「福音の真理によって生きる」2011年7月10日
テキスト マタイによる福音書 第16章1-12節
【 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。】
今朝は二つの物語を通して読みました。
ここに、ファリサイ派とサドカイ派の人々が登場します。ファリサイ派は、これまで何度もマタイによる福音書に登場し、主イエスとその弟子たちを鋭く批判し、厳しく攻撃していた人々でした。彼らは、神を信じて生きるイスラエルの民にとって、律法を守ることこそ最大、最高の在り方であると考えている人々のことです。彼らの中から、律法学者たちが生み出されました。しかし、彼らにとっての律法とは、私どもが考える律法とは異なっています。彼らは、神の言葉、教えを正しく理解し、重んじたのではなく、自分たちを正当化するため、自分たちを高めるために、神とその御言葉を利用していた人々なのです。
さてしかし、サドカイ派は、ここで突然出て来たように思われますが、実は、第三章で一回出ていますが、改めて説明が必要かと思います。今日の一つの大きなポイントになります。サドカイ派に属する人々は、エルサレム神殿を管理し、そこで働く祭司たちを輩出していました。彼らの関心事は、ひたすらこの地上のことにありました。自分たちの既得権益である、エルサレム神殿を管理するという地位を確保したうえで、さらに、どうすれば、今の時流、つまりローマの権力に逆らわず、それにうまく乗れるかと考えていたのです。この世にあって、上手に生きることを目指した人々です。そのような宗教であり、この世的な宗教家たちなのです。したがって、彼らは、そもそも、霊の存在や働きや人間の復活などを信じていませんでした。目に見える現実だけがすべてだと割り切っていたのです。そのような宗教があるのかと不思議に思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、多くの宗教は、つきつめると地上の御利益を最優先するのではないでしょうか。その意味で、彼らとファリサイ派とは、対立関係にありました。
しかし、今、この二つのグループ、いずれもユダヤの宗教を代表するグループが、しかし、お互いに軽蔑し合い、対立しあっていた二つのグループが、ただ一つの目的において一致して、イエスさまのところに来ます。
査察という言葉があります。査察とは、法律にのっとって行われているかどうかを調査することです。映画にもなりましたが、国税局の特別の査察部のことを「マルサ」と言うとのことです。今、この二つのグループは、イエスが、自分たちの教えを真っ向から否定し、批判していると考えた故に、その調査に入ったのです。
彼らは、エルサレムからやってきます。中央から、地方に、つまり田舎にやってきます。高圧的な顔つきでやってきます。今も同じようなことが政治の世界だけではなく、いたるところで起こっているでしょう。彼ら査察官は、こう切り出します。「天からのしるしを見せてほしい」。彼らは、宗教団体の権威と、イスラエルという神の民の権威、国家権力を帯びて調査します。「証拠を示しなさい」と言います。証拠を見せれば、信じるというわけです。しかし、その証拠とは、彼らにとって都合のよい証拠に他なりません。ここが重要です。
わたしはここでも、とても不思議に思います。先週の説教の題は、「天国のしるし」、めじるしでした。山の上でいったいどれほどの病に苦しむ人々が癒されたことでしょうか。そして、男性だけで4000人の人々の空腹が満たされるという驚くべき奇跡の物語を学びました。しかし、主イエスは、ここではっきりと「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と宣言されます。
おそらく読者は、ただちに、不思議に思うのではないでしょうか。イエスさまは、これほどまでたくさんの「しるし」つまり天国がいまここで既に始まっているという証拠、旧約聖書で預言されていた出来事を今ここで次々と成就していらっしゃるのに、いったい何故、ヨナのしるしの他には与えられないと仰るのでしょうか。
その前に、ヨナのしるしとは何かです。それは、イエスさまのご復活のことです。旧約聖書の中にヨナ書という書物があります。預言者ヨナは、巨大な魚に飲み込まれてしまいました。しかし、神の憐れみによってヨナは、巨大な魚のお腹の中にいて、口から吐き出され、陸にあげられました。主イエスは、それを、ご自身の復活の予告だと、私どもにお教え下さいます。結局、神のしるし、それは、十字架につけられたイエスさまが、三日目にご復活されること、ご復活のみなのです。
それなら、あの病の癒し、5000人、そして4000人の給食の奇跡は、何を意味するのでしょうか。それは、ただ、目の前にいるこの人々を憐れむ神の愛、そのほとばしりです。主イエスは、奇跡によって、自らが神であることを、積極的に誇示する、見せびらかすことはなさらないのです。主イエスは、第8章4節で、重い皮膚病をわずらっていた人に、こう命じられました。「だれにも話さないように気をつけなさい。」また、第9章30節でも、二人の盲人の目を開かれた奇跡があります。そのときも『「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになられた』のです。つまり、ご自身が民衆からほめそやされる誘惑を拒絶なさるのです。それは、5000人、4000人の給食の奇跡の後、主イエスは群衆を解散させられたことによっても明らかです。
それに比べると、どこかの宗教団体や教祖は、万一にも、そのような奇跡を起こすことができたとしたら、その宗教団体は、大々的に宣伝するはずです。さまざまなメディアを用いるでしょう。
主イエスが天国の奇跡、しるしを見せられるのは、ただ、目の前にいる苦しみ、悩み、痛んでいるひとり一人を思って、はらわたちぎれる思い、憐れみの思いがほとばしり出るからです。神の愛が、力ある業となってほとばしり出るのです。父なる神の愛が伴わない冷たい奇跡など、聖書があずかり知らない奇跡です。
ところが、ファリサイ派とサドカイ派の査察官は、「しるし」を見せよと上から目線で命じます。そもそも、そのような態度で、しるしを要求する、そこに既に真の信仰が破たんしていることに気づくべきです。信仰とは、「神よ、あなたが、わたしが思い願っていることをしてみせてくれるのなら、あなたを神と判定します。認めます。」そのような傲慢な態度は、まさに信仰とは正反対なのです。したがって、その態度のままでは、万一にも、主イエスが「しるし」をお見せになられたとしても、彼らにとっては、それではしるしにはならないのです。
しかし、彼らはすでにはっきりと気付くべきです。イザヤ書第35章で預言された、「神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。そのような奇跡が、主イエスにおいてすでに起こっている事実を見て、まさに、このイザヤ書の成就なのだと、その時が来たのだと、認めるべきです。つまり、「時のしるし」を読み取るべきなのです。
主イエスは、明日の天気、今日の天気を読み取りながら、しかし最も大切な「時のしるし」つまり、救いの時、神がメシア、キリストをこの地上に送って下さるその最高の時が遂に来たことを認めない彼らを厳しく批判されます。なぜならそれこそが、少なくとも神を信じる者たちの指導者を任じる宗教の専門家の最低限の責任のはずだからです。
しかし彼らは、最初から気付こうとしません。認めようとしないと決めてしまっているのです。何故なのでしょうか。それは、自分たちの存在と立場とが失われるからでしょう。祭司にとっては、主イエスの主張どおり、エルサレム神殿以外で、礼拝を捧げることが可能となるのであれば、自分たちの既得権益は失われます。ファリサイ派は、自分たちの聖書理解が根本的に間違いであると言われれば、立場がありません。まさにどちらも、これまでの歩み、あり方、考え方を変えなければならないのです。真理の前に生きるとは、そのような事です。
彼らは、ついに最後の最後まで、悔い改めません。彼らは主イエスを十字架につけて行くことにおいて一致するのです。主イエスは、この傲岸不遜な態度を貫こうとする彼らを後に残し、置き去りにして、出て行かれます。そのこと自体で、彼らは悟るべきなのです。自分たちの根本的な間違い、考え違いを認めるべきなのです。
さて、次の物語に進みましょう。こうして、主イエスは、弟子たちと共に、ガリラヤ湖の対岸へと進み行かれます。そこで、主イエスは、先ほどの査察官たち、ファリサイ派とサドカイ派たちとのやりとりを説明されました。そして、彼らにこう仰いました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」すると、どうしたことでしょうか。弟子たちは、トンチンカンな勘違いを起こします。彼らはこう思ったのでしょう。「しまった。自分たちの食事の準備、パンの準備が十分でなかった。また、イエスさまにご心配や、ご迷惑をおかけしてしまうかもしれない。ああ、イエスさまは、わたしたちがしっかりやれないことを嘆いておられるのだろう。」彼らは、主イエスに「叱られた」、そう思ったのだと思います。
そのことに気づかれたイエスさまは、まさに、本当に叱られます。それは、先生からお小言を言われると言うような次元では、まったくありません。主は、叱責してこう言われました。「信仰の薄い者たちよ」。これは、信仰者にとって、どのような意味の言葉でしょうか。一言でいえば、もっとも厳しい言葉です。キリスト者にとって、信仰者にとって、最悪、これ以上ない悪い評価です。叱責です。
先回学びました、あの異邦人の女性、カナンの女性のことを、主イエスが、「あなたの信仰は立派だ、すばらしい、偉大な信仰!」と感激なさった言葉と、正反対です。ここでの弟子の中の弟子、直弟子たちが、「信仰の薄い者たちよ」と主に嘆かれたこの事実を、私どもは深く、胸にしまっておきたいと思うのです。
主イエスは、なぜ、これほどまでに嘆かれるのでしょうか。いったい、人間にとって、人間が暮らして行く上で、パンの問題ほど、切実な問題が他にあるでしょうか。食べるもの、飲むもの、それなしに何も始まらないほど、重要です。ですから、弟子たちは、主イエスが「パンだね」云々とおっしゃったとき、即座に、「ああ、やってしまった。こんどこそ、食事の準備は万全にしておくべきなのに、注意しておくべきだったのに、また同じ失敗をしてしまった。」そう、考えたのは、人間的に言えば、同情の余地があるように思うのです。
しかし、この誤解は、主イエスにとっては、ファリサイ派やサドカイ派の人々が主イエスを誤解して、攻撃を加えたことにもまさって、深刻な問題として御考えになられます。最初から、信じ、従おうとしないファリサイ派やサドカイ派ではなく、しるしを目撃した、直弟子たちでさへなお、イエスさまが、何を目指してしるしを行っているのかが、分かっていないからです。その意味では、敵対者たちよりなお深刻なのです。
しかし、主イエスは、彼らを決して見放したまいません。主は、信仰と真理の教師として、彼らを真理と信仰へと導かれます。深く考えることへと、神さまの、イエスさまのみ心を掘り下げて考えるようにと招かれます。そしてこう仰います。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」 「パンだね」それは、信仰の共同体を破壊してしまう悪しき影響力のことです。コリントの信徒への手紙Ⅰ第5章に、このような御言葉があります。コリント教会に、パンだねが入り込むなら、それを除外すべきである。そうでなければ、パンの粉全体を膨らませてしまう、つまり、破裂させるということです。使徒パウロは、「古いパンだね」を教会の交わりから取り除きなさいと命じます。古いパンだね、それこそが、今ここで主イエスが語られたファリサイ派、サドカイ派の人々の宗教、教えに他なりません。つまり、福音ではなく、律法主義であり、世俗主義です。パウロは、キリストの教会とは、そのようなパンだねが入っていないものだと言い切りました。ただし、現実には、コリント教会には、そのようなパンだねが混入していたのです。これが、現実の教会の姿であります。そして、まさにそこにこそ、地上の教会の戦いがあるのです。
ここで最も大切なことは、私共自身のことです。私どもは単純に、自分たちは、ファリサイ派でもサドカイ派でもないのだから、彼らとは違うと考えることはできないはずです。なぜなら、弟子たちですら、「信仰の薄いものたちよ」と厳しく戒められているからです。
さて、もしかすると、今日の個所は、積極的な主イエスの教え、私どもにとって直接に、励まし、慰めとなるようなみわざを認めることはできないように思います。しかし、私どもはこの個所から、自分たちの信仰の姿勢、あり方をもう一度、掘り下げることができるはずですし、しなければなりません。それはどういうことでしょうか。
主イエスは、私どもにも今朝、「パンだねに注意しなさい」と呼びかけておられます。それは、福音の教えを破壊する、いつわりの教えのことです。先ずは、ファリサイ派の律法主義です。それは、他人のことを、神の言葉で評価し、批判し、裁くことによって、自分の存在を維持しようとすることです。律法主義とは、他人を裁くことによって他人を傷つけ、損ないます。しかし、同時に律法主義とは、しばしば自分自身をも、自分で判断しようとします。つまり、神の愛のまなざしの中で自分を見ようとしないで、自分の描き出した神さま像、イエスさま像に照らして、自分の行動、考え、計画で、自分を評価するのです。そのとき、しばしば、自分はだめだと、自分自身をさばいてしまうのです。そうなりますと、どれほど熱心にまじめに信仰生活をしていても、楽しくない、喜びがともなわなくなってしまうのです。私どもはその過ちから、守られたいのです。
次に、サドカイ派です。これは、世俗主義です。彼らは、エルサレム神殿を中心に生きる宗教を職業にしています。それが、ユダヤ人にとっては、権威の座だからです。尊敬される地位、精神的に尊敬されるということではなく、経済的な安定、裕福さを確保する絶対的な立場です。つまり、神を信じていても結局のところ、それは、自分のこの世における立場がより強固になり、幸福や健康が保証されるから、信じるということです。この考えからまったく自由になっていないのが、私どもの現実ではないでしょうか。
私どもは、弟子たちのように、毎日、生活のさまざまな課題に、言わば翻弄されて生きているのではないでしょうか。信じていながらなお、この世のことで右往左往する自分を時に発見することがあります。つまり、そのような、サドカイ派のパンだねから、キリスト者ひとり一人も決して無縁ではありません。
私どもは先週、聖餐のいのちの食卓を祝いました。主イエスのいのちを豊かにふるまわれました。そうであれば、わたしどもは、もう、いつ死んでもよいほどの人生の究極の平和、究極の安心、救い、確固たる人生観を与えられたはずです。イエスさまが、私どものために十字架について、罪を償ってくださり、三日目に永遠のいのちに甦られ、信じる私どもに、まさにその永遠のいのちを、あふれるほど注ぎ、ふるまっていただいたのですから、「もう、こわいものはない」と告白できるはずです。
あの時、弟子たちは、この世の心配事、パンの問題、つまりサドカイ派の問題で論じあってしまいました。それは、まさに、私どもの現実と重なります。けれども、主イエスは、まさにそのような不信仰な、鈍感な、この世的な関心の中に埋没してしまう弟子同士の議論の真ん中に割って入って下さるのです。それこそ、まさにそれこそが、主イエスの恵み、愛が現れ出てまいります。主イエスは、まるで、生徒に正しい答えをそのまま教えてしまう教師のようにして、仰います。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。」パンのことを指したのではないと仰います。もう、答えが提示されたも同然です。こうして、弟子たちは、分かったのです。彼らの教えに注意しなければならないことを、です。そして、何よりも、その問題は、自分たちも、決して、他人事ではなく、むしろ、自分たちこそ、その責任から言えば、大きな責任があることを、です。
この物語は、確かに小さなエピソードかもしれません。しかし、これは、私どもの教会生活、信仰生活に襲ってくる姿そのものであることを思います。私どももまた、しばしば、時のしるしをみようとしません。今がどのようなときであるか、つまり、主イエス・キリストが十字架について、ご復活して下さった救いの成就の時であることを見失います。それゆえに、思いがけないアクシデントが起こると、不安のなかに落ち込むのです。
しかし、ご復活されたイエスさまは、今、天の父なる神の右に座しておられます。勝利者イエスさまは、今この瞬間も、私どものために、父なる神の右で執り成し祈っておられるのです。それゆえに、私はここで説教をさせていただけるのですし、皆さまはここで、その神の言葉を聴くことができるのです。主イエスが、今、天にあって、激しい労働を、救いのお働きを続けておられるゆえに、世界中の教会が礼拝を捧げることができているのです。
これは、余談になるかもしれませんが、主が、今も生きて働いておられる故に今、フクシマの原子力発電所は、日本をそして世界を壊滅させないのです。世界の終わりは、そのような壊滅的な、破局的な事柄で起こるのではなく、主イエス・キリストが再び来られる、その日に、世界は終わり、同時に完成させられることを私どもは聖書によって教えられています。
私どもは、その時を、神の国が完成するその時を約束されています。聖書によって、主イエスによって教えられたものです。だから、この時代の中で、なすべきことをなせるのです。それは、一言でいえば、伝道です。神の国がここに始まっていることを告げることです。主イエスがなさったのは、まさにそれ以外のなにものでもないのです。主イエスのなさった「しるし」とは、神の国がここに始まったこと、主イエスを信じれば、誰でも神の国の中に入れられること、救われること、私どもは、もはや、この世において生活の不安、悩み、苦しみにとらわれて、それで人生が終わってしまうかのような、いつわりの教え、悪魔の偽りに打ち勝てるのです。
教会の中に、いへ、自分自身の中に、この不信仰のパンだねが膨らむことのないように、それを主イエスのご介入によって、取り除いて頂きましょう。私どもの、不信仰な議論や会話の中に、主イエスが割り込んで下さることを願い、祈り求めましょう。御言葉を聴いて祈ることです。こうして、私どもは、主イエスを主と告白し、信じ、従い直せるのです。私どもは今朝、共に、こう告白しましょう。「わたしのパンの問題、すべての生活の問題、家族の問題、家庭の問題、会社の問題、学校の問題ありとあらゆる生活の部分において、人生のすべての領域において主イエスよ、あなただけが、真実の救い主、主です」。
祈祷
私どもの救い主イエス・キリストよ、あなたは、絶えず、私どもの不信仰と真実に戦ってくださいます。そして、信じない者ではなく、信じる者へと、今朝もこの礼拝式において、説教において、取り戻して下さいましたことを、心から感謝致します。どうぞ、私どもの会話が、私どもの心の思いが、福音によって導かれるのではなく、いつわりの教えに支配されるとき、ただちに、その過ちに気付かせてください。そして、悔い改めて、まっすぐに、あなたに信頼し、ゆだねて生きることができるように、聖霊をあふれるほど注いで下さいますように。アーメン。