過去の投稿2011年7月4日

7月3日

―牧 会 通 信―

☆  6月伝道月間が終わりました。三回連続で、伝道礼拝式として捧げられました。今年は、「家族伝道」を目標に掲げて教会形成、教会生活に励むことといたしました。なお、神の約束を信じ続けてまいりましょう。
★  今回、愛知県立芸術大学から3名の学生たちが礼拝式に参加されました。私にとっては、特別の喜びです。ほとんどの学生たちは、キリスト教に接したことがありません。牧師と出会うのも、聖書を読むのも初めてです。その責任、また光栄を思います。ちなみに、県芸では、非キリスト者の教授が「福音書」を講じておられるとのこと。こちらこそ、その専門家(=牧師)「のつもり」ですが、前期は、「星の王子さま」を用いて、福音書の世界へと招こうとの企てです。おもしろい現象です。今の大学の教師たちは、必ず、受講者から評価を受けます。アンケートがあるのです。4分の3以上の方々が、とても積極的に受け止めて下さり、心強く感じます。前期も、残り少なくなりました。教室にも、聖霊なる神さまが共にいて下さり、学生たちをご自身の真理と愛へと招いて下さることを、皆さまもご一緒にお祈りください。キリスト教主義大学であってもなくても、わたしが行くのは、「教育的伝道」以外のなにものでもありません。真剣勝負です。
☆  先週の水曜日は、第一回の「改革派信仰とは何か」の読書会を行いました。出席者は6名でした。この読書会のそもそもの目的は、実は、長老候補者の学びでした。けれども、実は、このテキストを読書会で取り上げるのは今回で三度目です。最初は、10年以上前、加入前です。牧田先生からいただいた高松教会でなされた講演記録です。それを、何部も印刷して学びました。第二回は、加入後、講演記録をあらたに書籍化するために書き改められた緑の表紙の書物。そして、今回の新装され、文字も判型を大きくなった青い表紙の書物です。基本的な学びです。しかし、その内容は、単なる初歩的なものではなく、実に、広く深い内容です。その意味では、神学生のため、あるいは牧師のためにも有益です。できれば、かつてのように、現住陪餐会員全員が出席し、一緒に読み進めることができたらと思うほどです。どうぞ、どなたでも歓迎いたします。準備はなくともまったくかまいません。時間を設けて出席して下さい。そして、教会役員を目指し、あるいは教会形成の奉仕を正しく深くなすことを願う方(全員のはずです!)のために祈って下さい。
★  先週、名古屋地区4教会合同修養会に家内と上述委員とで出席いたしました。名古屋地区4教会とは、そもそもどの教会なのか、それは、名古屋教会、豊明教会、八事伝道所、そして私どもです。ただし、私どもは、この修養会にはお招きを受けて出席しておりますが、この協議会そのものには、大変、心苦しいのですが、現時点で加わっていません。犬山教会に赴任されたばかりの金起泰先生から「日韓協力開拓伝道について」の講演を伺いました。名古屋圏で、東釜山老会との協力開拓伝道事業の実行が、中会決議されています。わたし自身、深い印象が与えられた一つは、実は、高神派の開拓伝道の統計を拝見したことです。10年間の内に、自立した教会(成功した教会と表記)は、3割強ということです。その意味で、わたしどもは経済の独立を果たすまで実に17年もの月日が経過しているわけで、韓国では、少なくとも成功例の範疇には入らないことになります。しかし、日本において、スピードだけを優先することが、どれほど、後々の教会形成にとって、悲劇的な事態を生じさへすることが少なくないことを知るだけに、決して卑下する思いはありません。しかし、それでも、「いつ教会設立されるのですか・・・」との問いを実にしばしば聞かされる今、「教会設立を目指して歩む第7年目」と年報表紙に記載しているように、スピード感を持つ責任を共に深めたいと思います。右欄、「祈りの課題」には、「教会設立へのカウントダウン」とすべてに優先して記されている通りです。
☆  犬山教会の長老から、「金先生が赴任して以来、朝の祈祷会に20名の方が集まり始めている・・・」と伺いました。思わず「負けました!」と・・・。実に、すばらしいことです。私どもは先週、朝夕合わせて25名でした。いずれにしろ、祈祷会で、心を注ぎ、心を一つにして執り成し祈り、御言葉を深めて、実践のために祈るなら、教会の奉仕は必ずや充実し、聖霊のいのちあふれる教会として、喜びがあふれ出すでしょう。 
★  大会教育委員会の子どもカテキズム作成のための小委員会。すばらしい子どもカテキズムが、編み出される、手ごたえを覚えさせられ、感謝いたしました。牧田先生の神学的な力量のゆえです。
☆  説教原稿と通信のブログアップのための「校正」を○○兄が担当して下さることになりました。感謝。このような奉仕そのものが、異例かと思います。説教原稿と実際の説教とは、しばしば、「かい離」があります。説教は、完全原稿に整えますが、(容易ではありません)あくまで原稿。説教は読むものではなく、聴聞するものです。