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山を動かす、粒ほどの信仰

「山を動かす、粒ほどの信仰」
2011年9月25日
テキスト マタイによる福音書 第17章14~21節

【一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
(†底本に節が欠落 異本訳)
しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。】

今朝は、この個所から、「信仰とは、いかなるものなのか」「キリスト教信仰とはどのようなものなのか」信仰者である私どもにとって、まさに基本を、大前提となる真理を、改めて主イエスの御言葉を通して、確認しあいたいと思います。

主イエスは、山の上で実に幸いな父なる神との交わりの時を持たれました。心満たされる祈りのとき、神との交わりのときを楽しまれました。しかし、そこにいつまでもとどまろうとはなさいません。山から降りて行かれます。主イエスは、キリスト、救い主として、弟子たちと共にまた群衆のところへと赴かれます。そこは、我々の生活の現実の場です。悩みの場、戦いの場です。主イエスごじしんにとっても厳しい戦いの場です。
すると、いつものように、主イエスに向かって、地上の悲しみの現実が押し寄せて来ます。それは、ひとりの父親でした。彼は主イエスに近寄って、ひざまずきます。そしてこう訴え出ます。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」この息子は、他の福音書ではひとり息子となっています。彼は、火を見たり、水を見たりすると、発作を起こしてしまうというのです。その発作によって、おそらくこれまで何度も命の危険に自らをさらしてしまったと思われます。まさに、ひどく本人じしん、そしてこの父親じしんも、家族の者たちも苦しんでいることが良く分かります。
しかも今、この家族の苦しみは、どん底へと落とされようとしています。何故なら、いわば最後の望みの綱が今まさに切れかかっているからです。父親は、主イエスの弟子たちは、イエスさまから特別の力を与えられて、癒しの奇跡を行っているというすばらしい知らせを聞き及んだからです。彼は、ついに弟子たちを探し出しました。主イエスとペトロとヤコブとヨハネとは、そのとき、山の上にいました。しかし、ふもとにいた他の弟子たちに懇願したのです。「あなたさまたちのお噂を聴きました。つきましては、どうぞ、どうぞ、私たちを憐れんでください。息子を癒して下さい。」ところが、彼らは、癒せませんでした。
このときの父親の絶望感は、どれほどのものだったかと思います。しかし、彼は、絶望に沈みこみませんでした。なお最後に、一縷の望みがあると信じたのです。たとい弟子たちにできなかったとしても、先生のイエスさまであれば、お出来になる。そのような期待にかけたのです。そのように信頼したのです。だからこそ、彼は、主イエスが山から降りて来られたとき、真っ先に、駆けつけたのです。

そして今、彼は主イエスに向かって、およそ人間が真実に、素直に、誠実に神さまに、救い主に向き合うとき、もはや、このように叫ぶしかないというこの言葉をもって叫びます。これです。「主よ、息子を憐れんで下さい。」「主よ、憐れんで下さい。」これは、およそ2000年のキリスト教会の礼拝式で唱えられてきた、そして現在も唱えられるべき、もっとも大切な言葉の一つであります。ラテン語では、「キリエ・エレイソン」と言います。「キリエ」とは、「主よ」という意味です。しばしば、「キリエ・エレイソン」を略して、「キリエ」とだけ、唱えることがあります。キリエとお呼びすれば、その後、エレイソンは当然、くっついてくるとい理解です。実に、「憐れんで下さい!」これこそ、罪人であり、悩みと苦しみの現実の中に生きている我々人間、誰よりも私どもキリスト者が、神に向かってつぶやく、まさに呼びかけであり、祈りに他なりません。その意味で、父親のこの叫びは、まさに、全時代、全世界のキリスト教会の礼拝における祈りの言葉の原点と言ってもよいでしょう。
彼は今主イエスにすがります。それは、何を意味するのでしょうか。私どもの教会もまた、毎主日、十戒を唱えます。その結びにおいて、常に、「主よ、憐れんで下さい、アーメン」と唱えます。これは、何を意味するのでしょうか。何をそこに含むのでしょうか。何が含まれていなければならないのでしょうか。
それは、主イエスは、そして主イエスの父なる御神は、この憐れみを願い求める私どもの叫びに必ずお応え下さるのだという信仰です。その信仰が含まれている、求められているのです。私どもはこれまで、マタイによる福音書において、主イエスの愛、神の愛とは、「スプランクニゾマイ」という特別のギリシャ語で表現されていることを何度も学びました。はらわたちぎれるほどの激しい感情をもって憐れむお心、内臓を痛めるほどの激しい愛の爆発を主イエスが病んでおられる人々、苦しんでおられる人々に向かわせられたのです。私どもは、この主イエスの憐れみの対象とされ、事実、この憐れみによって昔のあのとき、あの場面でというだけではなく、今この瞬間も、この憐れみのまなざしの中で、見つめて頂いていること、顧みられていることを信じているのです。それこそが、キリスト教信仰なのです。そのように、聖書を通し、キリスト・イエスを知らされ、その愛に生かされているのです。
だからこそ、私どもは、「主よ、憐れんで下さい」と唱えた後、「アーメン」と結べるのです。この時のアーメンとは、何でしょうか。確かに、「本当に、そうです」という意味が含まれています。しかし、それは一部分の意味でしかありません。
アーメンと、唱えるのは、この願いが、自分が願った以上に、主イエス・キリストの故に、必ずかなえられることを信じるという告白、賛美なのです。主イエスの恵みをたたえ、信頼するからこそ、「主よ、私どもは、既に憐れんで頂いています。しかしいよいよ、あなたの憐れみの内において下さい!」アーメンと唱えるのです。
そもそもアーメンとは、何を意味しているのでしょうか。ギリシャ語では、「真実」という意味です。それなら、この真実、アーメンとは、お祈りする人じしんの真実さを意味するのでしょうか。違います。そうであれば、私どもの祈りは、結局、不確かそのものとなります。お祈りしながら、そのうちに、今日の自分の予定についてあれこれ考え始めてしまったという経験をお持ちでない方はいらっしゃるでしょうか。寝てしまったことのない人はいらっしゃるでしょうか。
そもそも、私どもは、自分が祈った祈り一つすら、忘れてしまうことがあるはずです。それほど、いい加減で、不誠実な者ではないでしょうか。そうであれば、祈りの最後のアーメンが、自分の誠実さ、自分の真実さ、熱心を根拠に、神よ、だから聞いて下さいね、かなえて下さいねというのであれば、まったくキリスト教の祈りの本質から遠い、異質とすら言わなければなりません。
繰り返します。アーメンとは、主イエスさまのアーメン、主の真実によりすがります、だからこそ、私は今祈れるのですし、祈りました。そして、この祈りがあなたに聴かれていることを信じますと、私どもの信仰を告白し、主への賛美が込められているのです。

ただしかし、わたしは今、このことも明らかにしたいと思います。この父親は、おそらく、ハラハラしながら、ドキドキしながら、何とかしてくださいと叫ぶ以外にない気持ちだったのではないかとそう思うのです。そして、この気持ちもまた、私ども自身がよく知っているはずのものです。
思えば、私どもの教会も又、この夏、この祈りを繰り返しました。お二人の姉妹方が入院、そして手術をなさいました。姉妹会は、連鎖祈祷を実行しました。手術の当日、一人ひとりが1時間づつ、執り成し祈ったのです。もとより、その一時間で、祈りが終わってしまったわけではないはずです。今も、祈祷会では、まったき癒しのために祈りがささげられ続けています。わたし自身も、「御心ならお癒し下さい」ではなく、「何としても癒して下さいと、それによって信仰と献身と感謝と喜びがあふれ、いよいよあなたの僕として教会に生き、信仰に生きる人として、神の道具として用いて下さい」と必死に祈りました。それは、やはりドキドキするような祈りです。しかも、このようなドキドキした思いを、受け止めて下さる父なる神が私どもにいて下さることの幸いを、おそらくお互いにかみしめることができたと思います。

さて、父親は、弟子たちに失望し、主イエスに訴え出ます。つまり、父親は、それが最大の目的では決してなかったはずですが、しかし結局、弟子たちを告発することになっています。
主イエスは、このようにお答えになられます。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」主イエスは、弟子たちを嘆かれます。その嘆きはまた、この父親自身をも含んでいるのだとも思います。そもそも、神の民であるイスラエルは、何がなくとも信仰の民であるべきです。しかし、主イエスは、肝心の神信仰に生きるべきユダヤ人たちに対して、信仰のない時代、邪悪な時代と認識しておられます。そのような時代だからこそ、主イエスに対する抵抗や攻撃は、いよいよ厳しさを募らせているわけです。
ここで、主イエスは、「我慢する」と仰います。この言葉のもとの意味は、「支える」であると言われています。そうであれば、主イエスが、彼らに対する憤りを「こらえる」という意味であるより、むしろ、彼らの不信仰をかばう、かばおうとする忍耐力のことです。しかし今やその主イエスですら、支えきれない、かばいきれない、そのような時代が来ていると仰るのです。まさに、主イエスが十字架につけられる時が近づいているという緊迫感が伝わってまいります。もう、あなた方は、わたしがこのような仕方で一緒にいられなくなるのだけれど、大丈夫なのか、本当に、天国の鍵の権能を行使できるのか、そのような嘆きです。

さて、主イエスはただちに、憐れみの心を発動されます。弟子たちは、その息子本人を、主イエスのもとに連れてまいります。そのとき、弟子たちはどんな気持ちで、連れて来たのでしょうか。わたしは、弟子たちは、ふてくされたのではないと思います。むしろ、「ああ、良かった、自分たちにはできなかったけれど、イエスさまだったら、必ず、この息子を癒して下さるだろう。」そして、こうも思ったのだと想像します。「わたしたちは、何ができなくとも、少なくとも、このイエスさまのところに、病人を連れて来ることができる。幸せだ。ここに、自分たちの祝福がなお残されている。」
確かに弟子たちは、主に叱責され、嘆かれています。心底、悲しむべきことです。悔い改めるべきことです。しかし同時に、弟子たちは、弟子とされていることの幸いをも改めてかみしめることができたと、わたしはそう思います。
そして、何よりもここで、私どもが悟るべき大切な真理があります。つまり、癒しの御業とは、弟子たちが、弟子たち自身が行うのではないということです。弟子たちを通して神が働かれるということです。結局、癒しをなさるのは、弟子たち自身ではないということです。主イエスのところに連れて行き、主イエスが癒されるのです。これは、弟子たち自身のことにも、まさに当てはまるのです。
主イエスの弟子たちは、我々の世界においては、とても不思議な弟子です。我々は、弟子もやがては、一人前になることを知っています。なってもらわなければ、困ります。いつまでも、弟子が精進せず、その立場のままであれば、先生じしん、立つ瀬がありません。歴史が続きません。一代限りで終わってしまいます。
ところが、主イエスの弟子たちは、いつまでも弟子なのです。この弟子は、もし主イエスからひとり立ちできると思いあがった瞬間に、もはや、弟子であることをやめるのです。キリストの弟子とは、すべての人々、とりわけ悩み苦しみ悲しみあえいでいる人々を主イエスのところへと連れて行く人のことです。そして、当たり前すぎるほど、重要なことは、弟子自身が常に、主イエスのところに赴くこと、赴ける祝福、幸いに生き続けているということです。

さて、当然のことですが、今、癒しが起こります。「イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。」瞬間に癒されました。
さてしかし、ここからこそ、今朝の物語の核心部分になるのです。癒しを目撃した弟子たちです。大勢の人々が弟子たちの不信仰を嘆かれる主イエスの言葉を聞きました。弟子たち自身、とても、恥ずかしかったと思います。穴があったなら、入りたいと思ったかもしれません。だから後で、「ひそかに」イエスさまのところにやってきます。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねます。人目をはばかったのです。彼らにも、メンツがあります。弟子たちは、改めて衆人環視の前で、主イエスの叱責のお言葉を聞くことに耐えがたかったのでしょう。だから、「ひそかに」、教えを請うのです。マタイによる福音書はそこを見逃しません。
そこで聖書が暴露することとは、何でしょうか。彼らの、こだわりについてです。何にこだわっているのでしょうか。メンツです。見栄です。これが曲者です。このプライド、これこそまさに信仰に対立するものなのです。

父親は、ただひたすら息子に集中します。「わたしの息子を憐れんで下さい。」この叫びも、じっくり味わいたいのです。父親は、ここで、息子を案じているこの私を憐れんで下さいとは、願っていません。これは、何でもないことではないのです。父親は、自分のことにこだわる余裕もないのです。自分を忘れてしまっています。それほど、息子がかわいそうだと思っているのです。自分を二の次にしています。もっと言えば、自分はどうでもいいから、何とか、息子をとの願いです。

ところが、ここで弟子たちが問題にしたのは、何でしょうか。それが、ここでの信仰の本質を問うメッセージの急所です。「ひそかに」尋ねたのです。「自分たちには、どうしてできなかったのか。」弟子たちがここで、こだわっている主題は何でしょうか。弟子たちは、何を問題にしているのでしょうか。それは、つまるところ、信じている自分じしんについての関心でしかありません。
今、水曜日の夜の祈祷会の前に、「改革派信仰とは何か」の読書会を重ねています。とても、大切なよい学びをしています。そこで、10のテーゼが掲げられているのですが、第一のテーゼは、私どもの月報のタイトルでもあります、「Coram Deo!コーラム・デオ」です。神の御前に生きるというラテン語です。これこそ、改革派信仰の決定的な特質だと著者は言うのです。
しかし考えてみますと、およそキリスト教であれば、それは、生命的に大切なことのはずです。あえて、改革派信仰の特質だなどと、大上段にかまえる必要などないのではないかと思います。しかし、丁寧に考えますと、やはり、ここに私どもの特質があると言わざるを得ないと思います。
聖書によって明らかにされた信仰とは、神さまへの堅固な認識に基づく信頼のことです。そこでは、徹底的に神ごじしんが主題になります。『言葉を換えれば、父と御子と聖霊における交わりを持つ唯一の神、三位一体の神をどんな時も、主語にするということです。「神が」あるいは、「神は」というように、神を中心に考えるということです。信じているこのわたし自身を常に主語にして考える思考から、神を主語にする信仰に生きてゆきたいのです。』
ところが、ここでの弟子たちは、こう自らに問うのです。「神を信じている自分は、いま、どうだろうか。今風に言えば、自分たちの信仰は、イケているのか、いないのか。自分たちは弟子として、よくやれているのか、いないのか。大丈夫か大丈夫でないか。」つまり、ここで弟子たちが、こだわっているのは、自分自身のことなのです。神の御前で、自分の信仰は大丈夫なのかと問う時、そのアクセントは、強調点は、どこまでも自分じしんに置かれているのです。そうなると純粋に、Coram Deo!ではなくなってしまいます。徹底していません。言わば、「自分を気にする信仰」です。その問題性が、ここで問われるのです。それがここで言われている「信仰の薄さ」なのです。他の翻訳では、「信仰の足らなさ」と訳されています。

自分のメンツを気にしている限りは、信仰は足らないはずです。だから、主イエスの叱責を受けるのです。彼らは、そこで、息子を癒せないままになってしまったその息子じしんの悲しみとつらさのことでもなく、神の御業を留めてしまっているという神の悲しさのことでもなく、それを行えなかった自分たちのことにこだわるのです。そこに、何が隠されているのでしょうか。信仰が誰のためのものであるのかという根本的な間違いが横たわっているのです。つまりは、Soli Deo Gloria!神の栄光のために、ではなく、自分のために、信じているということでしょう。

かつて祈祷会で、からしダネの実物を拝見しました。まさに、けし粒です。ゴマよりもさらに小さいものです。ところが、この見えるか見えないかくらいの小さな信仰がありさへすれば、山を動かせるのだと主は仰るのです。何故でしょうか。それは、信仰とは、まさに神の力を、受けとめる場所だからです。神のお働きを受ける器だからです。
どうぞ、私どもは今朝、今一度、ご一緒に徹底しましょう。「神よ、わたしと歩んで下さい。神よ、わたしを祝福してください。神よ、あなたを信じているこのわたし、このわたし、この私を!ああしてください、こうしてください」と、自分を軸とした信仰を突破させて頂きましょう。

簡単に申しますと、ここで「山を動かす」とは、神の御心を求めるということに尽きるのです。「あなたがたにできないことは何もない。」この御言葉を誤解してはなりません。キリスト教の中でも、おかしなものがあります。こんなことを言うのです。「信仰が強ければ、あなたがのぞむ、どんなことでもできるようになります。だから信仰を強くしなさい。強い信仰を持ちなさい。」まるで信仰を、自分じしんの精神力とか意思とか、自分の手で、動かせるように理解するのです。しかし、そのような信仰なるものは、キリスト教信仰とは関係がありません。主イエスは、このような表現を用いながら、弟子たちに悟らせられるのです。「信仰に生きる人は、必ず、あなたの父なる神の栄光を求める人となって行く。だから、その人の祈る祈りは、すべて、その通りになって行くのだ。だから、御心を知り、御心を祈って行きなさい。御心の天になるごとく、地にもなさせたまへ。わたしの信仰生活を通して、神さまの御心をなさせてくださいと、わたしが教えたように、お祈りし続けなさい。」

最後に、短く学びます。ある聖書翻訳には、この後、祈りと断食についての言及があります。新共同訳聖書の場合は、マタイによる福音書の最後のページに、こう記してあります。この聖書が採用しているギリシャ語の底本の他にいくつも、底本があるのですが、そこにこのような言葉があるものがあります。「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」
祈祷会で触れようとも思いますが、短く、触れて終わります。祈りと断食、これこそ、人間が神へとなすものです。しかし、この二つとも信仰の行為なのです。これによって、私どもは、徹底して神に集中するのです。その方法としての、断食なのです。健康に良いからとか、頭がすっきりするからとかではありません。したがって、もしも、ここでも、祈りと断食が、自分のメンツ、これほど信仰に熱心に頑張っているということを明らかにするための証拠とするように用いるのであれば、祈りと断食こそ、不信仰の極みになるのです。
それは、使徒パウロが有名な、Ⅱコリントの信徒への手紙第13章の「愛の賛歌」にあるように、やかましいどらや、シンバルの祈りになっていまします。山を動かすほどの信仰があると言っても、愛がなければ、無に等しい、無益なのです。愛のない断食もまた、無益となるのです。
私どもは今朝、今一度、主イエスがお与えくださいました信仰の賜物の素晴らしさを恐れ慄きをもって、受け止めましょう。そして、神の栄光を求めるまことの信仰をいよいよ富ましめられるように祈りを重ねてまいりましょう。

 祈祷
 私どもに主イエス・キリストを信じ、父なる御神を信じる信仰をお与えくださいましたこと、聖霊なる御神あなたさまの救いの恵みを心から感謝いたします。主よ、憐れんで下さいと、あなたに祈り、叫ぶことができる者とされました。心から感謝いたします。どうぞ、いよいよ正しい信仰を富ましめてください。あなたの栄光を求め、神の国が到来すること、御心が地上で行われること、それをこそ、わたし自身の最大の願いとすることができますように。聖霊を注ぎ、信仰を満たして下さい。あなたをいよいよ知り、一つとされ、平和の喜びの内に、悲しみ、苦しみ、悩みに打倒されないで、突き進む、しなやかな強さを、私どもにいよいよ増し加えて下さい。アーメン。