くことは、通常はできません。したがって、ご本人からのお申し出が必要となります。今年、「家族伝道」を年間目標に掲げたのは、まさにそのために他なりません。皆で、仕え合おう、互いのために奉仕し合おうということです。先週も、そのような思いがみなぎった集会を開催することができました事を心から感謝いたします。

ただし、これもあらためて確認しておきたいと思います。家族の救い、これは、まさに、神の時を祈って、待つ以外にございません。今年掲げた目標だから、何としてでも、今年中に、実現させるというわけには、まいりません。祈りつつ待つ以外にありません。

ただし、そこで、私どもは、決して間違ってならないことがあります。こういうことです。「いつか神さまがそのうちに、なんとか救ってくださるのだから、計画をたてる必要もないし、あわてる必要はない。」これは、聖書によって間違いであることは明らかであります。神の御心は、使徒パウロにおいて示されています。Ⅱコリントの信徒への手紙第6章1節、2節です。「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」つまり、今この時、今この瞬間が恵みを受けるとき、救いを受ける日です。つまり、私どもは、救いの時が備えられていることを信じ、その信頼に立って、速やかに与えられるようにと祈り求めること、つまり、教会のすべての働き、奉仕は、急ぐべきなのです。

さて、今朝は、伝道礼拝式の直前であり、マタイによる福音書の講解説教を中断して、家族伝道について使徒言行録から学び、礼拝を捧げます。

ご復活されたキリストによって使徒とされたパウロは、共に福音伝道の働きに従事しているシラスという弟子と共に、今、獄中の人となっています。何故、牢獄の中に入れられてしまったかと申しますと、女性の占い師との出会いの中で、パウロが、占いの霊、つまり悪霊にとりつかれているこの女性を解放してあげたことによります。そんな悪い霊に縛られ、取りつかれてていたところから、開放していただいたのだから、さぞ、本人からも周りの人たちからも感謝されるかと思えば、そうではありませんでした。この女性は奴隷でした。主人たちは、占いで金儲けをしていたのです。今、その金儲けができなくなってしまったことを大変、悔しがりました。そして、そのようなことをしたパウロとシラスを捕えて、ローマの高官に連れ出したのです。そして、高官たちは、彼らを何度も鞭打って、ひとまず、牢獄に投げ込んだわけでした。そして、看守に厳重に見張るように命じます。看守は、これは、よほど大変な犯罪者だと考えたのでしょう、この二人をいちばん奥の牢に入れ、足に木の枷をはめました。

何日間、この二人が牢獄の中に入れられていたのかは、分かりません。事件は、何の前触れもなく起こります。真夜中に、大地震が起こったのです。牢の土台が揺れ動いて、牢の戸がみな開いてしまいます。何よりも、囚人たちをつないでいた鎖がすべて外れてしまったことです。

その時ちょうど、パウロとシラスとは賛美の歌を歌って神に祈っていました。他の囚人たちは、これに聞き入っていました。わたしは、これを読んで、すぐに不思議に思いました。いったい、真夜中に、讃美歌を歌われ、祈られたら、キリスト者ならいざ知らず、普通の人なら、聞き入るどころか、怒り出すのではないかと思ったのです。「お前らユダヤ人たち、いったい、こんな真夜中に、何をやっているのだ、静かにしろ!」

 ところが、囚人たちは、そのおそらくは、静かな声で歌う、神をたたえる歌に、ある深い印象を受けたのだと思います。パウロとシラスの歌声がもし、CDで聴くことができたらと思います。わたしの個人的なイメージで申しますと、パウロ先生には失礼ですが、あまりよい声ではないのではないか、などと思ってしまいます。あるいは、シラスは美声の持ち主だったのかもしれません。しかし、おそらく、囚人たちは、彼らの歌声が美しかったから、聴き入ったのではないように思います。

彼らの心に深い印象が与えられたのは、こんな過酷な環境の中で、この人たちは、何故、このように明るいのだろうか、何故、これほどまでに落ち着いているのだろうか、何故、このような暗闇の中、深い喜びに満たされて、神をほめ歌えるのだろうかという問いだったと思うのです。

 このことは、「教会の祈り」としてはおりませんが、昨年、生まれて初めて名古屋拘置所を訪ねました。死刑判決を受けて係争中の元少年にお会いするためでした。彼は、拘置所のなかで、キリスト者になりました。しかし今年、最高裁によって死刑が確定されました。もはや、わたしのような者の自由な面談は不可能になってしまったかと思います。彼は、いつ、自分が処刑されるのか、殺されるのか分からないまま、刑務所の中におられます。確かに、拘置所の中であったときには、ある制限の中ではありますが、手紙を書いたり、さまざまな伝道活動ができました。しかし、それでも、拘置所のなかで生きることは、大変なことだと思います。
 
 パウロとシラスは、この後どうなるのか、まったく分かりません。おそらく二人は、最悪のことを覚悟していると思います。そのことを既に深く覚悟しているからこそ、勇気をもって、大胆に伝道できたはずです。つまり、殉教です。

 彼らは牢獄の中にあって、自分たちの身によって、キリストが公然と崇められるようにと切に祈り願ったのだと思います。そのような祈りを捧げていたのだと思います。

そして、もうひとつのわたしの想像があります。それは、執り成しの祈りではなかったかと思うのです。つまり、囚人たちへの同情です。「自分たちは、確かに足かせをはめられ、明日どうなるのか、どうされるのか分からない、しかし、自分たちは、心も魂もまことの自由を与えられている。何よりも、自分たちには、天国が大きく開かれている。天国が待っている。しかし、この囚人たちは、極悪な犯罪者もいたかもしれません。パウロたちのように無実の人たちもいたかもしれません。しかし、いずれにしろ、救われていない人々です。神もなく、希望もなく、まさに死と滅びに向かって、確実に進んでいるのです。パウロたちの心の中には、彼らの救いを求める切なる願いが沸き起こっていたと思います。

 だから、 囚人たちは、怒らなかったのだ、怒れなかったのだと思うのです。「世間から見捨てられている自分たちが、神に救われることを、熱心に祈っているこの二人は、いったい何者なのだ。」「イエスという人をキリストと呼び、主と呼び、神と呼んでいる。これが、最近、噂のキリスト教、キリスト者なのか」そう思った囚人もいたかもしれません。いずれにしろ、自分たちのことを、愛を持って、同情心をもって神にとりなしていてくれる人が目の前にいる、それが、彼らの心を激しく打ったのでしょう。

もとより、パウロもシラスも、聞かせようとして祈ったのではないと思います。そのような、これみよがしの偽善的な行為であれば、この人たちは、おそらく簡単に見抜いたでしょう。おそらく、もともと、簡単には、他人に心を開かない人々が多かったのではないかと思うからです。しかし、そのような彼らの心が開かれているのです。

わたしは、牧師家庭に育ったある方の証を思い起こします。その方は、若いとき、順調に教会生活を重ねられたのではなかったようです。しかし、自分のために両親が、いつも祈っている姿、その声を聞いていたというのです。ご両親は、息子の救いのために毎日、毎日祈っていたのです。もとより、彼に聞かそうとして祈っていたわけではないはずです。しかし、自分のために、神に祈る両親の祈りの声が聞こえてくる。親の愛が次第に分かってくる、そして、父なる神さまのご愛もしみじみと分かってくる、神さまの親心が、彼の心を溶かして行ったのです。

 さて、彼らは思いました。「ああ、彼らはうらやましい、こんなときに、自分のことを優先しないで、俺たちのような者たちのことを思いやれる男たち、そんな人間に、なれるものか、いったい何がこの男たちをそのようにしたのか、イエスという人間は本当に、主でありキリストなのか、それほど、偉大な人間なのか。」言わば、囚人たちは、獄中で求道者になってしまったのではないかと思うのです。

 それゆえに、本来であれば、囚人たちにとってまさに千歳一遇のチャンスです。大地震が牢屋が壊れ、鎖も取れてしまったのです。実際に、どこかの国で、地震が起きて囚人が逃げ出したという事件が最近も起こったように記憶しています。逃げようと思えば、逃げられるのです。しかし、彼らは、逃げませんでした。

 さて、そのとき、看守は目覚めました。そして、青ざめました。牢の戸が開いていしまっていたからです。彼は、すぐに、囚人たちが逃げてしまったと思いこんで、剣を抜いて自殺を図りました。

 わたしは、心からこの看守に同情いたします。どれほど、過酷なプレッシャーを感じて生きて来た方なのか、どれほど過酷な仕事を強いられていたのかと思うからです。看守は、おそらくは、ローマの役人の中では、下級役人です。そして、失敗があれば、首になる。それどころか、囚人たちを逃がしてしまったら、反対に、自分の命が奪われてしまうことになるのでしょう。だから今、「もう駄目だ、もう、自分は責任をとらされる、それなら、いっそ、ここで死んでしまおう」そう、とっさに考えてしまったのだと思います。本当に、かわいそうだと思います。

 パウロは、大声で叫びます。「わたしたちは、皆ここにいる。」
 彼は、真っ暗闇の中ですから、見えません。すぐに、明り持って来させます。 そのとき、彼はどうしたのでしょうか。逃がさずに捕まえようとしたのではありません。何と、パウロとシラスにひれ伏します。そして、二人を外へ連れ出してこのように言います。願いでます。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」

 この時、彼は、救いとは何かをまだ理解していません。聖書の言うところの救いは分かっていません。しかし、はっきりと分かったことがあるのです。それは、自分とこの二人とは違っている。根本的なところで、違っているということです。それが、救われているという表現になっています。その意味では、こう言いかえることも許されかと思います。「先生方、どうしたら、あなたたちのようになれるのでしょうか。」それは、自殺を考えない生き方を求めたのでしょう。生きる力です。生きて行く力です。どんな挫折があっても、心が折れない力、へこたれない力です。絶望の壁を飛び越えて行くジャンプ力です。それが欲しいと願い出たのです。
 
家族の救いということを考えるとき、何よりも大切なことは、何でしょうか。伝道ということを考えるときもまったく同じです。それは、その人自身が、キリストにあって生きるということです。キリストと共に生きるということです。生きることはキリスト。キリスト者が生きるということは、キリストによって生きることです。キリストと共に生きることです。キリストのために生きることです。キリストに結びあわされて生きることです。キリストとの交わりの喜びと平和のうちに生きることです。

その意味では、技術、スキルということは、本質的なことではないとすら言えるはずです。誰かをキリストに導く技術、救いに導く方法、それを否定することは、ありません。むしろ、私どもは研鑽をこころがけたいのです。昨年の個人伝道の学びはまさにそれを目指し、願ってしたのですしかし、どれほど、その技術を学び、習得できたとしても、その人自身が、キリストに従って、キリストのために、キリストによって生きていなければいかがでしょうか。キリストと共に生きる喜びを失っていては、魅力がないと思います。この魅力とは、この世のさまざまな魅力とは、異なるものです。救いの喜び、これが、人々を、神さまに選ばれている人々をひきつける、ひきつけられてしまうのです。

 先週もまた、ひとりの求道者、もはや、求道者とお呼びすることをはばかれると思いますが、学びの時のなかで、こう仰いました。子どもカテキズムの問い一を学んだのです。「わたしたちは何のために生きるのですか。」人生の目的を問う最も大切な問いです。「私たちが生きるのは、神さまを知り、神さまを喜び、神さまの栄光をあらわすためです。これが私たちの喜びです。」これを読まれて、このような主旨のことをおっしゃいました。「これまで、人生に嬉しいということは、あるけれど、喜びがあったのだろうか。しかし、今は、喜びがあります。」そうです。その喜びとは、他なりません。神を知った喜びです。主イエスに救われた喜びです。わたしは、本当に、神に感謝し、心躍りました。

 この喜び、それは、イエス・キリストが共にいて下さることの喜びです。パウロとシラスには、この喜びがあふれているのです。人生の危機のど真ん中で、希望を失っても仕方がないと思われるその真ん中で、しかし、彼らに揺るぎない喜びがあるのです。しかも、大地震にも揺さぶられない喜び、心の平安がずしーんと座っているのです。
 
 看守は、深夜、自分を自殺から救ってくれたこの二人を自宅に呼びます。二人は、確信に満ちて言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

 そして、さらに丁寧にいったい何故、主イエスを信じたら、自分たちのようになれたのか、その道を語ります。聖書の教え、救いの道、福音を説教するわけです。主の言葉、神の言葉を語るのです。心が開かれたこの人には、すべてが納得いったのです。そして、まさに主イエスを信じます。そして、何度も鞭打たれた痛々しい打ち傷を水であらい、消毒薬も塗ってくれたのでしょう。もう、この二人は、信仰の家族となって、看守の兄弟になります。看守にとって、いのちの恩人です。単に肉体のいのちの恩人ではありません。永遠のいのちへと導いてくれた恩人となったのです。パウロがキリストの使徒であることを、知ったと思います。

そればかりではありません。妻にも、子どもたちにも、こんどは、彼自身の口から、いっしょにイエスさまを信じよう、と呼びかけたはずです。そして、パウロとシラスとは、妻や子どもたちにも神の言葉を語って、そして家族全員が洗礼を受けます。子どもたちも洗礼を受けたのです。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」説教において、わたし自身のことを語ることは、あまりありません。しかしここでは、証すべきと思います。わたしは、皆さまもご存じのとおり、契約の子ではありません。家族はおろか親戚にもひとりのキリスト者もいませんでした。しかし、わたしの両親、父親は既に天に召されましたが、母親は毎週、礼拝式に通い、兄とその家族も同じ教会に通っています。つまり、一気にではありませんでしたが、家族全員が洗礼を受けました。わたしは、学生時代に洗礼を受けました。その後、この御言葉を読んで、家族が救われることは、神の契約、約束なのだと信じたのです。家族が救われると、聖書にそう書いてあるから、必ず、そうなると信じました。そして、同時に、「そうなって欲しい!」と願ったのです。その願いは、祈りになりました。しかし、どれほど祈ったでしょうか。そして、時には、キリスト教に反対し、牧師になることに反対し続ける母に、祈りをやめたときもあったと思い起こします。つまり愛することをやめたこともあったのです。また、兄の性格からして、聖書を読むとか、教会に通うとか、その姿を想像できませんでした。しかし、あるとき、家内から、「イメージしてみたら」とアドバイスを受けました。礼拝堂で、讃美歌を歌っている姿です。兄が教会で礼拝している姿、これは本当に、難しかったことを思い起こします。しかし、もう20年前になるでしょうか、母から、兄が礼拝に通い始めていると、耳を疑う知らせを受けました。自分が導いたわけではありません。しかし、家内が祈り、いろいろと伝道してくれたおかげで、導かれました。ですから、私じしんが何かを誇ることはまったくできません。そもそも、伝道において、自分を誇ることは、できません。家族伝道は、他の人、肉親以外の人の助けが必要なのだと、痛いほど、分かるのです。
 
 家族伝道、家族の救い、これはなんと困難な課題かと思います、しかし、同時に、なんとすばらしい神さまの約束かと思います。その日を思うと、わくわくしてまいります。伴侶の救い、そして子どもたちの救い、とりわけ伴侶の救いは、お一人おひとりまったく事情や状況が違います。困難さも、全く違ってまいります。具体的なことは、まさに、それぞれお話を伺わなければなりません。しかし、基本は、祈りです。言いかえれば、愛することです。本当に、家族に神に生かされる喜びにあずかって欲しい、願うことです。

 もしも、キリスト教や聖書によって、あの人、この人を改善してあげようと、どれほど全に出会っても、もしも上から見下すようにして語り始めるなら、伝道の実りを結ぶことは困難かと思います。

 そもそも、私どもは、自分の力で、自分の何かで、誰かを救いに導くことなどできません。たといパウロとシラスであっても、あのときもしも、大地震が起こらなかったとしたら看守の救い、その家族の救いへと導かれたのでしょうか。それは、分かりません。いずれにしろ伝道の主、救いのみわざをなされるのは、その主権は、神にのみあります。しかし、確信してよいのですし、すべきことがあります。それは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」この約束を単純に信じて受け入れることです。そして、家族を愛することです。そして、祈ることです。

この家族に起こったことは、これです。「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」そしてこれこそ、私どもが、自分の家族のために、お互いの肉の家族のために祈り求める姿です。

そして、最後に、「この後、二人を自分の家に案内して食事を出し」ます。すばらしい喜びの食卓が作られたのです。これこそ、祈り願う私どもに、神が約束された将来の姿なのです。この家族、家庭は、自分たちだけの小さな交わりではなく、パウロとシラスを迎え入れます。つまり、家庭を開放するのです。自分たちだけの小さな交わりに生きるのではなく、神の家族に開かれたているのです。

今、私どもは、主イエスの食卓、聖餐へと招かれます。主イエスによって神の家族とされたものたちの食卓です。家族伝道とは、まさにこの食卓を目標にしています。そして、信じて祈り願う者には、この食卓、天国の食卓が備えられています。既に天国にいる家族とも、この聖餐の食卓において、私どもは共に主イエスとの交わりを楽しみ、喜ぶことができます。

祈祷
 主よ、私どもを憐れんで下さい。傲慢になる私どもを憐れんで下さい。私どもこそ、罪人であり、罪人であるからこそ、救って頂いたこの福音の恵み、この真理を裏切らないように助けて下さい。謙遜に生きることは、しかし、信仰に生きることに他なりません。あなたの愛のみ心を確信し、隣人の救い、家族の救いのために、心から叫び、祈る者とならせて下さい。主よ、今、東北の地から、「誰か助けて」という呻きが聞こえます。主よ、私どもを用いて下さい。主なる神よ、助けて下さいと共に祈れるように、導いて下さい。アーメン。