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キリストの栄光の姿に

「キリストの栄光の姿に」

2011年9月18日
テキスト マタイによる福音書 第17章1~13節

【六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。」
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。】

さて、今朝も、先週に引き続いて、主イエスが山の上で、そのお姿が変わられたときの出来事を学んで礼拝を捧げます。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」ここで主イエスは、神の御子、御子なる神としての本来のお姿を、一瞬、ペトロとヨハネそしてヤコブたちに見せられました。太陽のように明るい光を放ち、その衣すらまっ白になったのです。
私どもは、先週の説教でも、ここでのキリストの御業は、いへ、すべてキリスト・イエスがなさった、イエスさまにおいて起こった出来事とは、ご自身のためであるというのではなく、むしろ、徹底的にペトロたち弟子たちのため、つまり、私どもキリスト者の救いのためなのだと学びました。それなら、ここで主イエスのお姿が、光り輝く姿へと変わったことと私どもの救いとは、いったいどういう関係があるというのでしょうか。

さる9月の第一主日は、敬愛する後藤公子先生のご奉仕によって、幸いな礼拝式が捧げられました。「聖霊の導きに従って歩みなさい」との使徒パウロを通して、私どもはまさに、聖霊に導かれる歩み、そのためには、自分自身を明け渡して、主に従う歩みをなすべきことを励まされました。その後、お昼のときに、もっともっと時間がとれれば、さらにすばらしかったと思いますが、説教の分かち合いのときを皆さんと致しました。後藤先生が、日本キリスト改革派教会の中で、聖霊の豊かな注ぎを祈り求め、霊性を深めるようにと、様々な場所で訴えておられることを、心から感謝しています。その意味で、わたし自身の問題意識と深く共鳴している、だからこそ、今年もお招きしたわけです。
さて、そのような後藤先生が説教なさる姿から、皆さまは、白く輝く姿をご覧になられたでしょうか。これは、まさに大変、申し上げにくいことですが、皆さまは、この説教卓で、わたしから光が放たれるその幻をご覧になることができるでしょうか。「後藤先生からは拝見できたけれど・・・」と言われると、自らの不明を恥じるのみです。
何故、そのようなことを問いかけるかと申しますと、私どもは、うっかりするとそのようなことを考えたこともないということ、思いもしないということが実際あり得ると危惧するからです。いへ、牧師や伝道者たちだけのことではありません。教会員お互いについて、いかがでしょうか。私どもは、お互いの中に、聖霊の放つ光、その白さ、美しさを見ているでしょうか。これは、今朝ここでじっくりと考えてみるべきことだと思います。

先ほどの説教の分かち合いのとき、ひとりの兄弟の発言を巡って、わたしはすぐに応答致しました。そこで、その兄弟にこのように申し上げました。「わたしは、○○さんに光を拝見していますよ。神さまの光を浴びて、聖霊に導かれて輝き始めていますよ。よく分かります。」このようなことを申しました。それは、心にもないお世辞などというものでは決してありません。ただし、問題は、その兄弟がこの罪深いわたし自身からも同じように光を見ていて下さるかどうかなのです。そしてそれこそは、自分自身の内に、自ら光を認めることができるかどうかということに、実は、深くかかわってくるのです。自分が、どのような人間であるのかを知るときに、実は、他のキリスト者を見る眼差しもまた変わってくるのです。

確かに、あのとき、ペトロたちは、まさに目撃しました。肉眼で見てしまったのです。人となられた神、もっとも低い身分にまで降りられた生ける神でいらっしゃる御子イエスさまの本来の御子としてのご栄光を目撃したのです。しかし、実に、そのような幸いな経験を与えられた3人の弟子たちですら、この後の主イエスにも、この光を同じように見続けることができなかったのです。だからこそ、彼らもまた、主イエスに躓き、十字架に殺されて行く主イエスを見殺しにしたまま逃げ出してしまったのです。
いわんや、イスラエルの長老、祭司長、律法学者たちは、イエスの中に何の光も認めなかったのです。最後の最後まで、天からの輝き、天国の光、その圧倒的な白さ、天国の白さに気付けなかったのです。いへ、最後になればなるほど、逮捕され、裁判を受け、鞭打たれて血みどろになり、十字架につけられ苦痛にゆがまれた御顔、そのお姿の中に、天国の輝き、白さを見ることができなかったのです。だから殺した、殺せてしまったのです。
実に、普段の主イエスのお姿の中に神の光、天国の清らかな白さを見ることができなければ、見抜けなければ、あの群衆が、十字架につけられたイエスに向かって、口汚くののしったことも当然のことだったと言えるでしょう。そして、また、弟子たちも十字架の直前に、逃げ出すこともなかったはずです。

いったいどうしたら、イエスさまの中に常に、光輝く神の光、天の光、栄光の白さ、輝きを見ることができるのでしょうか。今、ここに臨在され、生きておられる王なるイエスさまの中に光を見ることができるのでしょうか。もしかすると皆さまには、いささか議論が飛躍過ぎではないかと、戸惑われるかもしれません。しかし、最初に申し上げておきたいのです。主イエスの中に常に、天からの光を見る、見抜くこと、それは、キリスト者がお互いの内に、自分自身の内に、神の光、天からの光を見ることと比例して行くと言う真理です。
コリントの信徒への手紙二第3章18節にこうあります。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」このように記す使徒パウロは、実は、山上の主イエスのお姿を見ていません。しかし、ご復活の主イエスのお姿は見ています。だからこそ、彼は確信しているのです。キリスト者である自分たちは、信仰によってキリスト・イエスを振り仰ぐなら、鏡となるということです。主の栄光を映し出す、映し出さずにいられなくなって行くと言う意味です。いうまでもなく鏡は、自ら光を放つことは決してありません。ところが鏡は、鏡であると言う理由だけで、言わば何の努力をせずとも、ただ存在しているだけで、自分と向かい合っている対象を映し出せるのです。
ですから、パウロはこのように言いたいのです。「主イエスのそばにいれば、主と同じ姿に造り変えられる。栄光の光を放つことができるし、放たれてしまう」そして、これは、きわめて当然のことなのですが、こう結ぶのです。「これは主の霊の働きによることです。」主イエスに似せられて行くということは、どこまでも霊の結ぶ実りなのです。自分がなした結果、働きの結果ではなく、聖霊の実り、聖霊のお働きなのです。それがキリスト者なのです。つまり、キリスト者とは、光を放つ存在なのです。
イザヤ書第60章冒頭にこのような預言があります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。」
この預言は、まさに、今成就しつつあります。それは、私ども神の民を照らす光、つまり、主イエス・キリストの光、主のご栄光が私どもの頭上に輝き出で、現れているからです。
何よりも、主イエスはここで、天の父なる神からの御声を聞いて、恐ろしさの余り倒れ、顔を伏せていたペトロたちにそっと、近寄られました。そして、「起きよ。恐れることはない」と語って触れて下さったのです。
つまりは、この主のふるまいは、ペトロに「起きよ、光を放て」と命じられたと言うことです。つまり、ペトロもまた、この栄光を反映するキリスト者、弟子、使徒として造り変えられて行くのです。そして、私どもは、ペトロが実際にその通りになって行くことを、聖書を通して読んでいるのです。

そして、ここで何よりも大切なことは、そのことは、実に、私どもにもまた起こることなのだということです。この礼拝式に出席することによって、そうなるのです。もとより、ただ単にこの場所にいればそうなるわけではありません。信仰をもって、信仰によってこの主イエス・キリストご自身の光を浴びることです。主の光を見ることがなければ、私どもは反映できません。しかし、主の栄光と輝きを見ている人なら、必ず、その人自身も光を反射する、放ってしまうのです。拒めません。
礼拝式に出席するということは、どう言うことなのでしょうか。ここで、改めて先週の説教を思い起こします。あの山の上で、モーセとエリヤが登場しました。主イエスは、実に、彼らと話し合っておられるのです。モーセとエリヤ、この二人は、旧約聖書の代表者を意味するのだと学びました。主イエスは、彼らと話し合っています。つまり、それは、旧約の中心がイエスさまだということを意味しているのだと、先週、申しました。
しかし、今朝は、新しくもうひとつのことを、付け加えたいのです。それは、イエスさまがモーセとエリヤと対話しておられるということ、それが、聖書の正しい読み方に通じているということです。つまり、聖書を、読むということは、よく対話するということです。預言者を通して語られた神の言葉をよく聴いて、そして自分自身もまた、聖書に記された神の言葉に応答することです。あるいは、問い続けることであり、神からの答えを聞き続けることです。そのようにするとき、私どもは聖書をうわべですっと読み飛ばさなくなります。
こう言ってもよいかもしれません。それは、説教においてなされる読み方を真似する、身につけて行くということです。説教では、聖書を、上からも下からも横からも読み解きます。歴史をさかのぼり、そして現代に帰って来て、さまざまな課題、問題を抱えもって聖書を読むのです。聖書と対話するのです。聖書において証されている、生きているときも死ぬ時も、わたしどもが聴くべき、信頼し、従うべき、神の唯一の言葉でいらっしゃるイエスさまと対話することです。そのとき、私どもは、知らないうちに、この光を浴びて行くのです。

そうであれば、私どもがこの一点、何としても守らなければならないことがあるはずです。それは、キリスト者である私どもが自分の存在を、主イエスの前に、隠れてはならないというこの一点です。光の源でいらっしゃるイエスさまに近づき、イエスさまと自分との間に何の障害物をおかないことに気をつけること、それだけが、私どもの課題となるのです。
そのとき、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」こうして、キリスト者は、大変、受動的であり同時に大変、能動的になります。能動的なキリスト者、積極的なキリスト者とは、信仰の態度のこと、あるいは立ち位置のことです。つまり、コーラム・デオのことです。神の聖なる御顔の前に生きること、それにかかっているのです。
私どもが礼拝式の最後の部分のプログラムにある祝福の言葉、あの祭司アロンの祝福の言葉を思い起こして下さい。「願わくは、主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。願わくは、主が御顔をもってあなたがたを照らし、あなたがたを恵まれるように。願わくは、主が御顔をあなた方に向け、あなたがたに平安をたまわるように。」神の御顔の暖かな光を浴びて、私どもが照らし出されるまさにそのとき、言わば自動的に、Soli Deo Gloria!が実現するのです。神の栄光が現れ出てしまっているのです。自分の栄光、自分の輝きではなく、神の栄光を反射しながら、栄光から栄光へと、主イエス・キリストのあの栄光のお姿へと似せられ、変えられ、変容させられて行くのです。

もうひとつの大切な課題を考えましょう。主イエスは、今も、全世界の王の王、宇宙の主です。ただ教会だけの頭ではありません。主イエスは、世界において、公然と語り続け、働き続けていらっしゃいます。だから、主イエスは、山上の説教において、私どもを、ランプにたとえられました。そして、こう招かれました。*「燭台の上に置きなさい」*このご命令にあるイメージは、私どもが、教会だけに閉じこもっていてはならないということでしょう。いへ、正確に言えば、その教会じしんが、世界のど真ん中におかれていなければならないということです。教会は、世界と共に歩むのです。この世は、滅びゆくのだから、深くかかわりを持たないで、やり過ごすなどということは、あり得ないことです。私どもは、世界の光とさせられているのです。
しかしそこでもしも、私どもが、「そのようなことは、自分には無理だ。私どもの教会では、荷が重すぎて、できない。それほどの光を放てるとは思えない。」と、こう、卑下したり、責任を回避しようとするなら、災いではないでしょうか。
私どもが、主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと主イエスと同じ姿に変えられて行くのは、聖霊の実りなのです。また、私どもが、光であるかどうかは、自分たちで決めたり、認めることでもないのです。ただ、主イエスが、私どもを「あなたがたは、光の子、世の光なのです。」と宣言されるのです。天のお父さまも又、「あなたはわたしの愛する子なのだよ。わたしの心に適うわたしの子どもなのだよ」こう、みなして下さるのです。これがすべてです。だったら、私どももまた、自分を明るく見る、信仰のまなざしを開いて頂いてよいし、開いて頂くべきです。自分を、キリストの復活の光、いのちの光を浴びている人間だと自覚することこそ、キリスト者のだいご味、いえ何も特別のことではなく、必須の認識なのです。自己理解です。あなたは誰ですか。わたしは、神の栄光を日々、浴びながら歩む者、御顔の光を浴びて天国を目指して旅をする人間、これが、正しい自己理解、自己認識なのです。
そして、同時に、もしも今、自分が暗闇にいるなら、主は、そのことをも、教えて下さいます。牧師として、祝福を唱えるとき、まさに、真剣です。皆さまがこの一週間を、主が御顔をもって皆さんおひとりおひとりを照らし、恵んでくださらなければ、途中で行き倒れてしまうでしょう。
もしも、自分から、主の光から隠れようとするなら、その時は、そこからただちに抜け出して下さい。それは、私どもの安住の場所にはならないからです。自分の穴、殻の中に閉じこもることも同じです。そこから、起きだして下さい。

私どもはキリストの受難とその死という誰しもが顔を背けたその中に、キリストの栄光を目撃することが許されたキリスト者であります。それができない人々は、キリスト者になれなかったし、なれないのです。私どもは既に、洗礼者ヨハネこそが、終わりの日に遣わされたエリヤのような預言者その人であることを認めることができています。そればかりか、イエスさまを、十字架につけられたイエスさまを救い主として信じる信仰が与えられています。世界の光をこのお方において見たのです。そうであれば、もっともっと観ましょう。凝視しましょう。
それは、この礼拝式の質をいよいよ深めることと重なります。皆で、神を仰ぎ見るこの主日礼拝式がいよいよ聖霊の臨在鮮やかな礼拝となるように、力を注いでまいりましょう。そして、礼拝で仰ぎ見たイエスさま、父なる神の光を、明日も明後日も浴び続けて、躓き倒れやすい自分、怠惰で自己本位な自分、肉の欲望へと引きずられやすい自分を、明け渡して前進してまいりましょう。それはたったひとり神の前にぬかずくことなしになしえません。同時に、たったひとり神の前にぬかずくことができるのもまた、この名古屋岩の上教会の交わりに支えられているからだということも、忘れることはできません。

最後に9節以降を見ましょう。主イエスは、ここで改めてご自身の受難、十字架と死について予告なさいます。「言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
主イエスは、このようにして、今を生きる私どもにも警告をなさっておられます。エリヤとは、洗礼者ヨハネのことでした。しかし、この時すでに、洗礼者ヨハネは、権力者の不正、不義を糾弾したために、サロメというお妃の戯れの一言で首をはねられてしまっています。そして、そのようなまったくの不正、とんでもない悪い行為によってイエスさまもまた、十字架につけられるのです。
そのことを、主イエスは、ここで予告され、さらに今を生きる私どもにも警告なさいます。
二つのことです。一つは、これまで学びました真理です。私ども自身が、そのような不正、悪に陥らないように、悪に負けないように、主イエスの光を仰ぎ見る努力、信仰生活に励むことです。
そしてもう一つ、これは、現実の社会は、まさに暗黒であることを、きちんと理解することです。騙されないことです。
有名なヨハネによる福音書第3章16節以下にこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。」
神は、御子を十字架にお与えになられるほど、私どもを愛されたのです。しかし、多くの人々は、光よりも闇を愛しているのです。それは、既に、起こっています。起こり続けています。今や、最高度に達しています。この主イエスの警告、予告を胸に刻むとき、私どもは、この世の嵐、逆風にひるみません。
我々の国は、戦後最大の危機の真っただ中です。フクシマのことを思えば、その暗さは、我々が経験したことのない暗さなのではないかと思います。ヒロシマ・ナガサキの悲惨とも違う得体のしれない恐怖の前に、暗闇の中に、我々は今、生活を営んでいるのです。
しかし、私どもは決して負けません。希望を見失いません。暗闇は、光に打ち勝たないからです。それは、2000年前、既に、洗礼者ヨハネがイスラエルの地に来て、働いたからではありません。まったく違います。洗礼者ヨハネは、預言者エリヤのように、いへ、それ以上に、主イエス・キリストを証するために働いたのです。つまり、私どもの希望は、主なるキリスト・イエスさまにあるのです。主イエスは、すでにこの地上に来られました。我々の世界の中で、光を放たれました。十字架において贖いを完成され、ご復活において私どもの救い、復活も確定して下さったのです。
この天からの光は、21世紀の世界を、何よりも、この教会を照らしています。光よりの光なるイエスさまは、私どもに近づき、今朝も、私どもに手を触れておられます。「起きなさい。恐れることはない。」ですから、私どもは、どこからでも起き上がれます。今なら、どこからでもやり直せます。やり直すとは、新しく生きることができると言う意味です。主イエスは、恐れることはないと、約束され、私どもをいのちの暖かな光で照らして下さるからです。
今、私どももまた、この山の上、礼拝の家から、おのおのの持ち場、家庭に会社に、学校に降りて行きます。恐れることはありません。
当時の人々は、本当は、主イエスを、「すきなようにあしらった」と言えるような人は、ひとりもいないのです。主イエスを殺してしまえば、事は終わる。自分たちは、勝利したと考えるのは、人間と悪魔の、まことに愚かな浅知恵でしかないのです。
私どもも、今一度、しっかりと悟りたいと思います。私どもは今、光の方へと歩んでいるのです。光を愛する人間として変容されているのです。何故でしょうか。主の光を浴びて、私どもも今、光となっているからです。

祈祷
栄光に輝く主イエス・キリストよ、そのあなたが、私どもを救うため、贖うために十字架の苦しみと死をお受けになられました。しかし、三日目にお甦りになられ、天の栄光、御子なる神としての栄光を現わされました。私どもは、その光を今朝も、この礼拝式で見たのです。浴びたのです。そして、私どももまた、今朝、起きあがることができます。主イエスよ、どうぞ、私どもを、常に、自分の罪の殻の中から、不信仰や不熱心、不誠実の穴の中から引きずり出してください。そして、山の上へと登らせて下さい。主の光を浴びて、やり直し、新しく出発させ続けて下さい。そして、私どもをこの暗き世を照らす光として、どうぞ、用いて下さい。アーメン。