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信仰告白する人の幸い

「信仰告白する人の幸い」2011年7月24日

テキスト マタイによる福音書 第16章13~20節 ①

【 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、
「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
弟子たちは言った。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが、
「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。】

 
先週は、子どもの教会のキャンプにまいりました。契約の子ら、そして地域の子ら、しかも初めて出席した子どもたちも加えられ、祝福された恵みに満ちた時を過ごすことができました。奉仕者の皆さまに心から感謝いたします。準備と当日、本当に大変です。しかし、いつも思わされますが、結局、子どもたちの笑顔を見ることができること、その笑顔や喜びが、奉仕者を支えてくれるのです。これからもまた、地域の子らの救いのために、そして何よりも契約の子らが全員信仰告白できるために、教会の祈りを一つに集め、教会を挙げて奉仕をささげてまいりたいと願います。

本日のテキストは、2回に分けて語る予定です。今朝は、その前半を中心に説き明かしたいと願います。この個所は、実は何度も、説教で取り扱ったことがございます。なぜなら、私ども名古屋岩の上教会の名称の由来となる御言葉がここに記されているからです。その意味で、この説教は、私どもの教会にとっては特に、大切な個所と言ってもよいかもしれません。
さて、今、主イエスと弟子たちとは、フィリポ・カイサリアの地方にいます。辺境の地方です。少しおさらいしますが、その前に、主イエスは、ティルスとシドンの地方、つまり、異邦人の町、カナン人の住む町に出かけられました。またそこから、ガリラヤ湖畔に赴かれました。多くの病人を癒し、4000人以上の人々に食事をふるまわれました。そして、このようなイエスさまの神の国の伝道の力あるお働きに対して、遂に、ユダヤ人の指導者たち、ファリサイ派とサドカイ派の人々が(政治、文化、経済、宗教すべての中心であるエルサレムから)査察のためにやってきました。そして、こう尋ねたのです。「お前は本当に、『メシア』つまり救い主なのか、その証拠を見せなさい。」
つまり、主イエスのお働きは、既に一般の人々はおろか、宗教指導者たちにとっても、まったく無視できない影響を及ぼしていた事態にあったわけです。速やかに判断を下し、行動しなければならない状況に立ち至っているということです。

さて、そこで、そのような状況の中で、主イエスご自身が、立ち上がられます。主イエスご自身の方から、弟子たちにこのように問われるのです。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。ここで注目すべきことは、主イエスは、人々のことを問われたということです。つまり、人々と弟子たちとをすでに、はっきりと線引きしていらっしゃるということです。弟子たちは、イエスさまに対する人々の噂を聞いていました。そこで、こう情報を告げます。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」先ず、洗礼者ヨハネについてです。これには、驚かされます。なぜなら、既に彼は、迫害を受けて殺されてしまっている人だからです。殺されたヨハネが生き返ったと言うことです。人の噂話というものが、いかにいい加減なもの、根拠のない、突拍子もないことが多いことがわかると思います。
次は、『エリヤ』です。このエリヤとは、今も、ユダヤ人にとっては、モーセ以降最大の預言者と考えられています。エリヤは、偶像崇拝者、バアルの預言者たちと一人で戦って、見事な勝利を獲得した人でした。列王記下には、エリヤは、死なないで天に昇ったという記事があります。そこから、エリヤは再び、我々のところに戻ってくる、救い主とは、あのエリヤのような人、エリヤだと、ユダヤ人は考えていました。
その他には、涙の預言者エレミヤです。あるいは、ぐっと評価が下がって、「預言者の一人」という人たちもいました。

さて、これらの記事を私どもは、どのように読むべきでしょうか。2000年後の今、とりわけ、3:11の大震災以降、この日本において、私どもの周りの人々は、イエスを誰だと考えているのでしょうか。あるいは、キリスト教、あるいは神をどのように考えているのでしょうか。
極めて残念なことですが、神や主イエスに、救いや宗教に、キリスト教に対して真剣に考えない人々がなお多数いらっしゃると思われます。ただし教養として知識欲を持つ人々は少なくありません。こうして、噂のレベルのような知識を、自ら確かめてみないまま本当のこととして受け入れてしまうことが多いように思います。
わたしは、ここで単なる批判をしているわけではけっしてありません。むしろ、そこにこそ、私どもの大きな責任があることを、自覚する者です。キリスト者、教会は、ありとあらゆる方法で、自分たちがおかれたそれぞれの立場の中で、情報を発信しなければならないはずです。伝道の責任から解かれているキリスト者は一人もいません。伝道する人を応援していますということでは、キリスト者としての使命に生きている、特権を用いていることにはなりません。
また、3:11の大震災以降、真剣に「神などいないではないか、創造者だとか自然を支配するだとか、そのような力ある愛の神などいないではないか」このように批判する方々も生じてくるかと思います。私どもは、そのような方々のことを、きちんと受け止めるべきことを、主イエスから示されるのです。そして、まさにそのように声を出す人にこそ、福音は証され、告げられることが必要であり、有効なのだと思います。

さて、テキストに戻りましょう。主イエスは、弟子たちからの報告を聞くだけで、終わりません。なぜなら、この質問のまことのご目的は、弟子たちひとりひとりにあったからです。主は、彼らをしっかりと見つめられ、厳かにお尋ねになられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
主イエスを誰だと言うのか、何者だと言うのか、これこそ、決定的に重要なことです。人生でこれ以上に大切な問いはないでしょうし、これ以上大切な答えもありません。
しかも、ここではっきりとわきまえていたいことがあります。それは、信仰の告白とは、常にこのお方から問われて、なすものだということです。信仰告白とは、神から、問われるものなのです。そこにも生ける神の主権が鮮やかに示されます。
そしてそこで何よりも、見えてくる真理、見つめるべき恵みの真理があります。それは、「信仰告白」とは、神から差し伸べられる決定的な絆のことだということです。神が作り出して下さる交わりのパイプ、綱、接点、接合点、結節点です。この部分がなければ、神との生命的なかかわりを持てないのです。そのような生きた関わりがなければ、その人にとってのカミとは、どこまでも、思想としての神、知識としての神、偶像でしかありません。
「神について知っていること」と、「神を知ること」との間には、決定的な開きがあります。無限の開きがあります。神を知るとは、神との交わりに生きている、生かされていることです。神について知るとは、その関係性がありません。神について知っているその人の心の中だけ、頭の中だけ、そこで完結してしまうのです。終わってしまうのです。生きた存在、言葉を換えれば、人格をもった存在ではありません。つまり、神について知る人は、いつも自分が主人公です。自分が、自分の都合に合わせて、神について思いをはせるのです。「神とはこれこれこうだ。神はこう考え、こう行動するのだ」と、自分であれこれ考え、最後に自分なりに納得するのです。自分なりの答えを出して済ましてしまうわけです。しかしそのような神とは、聖書の生ける神とは、まったく違います。どれほど、聖書を読んで、聖書の知識を蓄えていたとしても、結局、「神についての知識」は、偶像にしかなりません。
「神さまはいるのか、いないのか、今、神さまは何を考え、どのように行動するのか、3:11において神さまはどこにいるのか」。しかし、もし、それを生ける神ご自身に問いかけることをしないなら、結局、何の答も与えられないはずです。自分で考え、自分で答えるだけでしかありません。
丁寧に申し上げる暇はありませんが、そもそも、聖書を深く読めば、巨大な自然災害を受けたとき、「神はいるのか」という問いそのものを出すことはできなくなるはずです。

キリスト者は誰もが、洗礼を受けるとき、「誓約」を求められたはずです。私どもの教会の式文には、6項目の誓約があります。あなたはこれらのことを信じるのかという問いに対して、「はい、神と教会の前で謹んで誓約いたします。」こう応えることを求めます。その上で、洗礼を施すわけです。
さて、そこでこそ、キリスト者として、きちんとわきまえていたいことがあります。この信仰の告白、誓約の行為は、人生で一度限りのことでしょうか。確かに洗礼入会の誓約は、一生で一度限りのことになるでしょう。しかし、信仰を告白することそのものは、決して、一度限りのことではありません。
私どもは、今朝も、ニカヤ信条を唱え、教会の信仰を、自分自身の信仰として告白しました。そのようにして、礼拝を始めました。また、説教を聴いて、賛美を歌います。これもまた、信仰の告白に他なりません。神の恵みへの信仰の応答として歌うのです。献金感謝とその祈祷も同じです。御言葉の恵みと神の愛の真実への応答、信仰告白として捧げ、祈るのです。信仰告白なき、礼拝など、まさに空虚な儀式でしかありません。
そればかりではありません。私どもは月曜日からの週日の生活の中で、日々、絶えず、神から問いかけられているはずです。「あなたは、今ここでわたしのことを誰だと言うのか。今まさにこの瞬間に、あなたは、このわたし、このイエスを何者だと告白するのか」これが、私どもの毎日の信仰生活に他なりません。そこに私どもの信仰の決断、戦い、選択があるわけです。信仰の告白とは、毎日のことになるわけです。

もう一度、確認したいと思います。私どもの神は、主イエスは、何故、私どもにそのように問いかけて下さるのでしょうか。「信仰告白」とは、神から、主イエスから、一方的に絆を結ぼうと差し伸べられる手だということです。神が作り出して下さる交わりのパイプ、綱、接点、接合点、結節点です。まさに、そこに、そこにこそ神の恵みと愛があふれ出ているのです。これを握手でたとえることができると思います。主イエスは、ここで弟子たちに、自ら手を出されたのです。天国へと導きいれようとする力強い、協力な握力です。もし、手を出せば、握手は成立します。
実は、先々週のこと、名古屋の社会福祉協議会の方が、我が家をお訪ね下さいました。というのも、この夏、養護施設に預けられている子どもを、一週間受け入れるプログラムに、家内が応募したからです。しかし、子どもの人数に比べて、応募者が多数あって、今回は、見合わせることとなりました。受け入れる家庭が多くあるということは、とても嬉しいことです。家内のように広報を見て、申し込まれたのだと思います。親と一緒に暮らせない子ども、親を失った子ども。乳幼児であれば、まさに、自分からは何もできません。言えません。ただ、自分に関わってくれる大人を待つ以外にありません。そして、大人が関わってくれるそのとき、乳幼児は、生きることができます。いのちを明日につなげることができます。私どもは手を出しましたが、他の方も手を出されました。社会福祉協議会のコーディネーターさんは、他の方の手を子どもに差し向けられたのだと思います。そして、この夏、子どもたちはその方々の家で過ごすのです。すばらしいことだと思います。

主イエス・キリストがお示しくださった神、主イエスの父なる神は、私どもの天のお父さまです。このお父さまは、御子なる神を天から私どもの地上に派遣されました。御子なる神は、イエスさまとなってこの地上にお生まれ下さいました。降りて来られました。そのようにして、天のお父さまは、私どもに一方的に、関わって下さったのです。一方的に、絆を結んでくださったのです。父なる神の愛がほとばしり出て、御子なる神は人となられました。そして、人となられた御子はイエスさまと名付けられ、私どもにかかわって下さいました。私どもを神の子とするため、天国の民とするため、私どもに近づいてくださったのです。そして、遂に、今、イエスさまは、弟子たちに決定的、究極的に関わって下さるのです。そのためにこそ、まさにそのためにこそ、主イエスは、ここでこのように問うてくださったのです。何と言う恵み、愛でしょうか。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」この問いは、イエスさまと答える人との間に、絆を結ぶ、決定的な行為なのです。主イエスは、このように一方的に問いかけて下さることによって、弟子たちを、ご自身との真実の出会い、真実の交わり、真実の関わり、真実の結びつきへと招いておられるのです。
この問いを無視するなら、イエスさまとの絆、神とのかかわりを結べなくなるのです。相手が、友達になりたい、宜しくと手を差し伸べられた時、その手を振り払ったり、手をださなかったりしたら、絆は、結ばれません。愛がなりたちません。愛は、その愛を受け入れること、受け止めることによって成立するものだからです。たとい神であっても、私どもとご自身との間に、勝手に愛を作り出すことはできないのです。愛は、まさに自由だからです。人格的な行為だからです。
主イエスが、ここで、あなたは私を誰だと言うのかと問われたことは、言いかえれば、「あなたは私を愛するのか」と言う問いと一つのことなのです。ヨハネによる福音書第21章、最後の場面で、主イエスがペトロに問われた「あの問い」です。

さて、弟子たちの中で、さっと手を出したのは、ペトロでした。すぐに、答えたのです。嬉しかったのだと思います。このようにお尋ねになられたとき、ペトロは、これまでの主イエスに対する思いを、告白できる喜びのときが来たと、チャンスが与えられたと考えたのだと思います。
他の弟子たちも同じだと思います。ただ、遠慮深いと言うか、注意深いというか、じっくりと考えてからお答えしたいと思ったのかもしれません。それに対して、ペトロは、彼の性格ということもそこにあったかもしれませんが、ただちに答えたかったのでしょう。このようにお応えします。「あなたはメシア、生ける神の子です」ペトロは、渾身の愛をこめて、主イエスをたたえる思い、賛美と感謝、喜びをこめて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたはずです。
メシアとは、救い主を意味します。ギリシャ語におきかえれば、キリストです。「イエスさま、あなたはキリストでいらっしゃり、生きておられる神の御子です。」これもまた、来週、学びますが、まさに完璧な、主イエスに対する信仰告白です。世々の教会は、この信仰を軸にしながら、基にしながら、イエスさまとは誰であるのかを告白してきたのです。

主イエスは、ペトロの告白を聴くや否や、こう喜びにあふれて高らかにおっしゃいました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」「幸いだ、シモン・バルヨナ!」主イエスは、こう呼びかけられたのです。マタイによる福音書の読者が、このマカリオイというギリシャ語を聴くと、ただちに思い起こすのは、山上の説教の最初の教え、八福の教えであろうと思います。「幸いである。心の貧しい人々。」「幸いである。悲しむ人々」「幸いである、柔和な人々。」「義に飢え渇く人々、」「憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々」、そして、最後に「義のために迫害される人々」と結ばれます。
ここでも、この幸福の教え、主イエスの祝福の宣言が響き渡っています。本当に、あなたは幸いだよ。幸福な人だ、祝福に満たされている。シモンのことを、ご一緒に喜んでくださるイエスさまの愛のお心があふれています。
そして、こう結ばれます。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」イエスさまが誰であるのか、何者、どなたでいらっしゃるのか、それを、明らかにしてくださるのは、決してペトロじしんの理解力、認識力が卓越しているからではないとおっしゃるのです。それは、ただ天のお父さまだけが、その人に教えて下さる以外に分からないものなのです。それまでは、誰の目にもベールが、覆いがかかったままになるのです。しかし遂に今、ペトロは、天の父なる神さまによって、その覆いを取り払って頂いた、イエスさまの父なる神が、天のお父さまが自らこの幼子のようなペトロに、信仰を与えて下さったのです。
そのことを、他ならないイエスさまが、これほどまでに喜んでいらっしゃると言う事実。そこから、私どもは、メッセージを聴き取ります。私どもが神の子として、天国に入れられるということが、どれほど、主イエスのお喜びになるかということです。主イエスが、どれほどまで真剣に、激しく、私どもを救おうと願っていらっしゃるかを思います。
そして、まさにそのために、主イエスは、一方的に弟子たちを選ばれ、一方的に弟子たちと絆を結んでくださるのです。そして、まさに、そのお心が成就したのです。確かに、ペトロ自身も、信仰を告白できたことを喜んだし、誇らしく思ったし、感謝したのだと思います。しかし、この物語を読むとき、それにはるかにまさって、イエスさまご自身が感激しておられる、感動しておられる、喜んでおられるそのお姿が目に焼きつくのです。
来週もまた扱うことになるかと思います。実は、ペトロの信仰告白の言葉そのものは、100点満点でしたが、実は、その言葉そのものを自分自身は、正しく認識しそこなっていることが、すぐに分かってしまいます。ペトロは、主イエスにサタンとすら呼ばれてしまうのです。しかし、彼は天国から漏れてしまいませんでした。何故なのか。それは、差し伸べられた手がものを言ったからです。主イエスの握力がすべての全てになるからです。彼の不十分な信仰の理解、いへ、間違った信仰理解さへも、ご存じで、それだからこそ、主イエスは十字架に赴かれて、ペトロのため、そして私どものためにも、御血を流して下さったのです。この十字架のイエスさまのおかげで、未熟な 信仰であってもなお、主の喜びとすらなるのです。
今朝、私どもは礼拝式へと招かれました。礼拝式は、御子なる神に向かって、「あなただけが、メシア、キリストです。あなただけが生きておられる神、御子なる神です。」と告白するときです。そして、未熟な信仰告白から、深く正しい信仰の告白を目指して、御言葉を学び続け、説教を聴き続け、それに生きる努力を惜しまないのです。
しかも今、わたしどもは一人ではなく、神の民、神の家族全員がそろって、告白しています。幸いの極みです。しかし、そのような私どもを心から喜ばれる天のお父さま、そしてその右に坐しておられる主イエス・キリストが喜んでくださるそのイメージをこそ見て、喜びはさらに深まるのです。
私どもは、マカリオイ、幸いな人と、イエスさまに呼びかけられています。だから幸いなのです。本物の幸いとは、この神に幸いと宣言して頂くことです。それこそが、地上にあって揺るぎない真実の幸福なのです。イエスさまは、今朝、「イエスさまをキリスト、生ける神の子」主イエス・キリストと告白する私どもを、そのように宣言してくださいます。この幸いこそ、いかなる地上の幸いも比べることのできない、絶対的な幸い、幸いの源です。この幸いがなければ、他の幸いはすべて空しくなります。
たとい、「自分には、この幸いしかない、なくなってしまった」と言う人がいらっしゃっても、それでなお十分に生きて行けるでしょう。おそらくは、この幸いがあれば、やがて、地上の幸いも作り出されて行くでしょう。しかし繰り返しますが、たとい何一つなくなったとして、それでも、この幸い一つがあれば、私どもは希望をもって、地上で信仰の生活、その戦いを継続できるはずです。私どもには、天国が約束されているからです。すでに、地上にあって、その天国を味わい始めているからです。この幸いを心から感謝して、私どもの周りの方々にも、この信仰告白の喜びへと促し、導くために、福音を伝道し、証に励む一週間としたいと願います。

祈祷
天の父なる御神、私どもを救うため、神の子とするために、あなたが御子を与えて下さいました。そのようにして、一方的に絆を結んで下さいました。そして、今、あなたから差し出された愛の絆に手を伸ばします。御子をキリスト、神の御子と、主と告白致します。その信仰を、聖霊によって私どもにお与えくださいました恵みと幸いを心から感謝いたします。
どうぞ、主の日に告白したこの告白をもって、明日も明後日も、生活のどの場面においても、仕事に従事するときも、勉強する時も、子育てをするときも、家庭の生活においても、いついかなるときも、イエスさまを主と告白し、この告白通りに、生活する者とならせてください。あなたが始めて下さったこの信仰の旅路を、どうぞ、あなたの恵みの力によって全うさせてくださいませ。