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神さまの愛が見えますか?

「神さまの愛が見えますか?」   2011年7月17日
 テキスト マタイによる福音書 第18章12~14節 

【 「あなたがたはどう思うか。
ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 】
 
 
 今朝は、子どもの教会のキャンプの出発礼拝として、主の日の礼拝式を捧げます。毎年、キャンプ委員会が立てられて、キャンプの様々な準備がなされています。大変な奉仕であると思います。心から感謝いたします。
 今年のキャンプの主題は、「神さまの愛が見えますか?」というものです。そして、今、朗読しました、マタイによる福音書第18章の御言葉が主題聖句として与えられました。

 この主題を与えられて、すぐに思ったのは、神さまって、目に見えないお方だなということです。聖書によって教えられているまことの神さま、僕たち私たちの神さまは、生きていらっしゃる神さまです。けれども、ここにいる誰一人として、この目で、見たことのある人はいません。繰り返しますが、誰もいないはずです。「僕は、見たことあるよ」「わたしは、見たことあるよ」と言える人はいないでしょう。先生たちも、大人の人たちも、まったく同じです。本当に、誰一人として、聖書の神さまを、この目で見た人はいないのです。繰り返しますが、誰もいないはずです。「いや、相馬先生は、どうなんだろう。先生は、牧師なんだから、ちょっとは・・・」。残念ながら、やはり、先生も見たことは、ただの一度もありません。
 皆さんは、ちょっと不安になりますか。「頼りないなぁ、先生くらいは、見えてもいいんじゃないかなぁ」と思われるでしょうか。
 先生は、「目に見えないから、頼りない」なんて思いません。けれども、昔は、そうではありませんでした。「神さまって、本当にいらっしゃるのだろうか」そのように考えていたこと、疑っていたことがあります。もう30年以上も前のことです。
 ある時、こう考えました。「神がおられるというのなら、この目に見せてほしい。見たなら信じる。」そして、結局、見ることはできませんでした。そして、こう、心に決めたのです。堅く、決めてしまいました。「神さまはいない。神さまは絶対にいない。聖書に書かれている神さまは、本当はいないのだ。」そう心に決めました。いないことを信じて生きて行こうと、強く思いました。
 それなら、どうして、そんな先生が、今、ここで説教をして、牧師をしているのか、自分自身が、とても不思議です。皆さんは、興味をもってくれるでしょうか。それを、話したら、もう時間がありません。
 
 先生は、今はこう思っています。「神がおられるというのなら、この目に見せてほしい。見たなら信じる。」昔自分がした、このような問いは、そもそも、まじめな質問ではない、不真面目な問いだと思います。そもそも、聖書はこう言っています。「目に見えない神の性質」(ローマの信徒への手紙第1章20節)つまり、天と地と、海と空と、生きとし生けるすべてのものの創造者なる真の生ける神は、人間の肉眼、この目には見えない神さまなのです。

 先生は、目の見えない人、盲人のキリスト者の方々といっしょに礼拝を捧げたことがあります。生まれた時から目が見えなかったり、大人になってから失明したり、様々です。でも、その方々は、先生の説教に耳を傾けてくださいます。今、皆さんもまた、目をつぶって、先生のお話を聴いてくれてもよいのですが、声が聞こえます。そうすると、そこに確かに人がいる、しゃべっているからわかるはずです。
 声を聴くと、分かるということがあります。つまり、神さまのお話を聴くとき、つまり、聖書を読んで、説教を聴くときに、神さまが見えてくる、分かってくるのです。
 先生は、今、この目で神さまを見ていなくても、困らないのはそのためです。神さまが、先生と共にいてくださること、この神さまは、先生にとって天のお父さまとして、共にいてくださること、先生は、神さまから愛されていること、「わたしの愛する子ども」と呼ばれていることを知っています。そして信じています。だから、喜んで生きていられるのです。

 6月の子どもの教会の説教で、三輪先生が、サムエル記上の第16章7節からお話してくださいました。『しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」』とてもすばらしい御言葉です。主なる神さまは、心で見る。神さまには、心の目があって、その心で見て下さる。そして、その神さまの目は、人間が、容姿や背の高さ、つまり、外見だけで判断してしまうのではなくて、その人の目に見えない部分、心の部分、隠れている部分をご覧になられるということです。
 といことは、そこから何が見えてくるでしょうか。どのような真理が見えてくるでしょう、分かってくるでしょうか。それは、神さまご自身こそ、私たちが容姿や背の高さ、つまり、外見、この目に映るようには見えないということです。そのように、見ることはできないということです。神さまは、目に見えないご性質をお持ちなのです。それを、聖書は、「霊なる神さま」と言っています。

 だから、私たちも、この神さまを信じるためには、どうしても、私たち自身の目にみえない部分が大切になります。それはどこにあるのでしょうか。それは、心です。心が肝心です。神さまご自身が、僕たち私たちを神さまの心で見ておられるのなら、僕たち私たちじしんこそ、神さまを心の目でみなければ見えるはずがありません。

 あなたは、「神さまの愛が見えますか?」。神さまは、目に見えません。けれども、何故、先生が神さまを信じることができるのか、そして、信じ続けることができるのでしょうか。先生だけではありません。ここにいるキリスト者の方々は、何故、神さまを信じているのでしょうか。
 神さまが見えますか?ではなくて、神さまの愛が見えますか?と言う質問が大切です。
大切なもの、肝心なこと、人間にとって絶対に必要なものは、愛です。愛されること、愛することです。そして、その愛もまた、やっぱりこの目では見えないのです。今、ここで、みなさん、これが愛ですよ。ここを、見なさい。と、指差して見せることもできません。
 
 そのとき、人は、お話をするのです。今晩は、きっと大人の人たちが劇を演じてくれると思います。先生も、どんな劇なのか、まったく知りません。一つの楽しみです。劇を通して、何かを見せたいのです。それが、愛。神さまの愛だと思います。
 
 神さまは、僕たち私たちに、さまざまなモノを与えて、喜ばせて下さいます。山や川の中で、神さまが与えて下さったすばらしいモノ、被造物と言いますが、そのモノを見せて下さいます。それは、神さまからの愛のプレゼントです。けれども、それだけだと、神さまがどのようなお方なのか、はっきりとは分かりません。
 そこで、神さまは、それを見せて下さったのです。それが、神さまの御子のイエスさまです。イエスさまを見つめていると、誰でも、天地の創造者の神さまが分かります。
 そして、イエスさまは、お話をしてくださいます。このお話によって、神さまの愛を見せて下さるのです。今朝そして、今晩も、このお話を聴きたいと思います。
 「あなたがたはどう思うか。
ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
 
 ある山に、100匹の羊がいました。羊たちは、いつも群れとして、お互いにいっしょにいます。そして、草を食べながら、歩き回っていました。ところが、一匹の羊が、どうしてしまったのでしょうか。その群れから、迷い出てしまったのです。羊は、とても目が悪いのです。どれほど、悪いかというとちょっと信じられないほど悪いのです。20メートル、30メートル先に何があるのか、まったく分からないそうです。実は、わずか、数メートルしか見えていないらしいのです。
 その一匹の羊は、草を食べるのに夢中になって、群れから離れてしまったのでしょうか。夢中になって、気付いたら、友達の羊、兄妹の羊、お父さん、お母さんの羊と離れてしまったのです。どんなに、びっくりしてしまったことでしょう。すぐに皆のところに戻りたいはずです。けれども、見えません。怖くなって、一生懸命、走り出してしまったかもしれません。そして、それは、どんどん、群れから離れてしまうことになってしまったのかもしれません。そして、羊は、足が遅いだけではなく、運動が得意ではありません。でこぼこの、荒地に行くと、躓いてしまったり、穴に落ちてしまうこともあるのです。もしも、穴に落ちてしまったら、もう、大変です。もう、あきらめなくてはなりません。自分の力で、穴からはい上がることはできません。後は、そのまま死んでしまうか、狼が来て、これは、ラッキーだ、これは、すごい、全然、苦労しないのに、おいしそうな羊が、食べてくれといわんがばかりに、目の前にいる。そんなことになってしまうかもしれません。

 さて、イエスさまは、こう仰いました。「こんな場合、もし、あなたが、その羊の羊飼いだったら、すぐに、99匹を山に残して、捜しに行かないことがあるだろうか。捜しに行くはずでしょう。」
さて、ここで問題です。本当に、僕たち私たちは、イエスさまがおっしゃるように、99匹を山に残して、この一匹を捜しますか。
 99匹を山に残してしまったら、どうなるでしょうか。羊は、羊飼いがいっしょにいて、守ってあげないと、とても危険です。檻の中に入っていれば、よいのですが、放牧しているのです。山で、放し飼いにしているのです。99匹が固まっていれば、狼が来ても、全員、食べられてしまうと言うことはないはずですが、でも、もし、狼が来たなら、少なくとも、何匹かは、食べられてしまうはずです。
だったら、考えてしまうでしょう。99匹とたったの一匹、どっちが大切になるか。きっと、幼稚園の年長さんや小学生だったら、すぐに、答えがでると思います。99匹に決まっている。
でも、イエスさまは、いやいや、1匹を捜しに行きますと仰るのです。不思議です。とても不思議です。

 実は、このお話は、神さまの愛のお話です。天のお父さまとは、どのようなお方なのかということを、イエスさまが説明しておられるのです。神さまは、たった一匹でも、迷子になって、悲しんで、苦しんで、怖がっている羊がいたら、じっとしていられないお方なのです。
 もちろん、神さまは、99匹なんてどうでもよいなどとお考えになられません。99匹の一匹一匹のことも、迷子になって離れてしまった一匹のように、心を留めておられます。愛しておられます。
けれども、今、この一匹を見放すわけにはいかないのです。名前を呼んでくださいます。なぜかと言うと、この羊飼いにとって、この一匹は、ただの一匹ではないからです。かけがえがないのです。
 かけがえがないと言うのは、100匹の羊の中で、この羊以外の羊はいないし、他の羊一匹一匹も、同じなのです。

 この羊とは、僕たち私たち人間のことです。僕たち私たちは、羊飼いの神さま、イエスさまの羊の群れなのです。そして、その群れの一匹ですが、この一匹は、他の羊では、置き換えられません。たった一匹、独自の羊です。「オンリーワン」です。

 この羊を捜すためなら、どんな犠牲でも支払うし、この羊を見つけることができたら、喜びは爆発するのです。それほどまでに、神さまは、僕たち私たちのことを愛しておられるのだと、イエスさまは、このお話で、教えて下さいます。
 そして、このお話を聴きながら、先生は、自分じしんのことと重ねて聴きます。先生もまた、イエスさまがお話してくださった羊飼いに、捜していただいた羊だからです。イエスさまこそ、まことの羊飼いとして、先生のところに来て下さいました。
 そのためにどれほど、羊飼いのイエスさまが苦しい目に遭って下さったかを思います。天国の栄光の位、天のお父さまと共にいらっしゃる光に満ちた、愛と喜びに満ち溢れた天国から、この世界に降りてきて下さいました。この世界は、暗闇でした。イエスさまのことを喜んで、神さま、王様としてお迎えしなかったのです。むしろ、イエスさまを憎み、イエスさまを無視し、イエスさまを十字架につけてしまったのです。
 けれども、イエスさまは、始めから、ご自分が、この迷子になってしまった羊を、もう一度、羊の群れ、羊飼いが一緒にいてくださる羊の居場所、檻の中に入れるために、十字架の上につけられることをご存じでした。むしろ、十字架につく以外に、先生を、本当の居場所、天国に入れる方法がないことをご存じの上で、この地上に、先生を捜しに、救いに来て下さったのです。
 天のお父さまは、神さまが御子イエスさまのいのちを犠牲にしてまでも、これ以上にありえないほどの尊い犠牲をはらってでも、先生を、そして、ここにいるひとりひとりを、愛し抜いてくださったのです。イエスさまは、事実、十字架についてくださったのです。
 ここに愛があります。ここに神さまの、天のお父さまの、イエスさまの愛があります。先生は、この聖書のお話を高校生のとき、大学生のとき、30年以上前に、聴きました。そして信じました。すると、どうでしょか。この愛が見えてきました。毎日、見えて来るようになりました。つまり、2000年の昔、イエスさまが十字架についてくださったということで、終わってしまうのではなく、今、この瞬間も、イエスさまが生きていらっしゃることを、信じることができるようになったのです。今も、父なる神さまの愛を感じることができます。愛されていることを、もう、疑うことができなくなりました。
 天のお父さまは今、そして御子なる神さまのイエスさまは今、僕たち私たちが持っているこの聖書とそのお話を通して、繰り返し、愛を見せて下さいます。そのようにして、愛を注いで下さるのです。  
神さまの愛が見えるでしょうか。どうぞ、心の目で見て下さい。人間にとって、なくてならないもの、生きて行く上で絶対に必要なものは、この神さまの愛、神さまからの愛を受けることです。心を開いて、心の目で、見て下さい。
繰り返します。そのために、僕たち私たちはどうすればよいのですか。イエスさまのお話を聴くことです。聖書のお話を聴くことです。そうすれば、見えてくるでしょう。僕たち私たちもまた、神さまを愛し、お友達を愛して、ここから出発しましょう。

祈祷
 天のお父さま、今、あなたの愛が見えてきます。私たちの心の目を開いて、御言葉を聴いたからです。どうぞ、もっともっと、神さまのお話を聞かせて下さい。そして、もっと、神さまに愛されていることを喜び、僕たち私たちもまた、神さまを愛し、お友達を愛して生きて行くことができるように導いて下さい。