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愛ゆえの対決

 「愛ゆえの対決」2011年8月14日
テキスト マタイによる福音書 第16章20~23節

【 それから、イエスは、ご自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 
主イエス・キリストからの救いの恵み、神の愛、聖霊における豊かな神との交わりが皆様と共に、おひとりお一人の上に豊かにありますように。今朝も、皆さまと共に礼拝を捧げる特権にあずかれました事を心から感謝致します。

今朝は、改めて20節から読みました。「それから、イエスは、ご自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」イエスさまがメシアであることを誰にも話してはならない。これは、とても不思議な命令ではないでしょうか。私どもは先週の説教の結びで、こう主の命令を聴きました。「天国の鍵を行使しよう。そのために、天国の福音、神の国の福音を、イエスさまのことを伝えましょう。一人でも多くの人に、天国に入っていただくよう、伝道しましょう。これが、鍵の権能を預かった教会の責任です。このために全力を、注ぎましょう」そのように御言葉を聴いたのです。
ところが、この時の弟子たちは、実は、伝道するなと命じられているのです。イエスさまがメシア、つまりキリスト、救い主でいらっしゃることを「誰にも」話してはならないと戒められたのです。一体、どういうことでしょうか。これは、驚きではないでしょうか。
その答えは、明らかです。当時のユダヤ人の抱いていたメシア理解に問題があったからです。つまり、人々にとってメシアとは、エリヤの再来を意味しました。エリヤとは、14節ででてまいりました預言者です。偶像礼拝者たち、バアル宗教の指導者たちと彼は対決して、勝利した神の預言者でした。そして、ユダヤ人たちは、自分たちが存亡の危機に陥ったときには、神はもう一度、あの偉大な預言者エリヤを遣わして下さって、政治的な勝利、戦争における勝利を実現なさる、これが、当時のユダヤ人のメシア観だったのです。ですから、イエスさまがメシアであるという情報を単に彼らに流せば、彼らは、いよいよイエスさまを誤解する、そのことを主イエスは案じておられるのです。それが、このときの禁止命令の意味です。
今日の日本の私どもの状況においては、言うまでもありませんが、キリストご自身についての聖書的な知識を日本人はほとんど共有していません。従って、福音を宣べ伝えることこそ、急務です。様々な方法を駆使しながら、聖書のメッセージ、福音を証し、伝言すべきです。
主イエスご自身が、天に戻られるとき、弟子たちに、つまり私どもに厳かにこう命じられました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の御名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」私ども教会は、まさに、今この命令に全身全霊をあげて服従することが呼びかけられています。
このテキストの一つの結論を最初に申し上げることにもなりますが、私どもの教会がここで懸命にしていることとは、結局、いかなることでしょうか。それは、人々の誤解を解くこと、そう言えると思います。主イエスとは誰か、教会とは、キリスト教とは本当のところどのようなものなのか。圧倒的に大多数の人々が誤解しています。あるいは、聞いても理解できません。分かってももらえません。通じないのです。それを、何度でもへこたれずに、説き続ける、それが日本の教会の伝道の現実です。
いへ、違います。日本だけの特殊な問題ではありません。このとき、主イエスこそ、この誤解と戦っておられることを、私どもは今朝、知るのです。しかもその誤解、分かったつもりで分かっていない弟子たちの物分かりの悪さを何としても打ち破ろうとなさった主イエスの激しい愛の物語、それが、今朝の物語なのです。

さて、21節です。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」弟子たちがまさに、正しく信仰を告白したこのときから、主イエスは、もっとも大切なことを弟子たちに打ち明け始められます。それなら、主イエスのご生涯で最も大切なこととは何でしょうか。それは、十字架と復活のみわざです。贖いのみわざです。ペトロをはじめとした弟子たちを、そして私どもを天国に入れるための救いの手続きです。私どもにとりまして、たとい、これまでの主イエスの教えとみわざの全てを忘れたとしても、この一点、ここだけは、忘れてはならない、そう言うことがここで語られたわけです。
ニカヤ信条でも使徒信条でも、およそ、私どもの告白するイエス・キリストに対する信仰の告白の中で最も重要な条項です。ニカヤ信条では、イエスさまがどのような説教をなさり、どのように人々にかかわって下さったのか、ただの一言も語られていません。不思議と言えば不思議かもしれません。イエスさまを知るためのエピソード、物語、何一つとして語られていません。ただ、主イエスがおとめマリアより肉体を受けて人となられた出来事から、一気に、十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目に甦られたそのことだけを告白しているのです。つまり、私どもの救いのために、イエスさまのご降誕(受肉)、十字架と、ご復活これが要になっているわけです。
そして主イエスは、ついに、この弟子たちに、その御業、つまり、一言で言えば福音の出来事を「打ち明け始められる」のです。そこにはこれまで以上の関係が築かれたこと、これまでとは質の違う絆が結ばれたということが示されています。信仰告白とは、そのような特別の主イエスとの関係が結ばれることを意味しているわけです。今まさに、主と弟子たちとの信頼関係は、これまでとは質が違う、あるいは次元が違う、そのような言わば新しい段階へと入ったということです。信頼関係とは、愛の関係のことです。主イエスは、どれほど、この時が来るのを待ち望まれたことかと思います。まさに、主イエスは打ち明けられる。神の秘密です。ご自身が地上に来られた奥義です。最も大切な福音を、彼らに打ち明けられる、信頼があるからです。仲間だからです。
主イエスは、断固「必ず、殺され、復活することになっている」と語られたのです。それは、絶対に、何が何でも、こうしなければならないという、まさに一歩も引けない、一歩も譲れないぎりぎりの行為、そのような発言です。何故なら、それこそが、父なる神の御心だからです。聖書に書いてある通りなのです。それもまた、ニカヤ信条にあります。「聖書にかいてある通り三日目に甦る」これが、旧約聖書の預言なのです。主イエスは、この旧約聖書を正しく理解し、そしてまさにご自身が、人の子として、つまり、神から派遣された救い主として果たさなければならない職務、それは、ご自身を人類の罪の償いをなしとげるためにご自身のおいのちを、罪のない全存在を、神にささげるためだと証されたのです。このことが実現できなければ、人類の救いが破たんしてしまうのです。まさに、必ず、絶対に、十字架で殺され、三日目に復活することが必要なのだと主イエスがご決意くださっているのです。
このご決意、まさにこの主イエスの御心をこそ、愛というのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙第5章8節でこう言います。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」キリスト・イエスが罪人である弟子たちのために十字架で身代わりになって死んで下さること、そこにおいてこそ、神の愛が完全に、徹底的に、究極の姿をとって啓示された、明らかにされたのです。
つまり、主イエスが、まさにこの後、時を経ずして起ころうとすること、そこから決してご自身がお逃げになられないというそのことを打ち明けられたということは、まさにご自身の弟子たちに対する愛の告白以外のなにものでもないと言うことが分かります。言葉の最大限の重みを込めて、人間、人類にとって最も大切な神の御心、福音の真理を主イエスは愛し、信頼する弟子たちに打ち明けられ、彼らが信じ、共にこの道を歩んでくれるようにと願われたのです。

ところが、まさにここで、とんでもないことが起こってしまいます。誰が、予想できたかと思うほどの、おそるべき事態が起こってしまいます。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ここでもペトロが弟子たちの筆頭として登場します。ペトロは、イエスさまをわざわざ、呼び出して、個人的に、声をひそめていさめるのです。いさめる、これは、目上の者が目下の者にだけ許される行為のはずです。年長者が年少者に向かって、まさに上から目線で、間違いや失敗をたしなめる行為です。
ペトロは言います。「とんでもないことです。」これは、かなりの意訳です。直訳すれば、「主よ、神があなたを憐れんで下さいますように。」です。つまり、ペトロは、よりによって主イエスが、信仰が弱くなって、心細くなって、消極的、否定的な思いに駆られてしまったと思いこんだのです。「主よ、神の憐れみがありますように。」これは、実に、ペトロが主イエスを励ましている言葉なのです。大丈夫ですよ。ご安心ください。
次の「そんなことがあってはなりません。」は、こうです。「必ず、そんなことがおこってはなりません。絶対に、そんなことを起こしてはなりません。起こるはずがありません。」つまりは、主イエスの「必ず、こうなる。」「絶対、こうする」という愛の宣言、愛のご決意を真っ向から否定する発言にほかなりません。
このペトロの発言の急所は、十字架を回避させることです。苦しみを、筆舌に尽くしがたい苦しみ抜きの救い主になっていただきたいと言うことです。

確かに年齢から言えば、弟子たちの中で、ペトロは年長者だったのでしょう。そして、イエスさまよりも年上であったのだと思われます。ペトロは、ここは敢えて一つ、申し訳ないが敢えて言わなければならない。それが、自分の責任であろうとい思います。思い上がります。
確かにペトロの側には決定的な、まったく言い訳のきかない落ち度があります。ただし、わたしは、ペトロの行為は、イエスさまを思えばこその純粋な気持ちであったことも確かだろうと思うのです。さらに、言えば、愛に根ざしていたとすら言い得ると思うのです。

しかし、主イエスは、彼のその言葉をゆっくりと、真実に、真剣に最後までしっかり聴いた上で、主は、まさに弟子たちにも聴こえるように、振り向いて、そして大きな声で叱責し、いさめたのです。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」「サタン、引き下がれ」直訳すれば、「わたしの背後にまわれ」となるでしょう。何度読んでも、何度聴いても、めまいがするような激しく、厳しい叱責です。主イエスは、ここでペトロを、わたしはこの岩の上に教会を建てると約束された、天国の継承者、世継ぎであるペトロを、サタンと呼んだのです。
ただし、これは、聖書の解釈者の中で、理解が分かれるところです。このサタンとは、悪魔のことに他なりません。それなら、このサタンとは、誰に向けて語られたものなのでしょうか。素朴に読めば、ペトロです。それなら、ペトロはサタンそのものなのでしょうか。言うまでなく、違います。サタンとは、実在する霊的な存在のことです。神を否定する世界の「主」です。暗闇の世界の「王」です。そして、サタンは常に、働き続けています。
もし、主イエスが、主の弟子であるペトロじしんをサタンと呼んでしまわれたら、いったい誰に、この地上において聖なる天国の鍵を授けられるというのでしょうか。もはや、教会の土台とするというあの宣言、あの約束は、どこかに吹き飛んでしまうのではないでしょうか。しかし、確かに、ペトロはここでサタンと呼ばれています。何故なのでしょうか。それは、サタンに支配されたからです。
それなら、サタンに、悪魔に支配されるということはいかなることなのでしょうか。とても単純、簡単なことです。メシア、キリストの十字架の苦難と死を告白しない者のことです。十字架を抜きにした救い主を思い描く、いかなる企てもすべてサタンの発明だということです。イエス・キリストとは、十字架に向かう救い主なのです。それ以外のところで、イエスさまを信じるということは、キリスト教とは無縁なのです。真理ではないのです。救いにならないのです。
主イエスは、このペトロに対して、「あなたはわたしの邪魔をする者。」と戒められます。もとの言葉は、「つまずき」です。つまり、ここでペトロは、教会の土台ではなく、主イエスをつまずかせる石になってしまっているのです。天国の鍵を授けられる幸いな人から、サタンに。教会の巌、土台からつまずきの石に、一気に転落してしまうのです。主イエスをつまずかせ、転ばせてしまう、前進なさる主イエスの前に立ちふさがっているのです。

ここで決して誤解してはならないことがあります。主イエスが何故、これほどまでの表現をなさったのかということの意味です。いへ、これは単なる強調表現などではありません。本当に、サタンと呼ばれたことの重さです。彼は、サタンに屈服し、引きずられ、主イエスと敵対したからです。主イエスから十字架を回避させること、それこそ、サタンの企てそのものだからです。実に、サタンの狙い、そして企てること、その目標はただ一つです。主イエスを人類から切り離し、ひとりでも多くの人間と共に地獄へと誘うことです。死と滅びの世界に誘うために、激しく、現実に働いているのです。天国は現実です。現実の存在です。しかし同時に、サタンも、そして地獄も現実です。現実に存在し、激しく活動しているのです。

主イエスがここでなさっておられる激しく厳しい戦いとは何でしょうか。それは、人々の誤解を解くことです。何よりもここでの弟子たちの思い違い、物分かりの悪さ、鈍さと戦っておられるのです。愛をもって対決してくださったのです。そのようにして、それを打ち破ろうと、まさにこれ以上ないほど真剣に向き合って下さるのです。そのようにして、究極の目標、神の選びの民をもれなく天国へと招き入れるようにと、心を込めて語られるのです。その選びの民の中に、言うまでもありませんが、このペトロが入っているのです。だからこそ、ペトロからサタンを追い出し、サタンの支配から、主イエス・キリストの支配へと確実に留め置こうとして、こう、命じられたのです。「サタン、引き下がれ。」この厳しい叱責の言葉は、実に、ペトロを救いだす言葉に他なりません。
主イエスを転ばせよう、つまずかせようとするペトロとは、実は、本人自身がここで転んでしまっています。主は、転んでしまっているペトロを真実に立ちあがらせようとして、彼に向き合い、そのようにしてサタンそのものと対決しておられるのです。

主イエスは、加えて説明されます。「神のことを思わず、人間のことを思っている。」主イエスはこのみ言葉で、まさにペトロの最も深いところ、まさに急所になる一点を目がけて、語られます。そして、今朝、ここでみ言葉の説教を聴く私どもにも、私どもの最も深いところに、その一点について、主は問いかけておられます。
ペトロが苦しまれ、殺されるイエスさまを否定したこと、そのようなキリスト像を否定したということは、つまるところ、そのような主にはお従いしたくないという気持ちがあったからです。
自分たちは天国の世継ぎ、そればかりか地上にあって天国の鍵を授けられるまでに、神に用いられる。祝福される。この上ない権威を授けられる。究極の恵み、幸福を享受できる。まさに、彼らは夢見心地になって、先週の主イエスのみ言葉を聴いたのでしょう。けれども、その祝福をもたらすために、どれほどの苦難を主イエスが支払わなければならないかについては、まったく考えられなかったのです。そして、自分たちが、そのような道を歩むことも、想像していなかったのです。
結局そこで問われ、明らかにされたことは、弟子たちは、神のことを第一に思っていないそれが暴露されたのです。主イエスは、山上の説教で、教えられました。「神の国とその義を先ず求めなさい。そうすれば、人間が生きる上で必要なものはすべて添えて与えられる。人間が生きる上で必要なことは、冒頭で申しました通り、主イエスが顧みて下さるのです。しかし、そこで、私どもが、神の国とその義、神の支配、神の主権、神の栄光を第一に求めないのであれば、たとい地上の必要なものが十分に、十分すぎるほど与えられたとしても、それでは、空しいのです。天国が開かれないからです。つまり、天国が閉じられてしまうからです。サタンの支配下におかれ、縛られてしまうからです。

今朝、わたしどもはもう一度、この主イエスのこれ以上にないほどの厳しい叱責のみ言葉の前で、自らを顧みたいと思います。私どもは今朝、自分の信仰生活、教会生活を根本から問い返す、その意味では、まことに危険なみ言葉を聞いたのです。いへ、本当に聞いたのかどうかは、ここからが分かれ道です。
私どもは、み言葉を聞くことを、形式的に考えていてはなりません。主の日に、教会に来ていれば、自動的に自分の信仰は確かであり、天国に通じるのだと、楽観することはできません。皆さまを敢えて不安に陥れようと考えているわけでは決してありません。聖書を読めば、そのことを認めざるを得ないからです。
ですから、私どもは、今朝もここで聖霊を切実に求めるのです。このペトロが、正真正銘、弟子として、使徒として立ち上がった、立ち上がれたのは、ひとえに、主イエス・キリストの祈りとそれにともなって注がれた約束の聖霊のおかげだからです。聖霊なる神さまだけが、彼らの心を照らし、キリストのまことのお姿を理解させることがおできになるからです。キリストの真実のお姿、それは、人間が思い描く宗教、人間が思い描く理想、人間が思い描くものとは異なっているのです。その誤解を解くこと、思い違いを打ち破ること、物分かりの悪さを聡くさせること、すべては聖霊の恵み、賜物だからです。聖霊よ、来て下さい。

キリストと私どもとの個人的な関係は、そのまま教会と私どもとの関係に反映してしまいます。キリストと神を第一にしようとするとき、その人は、現実の教会生活を第一に生き、教会に仕え、教会の重荷を担い始めるのです。
今朝、この御言葉の前に、私どもは出ています。今朝もまた、愛する主イエス・キリスト、私どもをこの上ない愛をもって、十字架でご自身を捧げるこの上ない愛をもって、私どもを愛し続け、天国へと招き続ける主イエス・キリストがここに臨在されます。
わたしは確信しています。この主に、叱責されたペトロは、やはり、幸いな人だということです。主イエスは、真剣です。愛において真剣なのです。わたしは、いったいペトロはどれほど主イエスに愛され、大切にされ、重んじられているのかと思います。サタンの誘惑と支配とに、どんなことがあっても奪われないように、断固、人間のことを思う彼を、神のことを第一にするペトロに立ちあがらせ、育てたもう主の愛に、ただ感謝するのみです。そして、そのようにして、この愛は、私に、私どもにも今、注がれています。
この主の愛の激しさ、深さを思う時に、牧師である私は、深く、自らを問わなければならなくなります。わたしは、それほどまでに会員を叱責したことが、はたしてあるだろうかという問いです。どうして、そうしないのか。そこに、わたし自身の足らなさをはっきりと示されます。わたし自身、どれほどの真剣さをもって天国を思い、神を思っているのか。それだけに、皆さまをどんなことをしてでも、あるいは、どれほど誤解を受け、反発されたとしても、「自分勝手な、自己中心に生きてはなりません。神とその国を第一にしなさい。Soli Deo Gloria!と告白して生きて行きなさい!」と、こう叫べているのかと思うのです。
しかし、主イエスは、今朝、語って下さいます。「あなた方のために苦しむキリスト、このわたしだけが、救いなのです。そして、このキリストを告白することだけが救いなのです。」私どもは今、この天国の始まりそのものであるキリストご自身の教会に招かれています。この幸いを心から喜びたいと思います。そして、人間にとって最も大切な福音の真理を、他ならない物分かりの悪い、誤解しやすい、人間を自分を優先する、まことに小さな、つたない弟子であるこの私どもに打ち明けてくださった主に、そして主イエスの聖なる福音を理解させ、信じさせて下さった、主なる神に真実の感謝を捧げたいのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どももまた聖なる福音の説教を聴きながら、あなたを誤解し、無理解の中で、人間を、自分勝手な信仰理解をもって、進み行こうとします。この罪を、御前に懺悔致します。どうぞ、私どもを真実の、正しい信仰告白へと導き返してください。常に、十字架のキリストへと信仰のまなざしを集め、焦点を結んで、主に従い抜くことができますように。そのためにこそ、主イエスよ、あなたのみ言葉を聴かせて下さい。聖霊よ、あなたのお働きによって、福音の真理を悟らせて、従う者として造り変え続けて下さいませ。アーメン。