過去の投稿2011年10月11日

天国の自由に生きよ-子どものようになるとは-

「天国の自由に生きよ-子どものようになるとは-」
2011年10月9日
テキスト マタイによる福音書 第18章1~5節

【そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」】

先週は、「神の子の自由に生きよ」と題する説教を聴いて、礼拝を捧げました。キリスト者とは、神の子とされた者。神の子としての自由を与えられている故に、その自由を生きることができるし、生きるべきであると学びました。そして改めて主イエスこそ、まさに神の御子でいらっしゃり、あらゆるこの世の既成概念、あらゆるこの世的な価値観や常識とされていることから、完全に解き放たれ、神の子の自由を完全に生き抜かれた御方であると確認致しました。
今、先週の説教のおさらいから始めました。それは、今朝の御言葉が、先週のこの教えを、おかしな表現ですが、弟子たちが「見事」なまでに破っている姿が描き出されているからです。弟子たちは、神の子の自由に生きる特権を行使することができません。むしろ、正反対の姿がここで暴露されています。

さて、今朝の物語は、こう始まります。「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。」これもまた、先々週の説教のおさらいになります。弟子たちは、悪霊に取りつかれた一人の息子を癒せませんでした。そこで弟子たちは、「ひそかに」イエスさまのところにやってきて、「何故、自分たちは悪霊を追い出せなかったのか」と、たずねました。彼らは、群衆の前で、そのような質問をするなら、プライドが傷つき、かっこ悪いと思ったからです。自分のメンツにこだわったのです。
ところが今、ここでは、公然と質問します。確かに、周りに自分たち以外にいなかったからということもあったかと思います。しかし、わたしは、弟子たちには、この質問をすることについて、恥じる思いがまったくなかったからだと思います。
並行記事として記されているマルコによる福音書とルカによる福音書とによりますと、弟子たちは、ここに至る前に、ある議論があったようです。マルコによる福音書第9章にこうあります。「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。」自分たちの中で、誰が一番なのか、誰が一番、高い位につけるのか、順位を決めようとつばぜりあいをしていたのです。
そもそも、主イエスの教えをちゃんと聴いていれば、このような議論自体が間違っている、恥ずべき事だと気付けたはずです。いへ、たとい、ちゃんと聴いていなかったとしても、一般常識から考えても、間違った議論であることは、明らかではないでしょうか。
例えば、かつての自民党のことを思います。首班指名がなされて、新しい政府を組閣するとき、本来は、大臣を任命するのは、任命権者である総理大臣のまさに専権行為のはずです。ところが実際には、派閥の領袖たちから、「このたびは、うちの派閥から、この人とこの人を、大臣にしてほしい」と、総理大臣に注文を出すわけです。総理大臣は、自民党の実力者たちの意向を最大限尊重しながら、内閣をつくっていました。
さて、神の御子でいらっしゃるキリスト、イスラエルの王、世界の王の王でいらっしゃるイエスさまを総理大臣になぞらえることは、おかしいですし、まことに失礼なことであります。しかし弟子たちがここでしたこと、しようとしたことは、要するに、自民党の派閥の親分たちにも似ているでしょう。イエスさまがイスラエルの王に即位される前に、自分のポストを前もって確保しようとしているわけです。一体、彼らは、自分勝手に、何をやっているのでしょうか。
しかも、この議論には、まったく譲り合う気持ちがありません。「俺が、俺が。私こそ、私こそ」と、人間的な能力を自慢し合って、言い争ったのです。遂に、「それならば」、ということで、今や、恥もなにもかも忘れるようにして、イエスさまに直談判して、決着をつけて頂こうとまで言いだし、そして、実行してしまったのです。まことに見苦しいと言わざるをえません。しかし、ここにこそ、肉につく人間、自己中心丸出しの、罪深い我々の姿が描きだされていると思います。これは何も、この弟子たちひとりの問題ではありません。これこそ、この世の生き方、考え方、我々の言わば常識としているところではないでしょうか。この時の主イエスのお悲しみは、どれほどのものだったのでしょうか。憤りをお持ちになったのではないでしょうか。

そこで主イエスは今、カファルナウムのその家にいた一人の子ども、幼子をみもとに呼び寄せます。「さあ、恐がらなくても大丈夫。わたしのところに来てごらん。」おそらく、その子は、少し怖かったかと思います。弟子たち、おじさんたちは怖い顔つきをしていたのだと思います。しかし、幼子は、主イエスの優しい笑顔に導かれて、イエスさまのところに近づきます。すると、主イエスは、その子の手をとって、弟子たちの真ん中に立たせます。そして、真剣なまなざしで、こう宣言されます。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」弟子たちの天国では誰が一番偉いのかという議論に対して、主イエスは、はっきりと宣言されます。真実を語られます。「あなたがたは、そのままであったならば、天国で一番二番を言い争うどころか、あなたがたは、天の国に入ることもできないのだ。」
弟子たちは、まさに心臓がつぶれるほど、びっくりさせられたのではないでしょうか。彼らは、何よりも天国に入ることを願って、弟子として主イエスに従ってきたからです。しかも、彼らは、天国は、他ならないイエスさまの弟子である自分たちにこそ約束されているとまったく確信しているのです。しかも、第16章で彼らは、主イエスご自身から、天国の鍵すら与えられていると宣言していただいたばかりなのです。彼らは今、天国における自分たちの揺るぎなき立場、その高い地位への期待感は、最高潮に達しているのです。
ところが、そのまさに有頂天になっているそのとき、主イエスは宣言されたのです。「あなたがたは、このままでは、誰が一番偉いのかどころではありません。そもそも、天国に入りそこなってしまう」と警告されてしまったのです。

このときの弟子たちの驚きには、もう一つの理由があるかと思います。それは、この御言葉です。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」はるか2000年前の時代です。当時の社会常識は、女性と子どもは、きちんと世帯の中に数えられることはなかったのです。21世紀の日本になって雇用における男女機会均等法が再改正されて、整ってきたという現実です。20世紀末になって、ようやく女子差別撤廃条約が締結され、男女共同参画社会基本法は1999年に制定されました。世界的に見ても、子どもの人権が認められるのは、まさに20世紀に入ってからだと言っても、決して言い過ぎではないのです。主イエスの時代は、2000年前、日本で言えば、弥生の時代です。倭の国の時代です。豪族の時代であって、まだクニという概念はなかったはずです。主イエスの時代、イスラエルもまた女性と子どもをひとりの人間として、数えるということがありませんでした。したがって、マタイによる福音書じしんも、すでに学びました5000人の給食の奇跡でも、本当なら、集まっていた群衆は、1万人以上であったはずですが、女性と子どもは数にいれていません。それが、当時の人々の常識だったからです。
そのことを念頭にいれますとき、ここでの主イエスの宣言が、どれほど衝撃的な御言葉であるか、はっきりすると思います。まさに、これまでの常識を完全に無視し、覆してしまう聖書の言葉です。ここに主イエスが見事に、時代の価値観から自由にされている、神の真理に基づいて発言なさるお方であられるかが、ここでも明らかにされています。

さて、いよいよ、主イエスの宣言そのものから学びましょう。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」単純に申しますと、主イエスは、子どものようになりなさいと命じられます。子どものようになる人こそが、天の国でいちばん偉いのだと仰います。それなら、ここで言われた子どものようになる、とはどのような意味なのでしょうか。ここでの子どもとは、何を意味しているのでしょうか。
私どもは、改めて申し上げるまでもないと思うのですが、現実の子どもたちは、決して大人の理想になる存在ではありません。今ここで礼拝しているのは、大人だけではありません。神の家族として、子どもたちと共に礼拝を捧げています。教会の子どもたちのひとり一人が、それぞれに成長することを私どもはいつも楽しみにしています。彼らと共に、信仰の旅路を歩むことができることを、どれほど嬉しく思っていることでしょうか。これは、私どもの教会に与えられている大きな祝福です。心から幸いに思います。どれほど、神に感謝すべきでしょうか。
しかし、もしも、愛する子どもたちが、今のまま、言わばその「幼児性」を抱えたまま、体だけ大きくなってもらってはどうでしょうか。親としては、とても困ると思います。牧師としても、悩みます。ひとりひとりが、一歩一歩、成長し、成熟してもらいたいと願います。これは、当然の親心だと思います。
さてしかし、そのことは、実は、子どもたちだけの課題では、まったくありません。いへ、むしろ、私ども自身の課題でもあるはずです。大人こそ、成長、成熟のためには、もっと重い責任があるはずです。
つまり、そこで見えて来る真理は、私どもは誰でも、人間は、成長の段階に合わせて、いわゆる幼児性を、年齢相応に脱ぎ捨てて、大人になってほしいと願っているだろうと思います。わたくし自身がそうです。それなら、そこで目指されている大人とは、どのようなものなのでしょうか。目指すべき、大人像とはいったいどのようなものなのでしょうか。ここが今朝のテキストの一つの急所になります。ここが、今朝のメッセージの一つの重要な鍵になります。

皆さまには、もはや、ご迷惑かもしれませんが、あらためてここで「星の王子さま」のお話をさせていただきます。この物語の一つの主題、大きな、決定的に重要な主題は、まさに、主イエスがここで明らかにされた「子どものようになる」ということにあります。
王子さまは、自分の星を出て、一人旅に出ます。ところが、旅を重ねる間に、小さな星に一人住む、おかしな大人ばかりと出会うのです。最初に、出会うのは、王様でした。この王様は、自分以外の人をいつも家来と見るのです。ここにも、著者の鋭い問いかけ、我々への厳しい批判があります。二番目の星では、うぬぼれ屋に出会います。これもまた、子どもと反対に、見えやメンツばかりを気にして、自分以外の人を自分のファンにしようとします。三番目は、がらりとかわって、酒飲みでした。自分が自分であることを忘れたい。恥ずかしいと考えている、自暴自棄になっている大人です。四番目は、ビジネスマンです。彼は、酒飲みとは正反対です。ひたすら計算ばかりに熱中しています。自分の所有、所得を増やすこと以外に関心がありません。五番目が、電灯に明かりをつける人、六番目が、学者でした。

著者のサンテグジュペリは、ここで、厳しい大人批判を展開して行くわけです。語り手である、飛行士じしんも、小さな王子に出会う前は、自分じしん、なりたくなかった悪い大人の一人、まじめな大人の一人になってしまっていました。そして、重要なことは、この王子さまじしんもまた決して、理想化されているわけではないのです。実は、物語を読み進めると、この王子、言わば子ども自身にも、重大な欠けがあり、本当に大切なものが分かっていなかったのです。その意味で、子どもの王子じしんの中にも、主イエスが、ここで語られた、「子どものようになる」ことに失敗していた事例の一つと見ることができるのです。何と言っても、星の王子さまじしん、既にひとり旅ができるわけで、少なくとも幼児ではないわけです。

それなら、「子どものようになる」とは、いったいどのようなことを意味するのでしょうか。いったい、ここに立たされた子どもは、何歳の子であったのでしょうか。確実なことは、幼児であるということです。赤ちゃんと言ってもよいかもしれません。親の保護なしには生きれない幼子なのです。そしてそれは、何を意味しているのでしょうか。幼子とは、ただこの保護によってのみ生きる。生かされるしかない存在なのです。
あらゆる動物の中で、人間の赤ちゃんは、生存するということ、生きて行くということを、まさにただひたすら他の誰かに頼るしかない存在です。人間の赤ちゃんほど、弱い動物はいません。生まれてすぐに自分の足で立ち上がるような牛や馬などとは、比べようもありません。何年にもわたって、食べさせ、飲ませてもらう以外に、人間の赤ちゃんは、生き延びる手段がありません。完全に、徹底的に、頼る以外にない存在なのです。それが、ここで言われる「子ども」の意味です。

さて、子どものようになるとは、いったいどのようなことなのか、これを正しくひもとく鍵は、やはりこの個所が、先週の続きだということを忘れないことです。主イエスは、そこで、「神の子どもたち」は、神殿税を納めなくてもよいとおっしゃいました。主イエスご自身は、神の独り子でいらっしゃいます。そればかりか、主イエスの弟子たちもまた、御子なるイエスのおかげで、神の子どもたちとされているのです。つまり、神の子とされるということです。
主イエスを信じ、悔い改めるそのとき、人は誰でも、神の子とされます。神の子どもとされます。悔い改めるとは、主イエスが、ここで言われた「心を入れ替える」ということに他なりません。
そして、神の子とは、人間の赤ちゃんが養育者、保護者に対して、完全に頼る以外に生き延びれないように、天の父なる神さまによって、神の恵みによってしか生きることができないという意味です。神の子どもとは、ただ神とその恵みによってのみ生かされているということです。それを徹底的に悟り、そこに踏みとどまる人のことです。私どもは、このように自覚することによって、神の恵みによってのみ生き続け、生き抜くことができるのです。そのときこそ、そのときだけ、真実の感謝と喜びとを味わうことができるのです。そのとき、本当にお父さまがいらっしゃること、神がお父さまでいらっしゃることを、私どもは知る。、体験するのです。
それこそ主イエスが、仰せになられた「自分を低くすること」です。天のお父さまの前で、本当に自分が赤ちゃんでしかないことを悟り、それに生きること、それが、自分を低くすることなのです。そのとき、そこで何が起こるのでしょうか。その時こそ、自分を王さまにすること、うぬぼれることも、自棄を起こして、ひねくれてしまうこと、自分を嫌ってしまうことも、自分の所有と支配の領域を拡大し、自慢することも、つまりは、おかしな大人にならなくなるのです。
この意味において「子どものようになる」こと、それこそが、まことの意味で、真実の大人となる道なのです。成熟へと進み行くことのできる道なのです。したがって、これは、契約の子たちだけの課題なのでは、まったくありません。私ども大人じしんも、皆、子どものようになることを、生涯の課題とするのです。いへ、正しく申し上げなければなりません。私どもは、既に、主イエスを信じ、キリストと結ばれ、神の子とされているのです。ここから始める以外に、成長などありません。ですからどうぞ、ここで、しっかりと、私どもが今、主を信じて、救われている事実、神の子とされている恵みの事実を感謝しましょう。

最後に、この巨大な真理の御言葉を学びます。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」ここでは、現実の弟子たちの真ん中にいる子どものことが言われています。繰り返しますが、当時の社会では、子どもは、ひとりの人間として認められていませんでした。それは彼らが、社会のため、国のために、言わば、何の役にも立たない存在だからです。つまり、「このような子どもの一人」とは、あらゆる意味で、生産能力がない者という意味です。役に立たないという意味です。しかし、主イエスは、そこで、驚くべきことを仰ったのです。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」わたしは、この御言葉の真理と、何よりもその真理がどのような形になってこの世に明らかにされるのかを、教会の歴史の中でもっとも鮮やかに示して下さった人として、マザー・テレサさんのことを思い起こさざるをえません。
彼女は、道に倒れてまさに死なんとする一人の人を探しては、「死を待つ人々の家」という今で言えばホスピスをつくって、そこに運び込むのです。そして、ここが、重要です。マザーは、この死に行く一人ひとりを、イエスさまをもてなすように、もてなすのです。言うまでもありませんが、その人々は、社会的な地位もあり、すばらしい立派な生涯を送ってきた人々というわけではないのです。むしろ、社会の関わりから疎外されて、看取ってくれる人、友達が誰もいない忘れ去られた人、社会から顧みられない名もなき人々でしかないのです。
いったい何故、そのようなことをなさったのでしょうか。先ず、確認しなければならないと思います。彼女の団体となさっている働きは、社会福祉事業とは違います。彼女は、ご自分のことを社会福祉の活動家とは、見ていません。ひとりのキリスト者、ひとりの修道女なのです。これは、あらためて学ぶ必要もあるかもしれません。彼女は、聖書に示されたディアコニア、奉仕を実践したディアコノイ、奉仕者でしかないのです。
彼女は、死に行く人にイエスさまを見ていると言います。死に行く人と、子ども、幼子には、共通点があります。生産活動ができないということです。助けてもらわないと、生き延びれないということです。お世話することは、まったくできません。ただ、ただひたすらお世話される以外にない点です。

何故、マザーは、そのような人を、イエスさまをもてなすかのようにするのでしょうか。それは、彼女の言葉によれば、彼らの中に、イエスさまが宿っておられるからと言うのです。わたしは、もはや、説教ができません。率直に申しますと、きちんと、分かっていないのに、分かったように語ることは、できないと思うからです。
今朝は、これ以上は、掘り下げません。何故なら、第18章は、実に、この「このようなひとりの子ども」ルカによる福音書によって言い換えれば、「最も小さな者」を巡って、主イエスが説教なさっていらっしゃるからです。来週も、さ来週も、この「小さな者」が主題になるからです。
ただ今朝、この事だけを申し上げて終わります。あのマザー・テレサさんが、死に行く人の中にこそ、主イエスを見出しているということは、何を意味するのかということです。
主イエスは、もっとも小さな者、弱い者とご自分を限りなく結びつけられます。それは、何を意味するのでしょうか。おそらくはこの世にあって、まったく無力、まったく何の力も発揮できなくなる局面は、まさに死なんとする人です。主イエスは、まさに、人間の死、罪人の死を、ご自分の身に引き受けられたお方です。主イエスご自身が、私どもの罪の故の悲惨を、その身に負ってくださったお方です。父なる神の刑罰としての死、怒りとしての死、のろいとしての死を、十字架の上で死なれた救い主です。イエスさまの十字架の上の苦悶にゆがまれるお姿は、マザー・テレサさんの眼差しのなかで、道に行き倒れて、死を待つだけのコルカタの貧しい人々と二重写しなって見えるのでしょう。それは、主イエスごじしんが、あの十字架に向かう歩みにおいて、十字架の上で、そのような人々に限りなく、近づかれたからにほかなりません。苦難の道を歩みぬかれた主イエスのあの愛の御業によって、なんと、もっとも悲惨な人間の姿の中に、もっともイエスさまのお姿が現わされてしまうのです。
だから、少なくとも、そうです。少なくとも私どもは、自分じしんにおいて、自分がどのように死のうが、あるいは、どのように苦しみの中で、苦難の中で、喘ぎつつ生きていようが、私どもは神の子とされていることを、自ら信じることができるし、信じなければなりません。たとい、誰かの死の中に、主イエスを見る、見出すことができなくとも、少なくとも自分じしんの敗れた姿、苦難の中で倒れかかって、喘いでいる自分自身の中に、主イエスを見出すのです。主が私と共にいてくださることを信じるのです。
「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」この御言葉がまさに、私どもの存在と生き方を換えて行くために、まず、自分じしんが、神の子とされている救いの恵みを心から感謝し、確信することです。わたしは信じています。そこから、私どももまたいつか、あのマザー・テレサさんのように、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」との主イエスの御言葉を理解し、それに生きること、いへ、既にわずかと言えども、生き始めているということをです。

 祈祷
イエス・キリストの父なる御神、それゆえにわたしの天の父よ。御子の故に、私どもはあなたの子とされています。そうです。私どもは、あなたの御前に、幼子です。あなたとあなたの恵みなしには、ひと時も生きることができません。いよいよ、この事実に眼を開かれ、あなたにすがり、頼り、あなたの御守りを喜び、感謝する者とならせてください。また、本来はあなたに愛される価値のない私どもでありながら、弱い者であるがゆえにあなたに救われたことを忘れずに、この社会において、子ども、弱い者、弱くされてしまっている人々の隣人とならせてください。あなたを見出すことができるまで、私どもの信仰と霊性を深めて下さい。アーメン。