「岩の上に立ち続ける教会 -あなたもペトロ!-」2011年7月31日
テキスト マタイによる福音書 第16章13~20節 ②
【 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、
「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
弟子たちは言った。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが、
「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。】
本日は、先週に引き続いて、同じテキストから御言葉を学んで礼拝を捧げます。先週は、二回にわけて学びますと予告いたしました。今朝は、その二回目です。しかし、どうしても三回に分けて学ぶことになります。
さて、先週は、主イエスが、弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられた個所にスポットライトを当てました。そして、ついに、シモン・ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えて、人類の中で、まさに最初にイエスさまに対して、イエスさまがどなたでいらっしゃるのかを、ただしく言い表すことになりました。私どもは、このイエスさまに対する告白こそ、人間にとって究極の言葉、決定的に大切な言葉なのだと学んだわけです。
そして、この信仰の告白とは、他でもなく、主イエスご自身の方から質問してくださる、尋ねて下さることによって、成り立つものなのだと学びました。そもそも、聖書を読むということ、聖書を正しく読むということは、そこから神からの、私ども自身への語りかけ、御声を聴くことに他なりません。したがって、聖書は必ず説教されることを要求します。音声化され、語られることを求めています。ですから、聖書を通して神の御心を知りたい、神さまを知りたいと願う人は誰でも、聖書の朗読と説教が必要になるのです。そして、神さまは、今日も、私どもに聖書を通して、語り変えて下さいます。*「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」この問いが、今朝も私どもに聴こえてまいります。
次に、この問いかけは、弟子たちにこそ与えられるものです。何故でしょうか。それは、弟子たちは、既に、十分に、イエスの教えを聴き、イエスのみわざを目撃し、そのようにして、自分たちに注がれたイエスの愛を知らされたからです。
しかも、先週、確認いたしました。この問いかけは、人格的な問いかけでした。この問い自体のなかに、愛が込められているということです。つまり、主イエスは、この問いを通して、弟子たちと「絆」を結ぼうと招かれる行為なのです。主イエスが自ら、手を差し伸べられたということです。握手のたとえを致しました。この握手は、決定的な握手です。主イエスが、私どもに向かって、「あなたを神の子とする、神の子としたい、そのために、わたしはあなたを選んだ、あなたのために罪の贖いを十字架で成し遂げた。だから、あなたも今、このわたしの手を握り返してほしい。今、わたしはあなたにとって、誰であるのか、それを告白しなさい。」そのような、神の愛の現れの行為なのだと学びました。
さて、シモン・ペトロは、誰よりも早く、イエスさまをメシア、つまりキリストと告白します。もとより、そこには、マタイによる福音書の著者じしんもいました。わたしは、彼や、いへ他の弟子たちもまた、*「あなたはメシア、生ける神の子です」*と告白したかったのではないかと想像致します。ペトロは、弟子たちを代表するような思いの中で、告白したのだと思います。そして、何よりもこの信仰の告白、この信仰の言葉こそ、キリスト教信仰の原点になりました。
皆さまの中でも、ご存じの方は多いと思いますが、キリスト教会には、いくつかのマークが用いられます。おそらく誰でも知っているのは、十字のマークでしょう。十字架のマーク、キリスト教という風に結びつくと思います。その次に、有名なマークに何があるでしょうか。それは、おそらく、魚のマークだと思います。ギリシャ語で魚のことを、イクスースと言います。何故、キリスト教と魚とが深く結ばれるか、それは、ペトロの信仰告白に、もうひとつだけ、救い主という告白をつけると、「イエス・キリスト・神の子・救い主」となります。ギリシャ語では、「イエスース、クリストス、セウー・ヒュイオス、ソーテール」と言います。その頭文字をとると、イクスースとなります。ですから、信仰のシンボルとして、魚の絵を用いました。
主イエスはこのとき、この告白を心の底から喜ばれました。そして、祝福を宣言なさいました。「幸いだ。シモン・バルヨナ」いうまでもなく、主イエスのお喜びは、遂に、明確に、この弟子たちは、天国に入る者とされていることが、客観的に、目に見える形で明らかにされた、保証されたとご理解なさったからです。
イエスさまが、私どもに「幸いだよ」「幸いな人だ」と告げて下されば、それは、何を意味するかと申しますと、「天の国はあなたのもの」という約束、保証が伴うからです。いへ、イエスさまに、あなたは「幸いな人」と告げられたなら、その瞬間、その人は天国に入っているのです。神の御子なるイエスさまと絆を結んでいただいたからです。握手していただくことによって、そこで、イエスさまとその人との間に、いのちが通いあってしまうからです。神のいのちが注がれるのです。天国のひかり、天国の水、天国の栄養が、いのちがその人が差し出した手、それは、信仰の手です。信仰そのものがパイプとなって、流れ込んでくるからです。
主イエスは、そこで、ペトロ自身に、弟子たちに、信仰を告白するという行為、あるいは出来事の隠れた真理について、はっきりと宣言されます。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」これもまた、私どもの教会にとって、決定的に大切な真理です。つまり、ペトロ自身に代表される、キリスト者たちは、信仰を告白した人々は、彼らが何かすぐれた理解力や信仰心があったからではなく、ただ、父なる神さまが、その聖霊によって、ペトロに、つまり人間にお与えくださるものだということです。つまり、信仰とは、救いとは、人間の側の賢さだとか善い行いだとかの一人間側の一切の条件などに関係がなく、ただ神の恵みによってのみ、与えられるものだということです。それを、恵みと申します。主イエスは、今、この恵みの現実を目の当たりにして、心の底から喜んでおられるのです。
さて、今朝最も集中したいのは、その次の御言葉の真理です。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」主イエスは、弟子たちが、信仰を告白したときから、ご自身がこの地上に来られたご目的、つまり十字架につき、ご復活されることを、ここで明確にお示しになられて行きます。そして、そのイエスさまのお苦しみは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と宣言されたこのご目的を成就するために他なりません。
ここに、遂に、主イエスの明確なご意思が明らかにされました。主イエスは、復活し、天に戻られた後、この地上に、ご自身の教会の建設のご計画、ご意思、ビジョンをはっきりとお示しになられたのです。この宣言の中に、どれほど主イエスのお力が込められているかを思います。この短い宣言のなかで、「わたしは」と、まさに身を乗り出して語られることば、その「わたし」が二度繰り返されるのです。どれほどの強調でしょうか。極めて強いアクセントがかかっています。教会とは、何か。それは、わたしの教会なのだ。このキリスト、生ける神の子イエスさまの教会だという自己主張です。そして、そのご自身の教会は、徹頭徹尾、徹底的にこのわたしが建てると宣言なさるのです。
教会に生きるすべての者たち、とりわけ、教会の役員たち、長老と執事たちにとって、この御言葉を常に心にわきまえていることは、どれほど重要でしょうか。逆に申しますと、私どもが、この単純素朴な事実を、どれほど軽んじ、忘れてしまいことがあるかとうことです。つまり、聖書に即した、御言葉に従った教会ではなく、自分たちの思うような教会へと転落させる罠です。自分たちが教会の主になってしまうのです。自分たちの力で、自分の手で、しかも自分たちの好みに合わせた教会を建設しようとする誘惑です。そこに私どもの罪がどれほど、深く、教会形成を疎外することになるのかも、見えてくるように思います。罪の中でももっとも深刻な罪と言っても言い過ぎではありません。
あるいは、さらにこのような罪を犯す危険も、実は少なくありません。これもまた、特に教会役員たちの課題になることです。それは、教会を自分たちが守って行かなければならないという、一見、信仰に富んだかのような思いにしばられることです。つまり、教会のための思いわずらいに陥るということです。「自分が、自分たちが何とかしなければ、教会はどうなるだろうか。」おそらく伝道所委員になると、むしろ、このような思いを抱くことを、経験するのだろうと思います。開拓伝道の歩みの中で、わたし自身、どれほど、この思いわずらいの罪を犯し、これと闘ってきたことかと思います。明日の教会、今日の教会のことを思うと、不安で押しつぶされそうになる、そのようなことを、何度も経験してまいりました。決して、昔話ではありません。なお、完全に、そのような思いわずらいから、解放されているわけではありません。しかし、そこに、私どもの罪が明らかにされます。この思いわずらいは、反転するときに、さらに大きな罪を犯すことになってしまうのです。つまり、自分がこれだけ、このようにしてきたから今の教会があるのだという、思いあがりの罪です。これこそ、先ほども申しましたように、罪の中でも最も深刻な罪です。
この罪によって、キリストの教会は、人間の教会へと転落するのです。あるいは、最初からそのようなキョウカイである場合も、あり得るのです。教会を、牧師さんの個人経営のような事業や仕事にしてしまうということも実際にあり得ること、起こっていることです。
だからこそ、私ども名古屋岩の上教会は、この「岩の上」を重んじるのです。この主イエスの聖なる、厳かなご決意の基に教会を据えるのです。据えなければならないのです。皆さまは、洗礼入会の前に、子どもカテキズムを学んでいただいたはずです。教会は常に、信仰告白を学び続ける、信仰問答、カテキズムを学び続けるのです。信じたらとにかく、すぐに洗礼をということでは、ないのです。
ただし、まさに注意しなければ、最も大切なことを見落とす危険性も出てくることをわきまえていたいのです。それは、この岩とは、究極においては、主イエス・キリストご自身に他ならないという真理、事実です。「この私が、わたしの教会を、わたしじしんの上に建てる。」これこそ、神の教会、キリストの教会の本質なのです。それほどまでに、徹底して、教会は主の教会、キリストの教会なのです。だからこそ、今朝もニカヤ信条によって、ご一緒に「唯一の聖なる公同の教会」と告白できるし、すべきなのです。教会は、この聖なる神の教会であって、唯一の神の教会だからこそ、この教会は一つなのです。全時代に渡って、また今や全世界、全地方に渡って無数に存在していますが、しかも唯一のものなのです。教会とは、徹底的に神のもの、主イエス・キリストのものなのです。
さて、それなら、特に信徒である私どもはどうすればよいのでしょうか。「そうか、それなら教会の役員、宣教長老である牧師と治会長老さん、そして執事さんたち、つまり教会役員さんたちに、頑張ってもらいましょう。しっかりと、教会を治めていただきましょう」と、お客さんのようになってよいのかということです。当たり前すぎることですが、そのような理解は間違っています。そうであれば、ローマ・カトリック教会の教会理解と同じことになってしまいます。いへ、現代のローマ・カトリック教会は、驚くほど、「信徒使徒職」と言う言葉を用いて、信徒一人一人が、神から受けた信徒としての務め、神からの使命を担おうと励んでいらっしゃるのです。
さて、あらためて御言葉を聴きましょう。主イエスは、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになられました。それに対して、ペトロは、真っ先に、「あなたはキリスト、生きておられる御子でいらっしゃる神さまです。」と応えました。それに対して、主がさらに、お答えになられたのが、これです。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。」今や、イエスさまはキリスト、生ける神の御子であるとの信仰が表明され、主イエスの真実が明らかにされました。それに対して、今度は、主イエスご自身が、この「シモン・バルヨナ」とは誰なのかと、告白されるということです。ここでは、告白という表現はふさわしくありません。主イエスが、シモンとは誰なのか、何者なのか、正しく、そして初めて、お教え下さったのです。これこそ、今朝、2011年の名古屋岩の上伝道所の会員である私どもが聴きたい御声です。これまでのここからの説教で強調しなかった点なのです。
そもそも、シモン・バルヨナとは誰のことでしょうか。16節で、明らかです。シモン・ペトロのことです。このペトロは、12弟子の中で最初に弟子とされた人でした。ヨハネによる福音書第1章によれば、シモン・ペトロの弟のアンデレが、「お兄さん、わたしたちは、メシアに会いました。」と告げて、兄のシモンを主イエスに導いたのです。すると、主イエスは、彼を見つめて、こう仰いました。*「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ-『岩』という意味-と呼ぶことにする。」*先ず、「ヨハネの子シモン」を説明しますが、これが、つまりバルヨナという名称の意味です。バル・ヨナとは、ヨハネの子という意味です。次に、バルヨナ・シモンには、ケファつまり岩というあだ名がつけられます。これをギリシャ語に言いかえるとペトロになるのです。つまり、ペトロというあだ名は、最初からつけられていたことが分かります。
だからこそ、既に、この16節で、マタイによる福音書は、「シモン・バルヨナ」のことを、「シモン・ペトロ」と紹介したのです。シモンは、すでに皆からペトロと呼ばれていたのでしょうし、主イエスもペトロと呼んでおられたと想像できます。それなら、なぜ、本名の彼、「シモン」に向かって、ここであらためてわざわざ、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。」と呼びかけなさったのでしょうか。本人は、どんな思いで聴いたのでしょうか。弟子たちはどのような思いで聴いたのでしょうか。
ここで掘り下げて考えてみましょう。イエスさま、何故、わざわざ、あらためて、ペトロと呼ばれたシモンを、言わば仰々しく、ペトロと改めて呼ばれるのでしょうか。
ペトロ、ケファつまり、岩なのだということです。しかも、この岩のまことの意味が、ついに、ここで明らかにされる、されたのです。つまり、この岩とは、教会の土台となる岩という意味だったのです。この岩の上にご自身の教会が建てられると言うことです。
そしてそれは、繰り返しますが、シモン・バルヨナ個人に当てはめられると理解する必要はありません。むしろ、この告白をした人たち、全員が主イエスから、このように宣言されるのです。「あなたはペトロ!」弟子たち全員は、ペトロです。教会の土台になるのです。
ここでどうしてもエフェソの信徒への手紙第2章19節以下を朗読したいと思います。使徒パウロはここで、教会の本質を、建物になぞらえてこのように言い表しました。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」教会は、使徒や預言者という土台、つまり岩の上に建てられているのです。
ニカヤ信条で、「唯一の聖なる公同の教会」と告白する直前に、「使徒よりの」とあります。これこそ、教会の本質を表すためになくてならない側面なのです。ここでも、説教で丁寧に申し上げる暇はありません。「使徒よりの」とは、「使徒的」と訳すこともできます。要するに、使徒の教えに基づくという意味です。聖書の教えです。つきつめれば、それが、信仰告白となるわけです。だからこそ、信仰告白が大切という議論に戻るのです。
しかし、今朝は、さらに深くわきまえたいのです。ペトロとは、誰のことを意味しているのかという、素朴で、しかし、決定的に大切な真理です。岩、ペトロ、教会の土台とは、イエスさまに「あなたはキリスト、生ける神の子、救い主」と告白したすべての弟子のことを示すと言っても言い過ぎではありません。どれほど、ローマ・カトリック教会の神学者と議論しても、少なくとも完全に一致できるはずの真理は、信仰を告白した信徒であれば、誰でも、神の家、神殿という建物の一部分だということです。
私どもは、今朝、この物語を、単に、歴史の傍観者として読むこと、聴くことは、決してできません。それでは、今朝のわたしの説教は、説教になりません。神の言葉を語っていないことになります。皆さまは、神の御声を聴いていないことになります。この御言葉から、私どもは、主イエスから、「あなたはペトロですよ!」と呼びかけられたのです。主イエスは、私どもにこう宣言しておられます。「岩の上教会の信徒の一人、ひとり、あなたは、わたしの教会のペトロですよ。岩ですよ。」
しかし、もしかするとそのとき、ただちに、このような思いがよぎるかもしれません。「何か困難や不安なことにぶつかると、すぐに心挫けてしまう弱い信仰者でしかない私のことを、岩と呼ぶなんて、イエスさまの目はどうかしていらっしゃる。イエスさまは、わたしのことを、買いかぶられていらっしゃる。本当のわたしのことをご存じないのだ。」
いいえ、違います。もう一度、聴きましょう。ヨハネによる福音書第1章*「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ-『岩』という意味-と呼ぶことにする。」*主イエスは、シモンがバルヨナであることを、彼に会う前から、自己紹介するはるか前からご存じなのです。神さまだから当たり前と言えば、当たりまえです。しかし、この主が、このシモンのことを、完全にご存じなのです。これは、後で、丁寧に学ぶはずです。このシモンは、この完璧な信仰の告白を唱えながら、23節で、ただちに主イエスから、「サタンよ、引き下がれ」と、天から地に落とされるような、最悪の叱責を受けることになります。
主イエスは、そのようなシモンであることを、最初から、ご存じでいらっしゃるのです。しかし、それにもかかわらず、「あなたはヨハネの子シモンなのであるが、このわたしが、『岩』と呼ぶことにする。」と宣言なさり、彼の真実と本当の姿、そして何より使命を教えられるのです。つまり、岩そのものでいらっしゃる主イエスが、シモンを岩と呼ぶことはすなわち、主イエスが全責任をもって、ご自身の教会の岩、土台として用いるということです。主の決意が宣言されているのです。ここでは、決して、シモンの資質が問われたのではありません。キリスト教信仰とは、最初から最後まで、神の恵みの圧倒的なご支配による勝利の信仰なのです。
わたしもまた、自分自身のことを、人間的に見れば、まことに、もろい岩です。いへ、もろい岩どころではありません。小さな石ころでしょうか。あるいは、くずれやすい豆腐でしかないかもしれません。皆さまはいかがでしょうか。
しかしもし、私どもがイエスさまに向かって、「あなたはキリストです。わたしの救い主です。主なる神です。」こう告白したら、告白へと導かれ、促されたのであれば、洗礼を受けているのであれば、大丈夫です。主イエスが、「あなたは岩ですよ」「教会の岩なのです」と宣言し、何よりも、このお方が、必ず、責任をもってそのように建てあげて下さるからです。
今朝もまた、主イエスから差し伸べられた愛の御手、愛の絆を結ぶ御手が、私どもに差し伸べられています。私どもは、天の父なる神さまのもとから、注がれる聖霊を受けて、今、手を伸ばすのです。握手するのです。信仰を告白するのです。この黄泉の力を圧倒する神の力の握力が、私どもを建てあげて下さるのです。だからこそ、私どもは今週もまた、安心して、この告白に生きる、生きることへと踏み出す、出発するのです。こうして私どもは、いよいよ、キリストの教会として、ひとりひとりがバラバラにではなく、一つの教会として、神の家として、神の建物として、主イエスご自身によって建てあげられて行くのです。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、信仰の弱い者です。心折れやすい者です。しかし、あなたは私どものすべてをご存じでいらっしゃいます。そして、私どものこの弱さに、あなたは負けられません。あなたが、私どもを選ばれたからです。そして、黄泉の力、死の力すらも対抗できない強さ、力を私どもに与えて下さいます。今、私どもの目を、自分の弱さに向けることをやめます。主イエスを仰ぎ見ます。どうぞ、私どもの教会をいよいよ岩の上に立つ教会として形成してください。そして、教会の使命を自覚し、いよいよ熱心に、教会の務め、教会の業にいそしむことができますように。アーメン。