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「いのちに至る道」

「いのちに至る道」
2011年8月21日
テキスト マタイによる福音書 第16章21~28節
【このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」】

今日も、主の日の礼拝式を捧げられることがゆるされました恵みを、心から神に感謝いたします。そして、ここに来るだけの健康が支えられ、様々な用事を抱え、課題を掲げながらも共に礼拝式を捧げることができますことを、本当に嬉しく思います。主の恵みと平和が、皆さまの上に豊かにございますように。

ペトロは、主イエスから、あなたはわたしを誰だと言うのかと、信仰を問われました。そして、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。その時から、遂に、主イエスは、ご自分がこの地上に来られた究極の目的を語り始めて下さいました。十字架と復活の福音です。私どもにとっては、これまでの主イエスの教えや奇跡のすべてを忘れても、これだけ信じていれば大丈夫と言う、贖いの御業、救いの御業をついに予告なさったのです。

ところが、実に、ペトロは、ただちに、主イエスを「わきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」救い主が、十字架で死なれるなどということは、絶対にあってはならないことだと否定しました。ペトロたちは、主イエスに従った最初の日から今日まで、つき従えば従うほど、主イエスの後を大勢に人々がついてきますし、その評判はいよいよ高まるばかりでした。そして今やついに、天国の鍵を自分たちに与えてくださるとまで主イエスの祝福を受けているのです。ペトロたちは、今まさに夢心地の気分だったはずです。

ところが、その夢を一瞬にして、ぶち壊すかのような、まさにとんでもないことを主イエスが語られ始めるのです。ユダヤの王の王になるべきイエスさまが、そのユダヤ権力によって殺されなければならない。といことは、自分たちもまた、殺されて行く・・・。彼は、そのような自分の将来を認められなかったのだと思います。
結局、ペトロの救い主、メシア理解とは、他のユダヤ人たちとほとんどかわるところがなかったのです。そして、それは、結局のところ、主イエスが厳しく指摘された通りだったのです。「神のことを思わず人間のことを思っている」つまり、神を第一にしないで、自分のメシア観、メシア理解を第一にしたのです。

ただし、ここで誤解されやすい点であるゆえに、まさに大切な点、急所があります。ペトロは、神さまのことなどまったく思っていなかったのでしょうか。あり得ないと思います。生活のすべてを捨てて主イエスの弟子になったのです。ただし、彼は、そこで、人間的な思いの枠のなかで神を思っていたのです。自分に引き寄せてイエスさまのことを考えたのです。神と自分や自分たちの国の将来を同時に思っていたということです。そして、それこそが、主イエスの叱責、「神のことを思わず人間のことを思っている」の意味なのです。

今朝、皆さまと共に、そこでこそ見えて来るペトロの罪理解、ことばを換えれば、ペトロの救い理解、罪や救いというものをどのように考えていたのか、まさにペトロの急所の中の急所について、掘り下げて学んでまいりたいと思います。そして、まさに主イエスが、今朝のテキストにおいて語られたのは、そのためであったのです。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」

主イエスは、ここで、「人は、たとえ全世界を手に入れても」と仰いました。庶民の中の庶民であるわたしにとっては、この主イエスの譬えは、あまりにも現実離れしてしまい、想像もできません。それだけに、危険です。ここで語られた御言葉の重さ、その真理を、受け止め損ないかねないからです。想像力の翼をはばたかせたいと思います。

先週、NHKの大河ドラマ「江」をたまたま見ました。それは、太閤秀吉の死のシーンでした。秀吉は、言わずと知れた足軽から天下人となった戦国時代の最大の権力者になった人です。彼は、最後には朝鮮半島を侵略しようと試みました。しかし、これは、夢破れたのです。そして、後継ぎの秀頼の将来を家臣に託して死にました。豊臣秀吉、まさに権力を手中にして、自分の思い通りに祭りごとを行います。そのために、犠牲になった人々ははかり知れません。秀吉について、キリスト教の側から言えば、まさに否定的に語らずにはおれません。しかし、今朝は、その暇もありません。秀吉そして家康などは、まさに、晩年、天下統一を果たして、莫大な権力、富を手に収めたのです。

彼は、今どこにいってしまったのでしょうか。死にました。厳しいことですが、彼は、自分の命を失ってしまったのではないでしょうか。いうまでもなく、彼の名は、歴史に残りました。しかし、神の歴史の中に刻まれることはなかったのではないでしょうか。天国にその名を記されることはなく、地上の命を終えてしまったのではないでしょうか。

もとより、秀吉にとっては、そのようなことには、まったく何の価値もおかなかったでしょう。しかしそれは、彼が、「自分の命を救いたいと思う者」という御言葉を真実に聴かなかった故でしょう。理解できなかったからだと思います。病気になり、老齢の身になって、彼は、どれほど、自分の命を救いたいと思ったことでしょうか。そのために自分の富を、惜しむことなく使ったはずです。しかし、主イエスがここで「命」と仰ったことは、直訳すれば「魂」です。つまり、肉体の生命、地上の限りある生命のことを指しているのではないのです。魂の救いです。

そして、それは、決して秀吉だけの問題では、まったくありません。圧倒的に多くの人々が、求めていることは、自分の肉体の生命の救いでしょう。それは、単に長生きをしたいということを意味しているわけではありません。その意味は、自分の権力、自分の力を振るえる範囲を広げて行きたいという、自分の欲望、自分の夢、自分の願いのことです。秀吉自身が求めていたことは、結局、それに尽きるのではないでしょうか。彼には、もしかすると、それしか価値がない、人生においてそれだけが確実なものだと思っていたのかもしれません。

まさに秀吉が日本の覇権を手に入れた時、この日本で、イエズス会のキリシタン伝道も大変な勢いで広がっていました。そして、実にこのとき日本人は初めて、魂の問題に眼が開かれて行くのです。霊魂の救い、アニマの救いを知るのです。

後にキリシタンとなった、近世医学の祖と言われた道三と言う優れた医師がおります。彼は、イエズス会の司祭フィゲイレド病を癒してあげました。有名なフロイスという司祭の記録に、この二人の対話が残っています。(フロイス書簡・1585 年8 月27 日付)

「司祭は、霊魂の健康を求めることにすべての注意と努力を払うべきだと言った。道三は、これに答えて、ところで人間の中に、肉体の生命より長く続くようなものがあるかと尋ねた。フィゲイレドは「そうだ、在る」と、彼の問いかけを肯定した上で、「全宇宙の上に、不滅の一原理と栄光があり、これが創造主で、天と地の絶対の主であり、その恩恵によって霊魂もまた永遠に生き、その恵みで救われ」、「この原理は、最高、無限の知恵と善意を持ち、全宇宙および特にその各々の被造物に存在と生命、および各々が持つ技能を与える」ものであると述べた。」

 道三は、禅宗の信者でした。彼の仏教では、人間は息を引き取れば一切は虚無になる、なにもなくなると言うのです。ですから、道三は、非常に驚いて、やがて、キリシタンになって行くのです。

日本人がまさにはじめて魂の存在に目覚めて行くのです。永遠に残る霊魂というもの、それは、主イエス・キリストに十字架と復活の贖いの恵みによってだけ、救われ不滅のものとされることを知るのです。

こうして、日本人の精神史に、ほとんど例のなかった殉教、つまり、真理のために、自分の思想、信条をいのちをかけて貫く人たちが現れたのです。それほどまでに大切なものが人間にあること、言いかえれば、人間の存在とは、人間とは、それほどまでに大切な尊い存在だということが日本人に分かってきたのです。それが、分からなかったのが、秀吉たち、弾圧者、迫害者たちです。彼らは、命を脅かしてしまえば、自分たちに屈服するものとばかり考えたのでしょう。だからこそ、あのような恐ろしい弾圧、迫害の方法を生み出したのだとも言えるかもしれません。しかし、私どもは既に第10章12節で、こう学びました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

いずれにしろ、ここで主イエスが、いのちを救う、いのちを失うと仰ったのは、この肉体の生命のことではありません。神から人間にだけ与えられた部分、人間を人間たらしめる部分、魂なのです。永遠の存在とされる、不滅の存在とされる魂のことです。主イエスは、たとえ全世界の富と力を獲得したとしても、80年か100年かで終わってしまえば、何の得があろうかと仰います。つまり、主イエスは、弟子たちに、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。何も得にならない!自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。どんな金銭、富をもってしてでも、自分の命を買い戻すことはできない。」そう宣言し、警告しておられるのです。

逆に申しますと、主イエスは、ペトロをはじめ弟子たちに、ご自身がお与えになられたこの驚くべき救いの重さを、はっきりと語られたということです。「ペトロよ、弟子たちよ、あなた方は、どれほど幸せなのか。あなた方には、霊魂の救い、魂の救い、究極の救いを受けているのだ。天国はあなた方に開かれているのだ。だから、この救いを、本当に大切にしてほしい。」
もはや、主イエスが、何故、ここで、このようなことばをペトロに語られたのか、分かってくるのではないでしょうか。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」ペトロも弟子たちも、救いを求めている、それは、間違いないことです。しかし、いったい救いとは何でしょうか。道三は、かつて、息を引き取ったら人間は何もなくなるのだと考え、それを救いと考えていたのです。

ペトロは、救いをもっと政治的なものと考えていたはずです。イスラエルという国を救うということです。ユダヤ人の救いです。当時のユダヤ人のほとんど、それこそ徴税人のような人以外は誰でも、自分たちの救いを個人的なこととして考えるよりは、むしろ、国家存亡のこと、民族の存亡と言う風に考えていたのだと思われます。だからこそ、主イエスが殺されることなど、まさに絶対にあってはならないことなのです。

しかし、主イエスは、本当の救いとは、先ず何よりも神とその人との間の問題、個人的な、一対一の神さまとの関係のことだと、ここで示されるのです。お譲りになりません。「サタン、引き下がれ!」魂の救い、つまりは罪の赦しを阻むものは、まさにサタンの企て、攻撃なのです。

十字架につく以外に、私ども罪人、神から離れ、神の御前に顔を挙げて見ることのできないもろもろの罪の行い、悪い行い、御言葉を破って生きる行為を、償うこと、そのようにして、永遠の滅びの中に落とされる霊魂、魂を救いだす、買い戻すことはできないのです。

罪をただの一度も犯したことのない人、しかも現実の人間でなければ、私どもの身代わりになって、神の刑罰、神の怒りと呪いを受けることは、できないのです。だからこそ、永遠の御子なる神は、おとめマリアより肉体を受けて人となられたのです。そのようにして、完全な人間でありつつ、同時に罪を犯さない人間のために完全な神でなければ、私どもの贖い、罪の償いは実現できないのです。だからこそ、神は人となられました。そしてその御子イエスさまは、まっすぐに十字架へと赴かれるのです。主イエスは、まっすぐに十字架に進まれます。そして、それは、私どもの救いを成就するために、絶対に避けられない道なのです。方法なのです。手続きなのです。
本当に救われたいのなら、まことの救いを受けたいのなら、この十字架に赴かれるイエスさまの後をついて行く以外に、ないのです。それ以外の救いの道は絶対にありえません。

しかし、ここで、誤解してはなりません。十字架に真実に進まれたのは、誰ですか。ごくごく、素朴な問いです。キリスト教の救いを説くために、根本的な、初歩的な問いです。それは、ひとりまことの人なるイエスさまです。主イエスは決して、「あなたも十字架につきなさい!」などと仰ったことがありません。十字架につくことができるのは、ただイエスさまだけです。十字架につけられた人は歴史上、数知れずいたでしょう。しかし、それで人類を救うことのお出来になるのは、ただ罪を犯したことのないイエスさまお一人です。

したがって、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」との主イエスの招きのことば、ご命令は、まさに「わたしに従いなさい」にアクセントがかかっているのです。これにつきます。ただし、主イエスにお従いするとは、そのとき、自分を捨てることがどうしても必要なのです。捨てなければ従えないからです。従ったことにならないからです。「神のことを思わないで人のことを思う」それでは、救われないのです。だから、ペトロの考え違いは捨てなければならなかったのです。思い違いは、気付いたその時に、捨てなければなりません。イエスさまに従うとき、十字架を負う以外にないのです。

かつて、洗礼入会の前の学び会で、ひとりの若い姉妹が真剣に、「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょうかと質問されました。まさに真剣に求道し、それだけに、真剣な問いとなりました。そこでいろいろなことを語ったのだと思います。しかし、今、その方は、事実、十字架を背負って従っているはずです。主イエスに従っていらっしゃるからです。それは、牧師が「あなたの十字架はこれですよ。」と説明することはできないでしょうし、する必要もないでしょうし、してはならないのだと思います。事実、主に従う人で、十字架を、主のために重荷を担わない人がいらっしゃるでしょうか。わたしは、ここでも断言します。「いません。」いるはずがありません。何故なら、ここはまだ、地上だからです。天国はなお、未完成だからです。サタンが、私どもを狙って不信仰へと誘惑し、不信仰に落とそうと攻撃するからです。

主イエスが教えて下さった祈り、「我らを試みに遭わせず、悪より、サタンより救いだしたまへ」と毎日祈る以外にないのです。私どもは、この主の祈りを日々、切実に祈っているのではないでしょうか。それが、すでに十字架の道のはずです。

秀吉は、この祈りを知らないでしょう。私どもにとっての試みは、むしろ、彼の喜びであったかもしれません。どんなことをしてでも、自分の思いを実現しようと考えるなら、それは、十字架の道の正反対です。

先週、ペトロは本当に幸せな人だと申しました。何故なら、これほどまでにイエスさまに真剣に叱責されたからです。つまり、どんなことがあっても、このペトロを滅ぼさない、彼の救いを確保する、守り抜くその愛の決意があるからこそ、厳しくペトロに向き合って下さったのです。今朝も、同じです。ペトロよ、わたしに従いなさい。自分の思い違い、自分の間違った価値観を捨てなさい。自分の十字架を背負うことになるが、そのまま、従いなさい。
若い彼女も、いへ、ここで洗礼を受けた方々、会員は皆、十字架を背負っていらっしゃるはずです。しかし、その十字架で、倒れてしまった人はいますか。十字架を担って歩む人ほど、この地上にあっても、信仰の喜びに満たされ、まさに祝福を受けているのだと、わたしは確信致します。むしろ、十字架から離れたとき、倒れたのです。イエスさまから離れたからです。そのとき、倒れて行き、道を踏み外して、確かな信仰の歩みからそれるのでしょう。

十字架を背負うそのときこそ、主に従い行くそのときこそ、私どもは、自分のいのちの尊さ、魂の救いの重さをいよいよ知らされて行くのです。ペトロが主の十字架をそんなことがあってはならないと否定するとき、ペトロは、自分の罪の深刻さが分かりませんでした。そして、自分の魂の、つまり自分自身の本当の価値と重さを知らないのです。だからこそ、あなたのためなら命も捨てましょうという勇ましさが出たのではないか。そして、実際に、イエスさまのために殺されかかる時、自分の肉体の生命の長さだけにこだわったのではないでしょうか。

主イエスは、ご自分がペトロのために十字架に赴かれることによって、十字架で御血を流されることによって、むしろ、ペトロ自身に、その魂の価値、彼の存在の尊さを、真実に分からせ、見せて下さったのです。そして、それは、私どものためでもありました。だからこそ今、私どもは、自分を大切にすることができるのです。そして、同時に、このイエスさまのためになら、そのためだけのためには、死んでも構わない、そのような思いすら与えられるのです。

最後に、主イエスは、ここでご自身の再臨について語られます。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」再臨のとき、それは、最後の審判、究極の審判が主イエスによって執行されます。その裁きの規準は、行いなのです。マタイによる福音書において、イエスさまが何度も語っておられることがここでも語られます。

第7章です。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」さらに第12章50節「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

主イエスにとって信じることと、神の御心、御言葉を守り行うこととは、まったく一つのこととして理解されています。それは、もう、まったく、何の疑いもない事実なのです。私どもはうっかりすると信仰によってのみ救われる、キリストによってのみすくわれるという私どもの教会にとって決定的に重要な、宗教改革の内容原理と言われているこの福音の真理を、誤解しやすいのです。教会生活が行いのない生活、十字架を担わない生活であっても、信仰生活として成り立っている、なぜなら、天国に入るには、魂の救いには、ただ恵みのみ、ただ信仰のみで、それ以外の何一つも必要がないと、正しい教理を教えられ、それを毎週の説教で聴いています。しかし、主イエスを信じることは主イエスの御言葉を行うことと別のことではないのです。そこに、十字架が必ず伴うことが分かるはずです。だからこそ、ここで、行いに応じてということばが語られるのです。従って、行いに応じてと言うことを、信仰に応じてと言い換えても、決して間違いではないとわたしは思います。

それは、ここでこのような奉仕の業をなした、あそこであの人にこのような愛の業をなした、あの場面で、これこれのディアコニアの働きをなしたのですということだけが、問われているのではないと思います。ただ、主イエスを信じて、従うことです。それが、ひとり一人の人生の中で、具体的になるのです。具体的な形、姿をとるはずです。そして、その信仰の行いだけが、報いられるのです。まさに、主イエスへの愛と信頼だけが、問われるのです。

祈祷
 私どもの罪を贖い、魂の救い、永遠のいのちを与えて下さるために、苦しみをお受け下さり、十字架について葬られ、三日目に死人の内から甦って下さいました主イエス・キリストよ。あなた以外に救いはありません。それゆえに、あなたに従ってまいります。十字架を背負うそのときこそ、私どもは真実に生きることができるのです。自分の思い、考え違いを押し通そうとする信仰の物分かりの悪さ、傲慢の罪から救いだしてください。私どもの周囲には、魂の救いを知らず、ただ、地上の幸いと力だけが確実なものだと思い違いをして、罪を重ねる大勢の方々がいます。どうぞ、彼らをあなたに導くためにも、いよいよ、私どもが救いの喜びを深め、天を目指して歩む者としてください。アーメン。