過去の投稿2011年10月18日

10月16日

 ―牧 会 通 信―

★  本日は、小川洋宣教師に、説教のご奉仕をお願いしました。先生は、日本キリスト改革派教会定期大会に合わせ、デピュテーション(宣教報告)のため日本に戻られました。1年前からの御約束で、今回の恵みにあずかりました。昨年、主の不思議な導きによって、ロンドンで礼拝説教のご奉仕をさせていただき、様々にお世話になり、先生のアパートを拝見しました。様々な感慨を抱きましたが、質素な生活の中で、英国における邦人伝道のために献身しておられるお姿に感銘を受けました。日本人は、海外で福音に触れるとき、実に驚くほど、心が開かれます。そこに日本の歴史におけるキリスト教とのかかわりの暗黒面を思わざるをえません。しかし、今や、世界はまさに狭くなり、海外で福音に触れる方も少なくありません。先生のお働きの有効性と必要性は明らかです。私どもは、祈祷会における「祈りのしおり」で、常に、宣教師の方々のために祈ってまいりました。アフリカ・ガンビアの川島利子姉、8月の後藤先生、そして小川宣教師・・・。これからも・・・。

☆  午後2時、中部中会伝道委員会の中根先生と○○長老が問安してくださいます。教会設立を直前に控える私どもの歩みを見に来てくださいます。委員方は、この半年間の歩み(教勢・経済他)を報告し、懇談します。一人でも、多くの兄妹方が、お残り下さるように強く願っています。
中根汎信牧師から、下記のメールを頂きました。「16日の問安を楽しみにしています。教会設立に向けての真剣な取り組みがなされていることと思います。主の祝福と導きを祈っています。大中会あるいは他教派の教会で、今までにいろいろなトラブルを見聞きしてきました。 悲しいことに、おおよそ主の教会とはいえない、とりわけ長老主義教会政治から遠くかけ離れた姿がありました。けっして長老主義は万能ではありません。どういう長老か、長老を選出する会員がどういう会員か、牧師も含めた長老たちによる教会政治が実際どのように行われるか。たえず自己検討・自己吟味を求められることと思います。信徒向けにと、添付したようなことを考えました。問安の時、お話しする時間があればと願っています。事務連絡的なことより、このようなことが協議されればと願っています。貴教会が、教会設立のあかつきには、これらの点で、模範的な教会となり、良い証しをたててくださることと、確信しています。」
   そして、午後、「九福の教会」と題して、教会形成の肝心要のポイントを語って下さいます。見事!と言わざるを得ません。先生には、問安ではなく、講演をして頂かなければならないと思わされます・・・。

【 1 キリスト中心の教会は幸いである。 ←→人間中心
2 キリストの御言葉が基礎にある教会は幸いである。 ←→人間の言葉
3 説教で、真実、神の御言葉が語られる教会は幸いである。 ←→人間の考え・主張
4 キリストにあって一致している教会は幸いである。←→人間による支配・操作・パワハラスメント
5 役員・会員が、謙虚・謙遜な教会は幸いである。 ←→傲慢・自分が主に
6 赦し、受容しあう教会は幸いである。 ←→裁きと排除の論理・行動
7 キリストと教会のために役員が献身している教会は幸いである。←→ボスのために仕える役員
8 信徒が福音的に生きている教会は幸いである。  ←→戒律的・因習的・非福音的な生き方
9 神学的に考える教会は幸いである。 ←→人間的に考える  】

☆  先週は、家内と共に、浜松伝道所にまいりました。浜松の愛する兄妹方は、伝道所委員を中心にして、熱心に主に仕え、教会を守ろうと励んでおられます。牧師を欠く教会生活・・・、皆さまは想像することができるでしょうか。会員一人ひとりが、ある緊張感を保持しながら、主の日の礼拝と日曜学校を維持しています。家内ですらその訪問を喜んで下さいます。定住の牧者、説教者、それは、教会にとって、必須の存在です。それは、決して効率とか、信徒に負担がかからない便利さだとか、その他、機能的な必要性から言うわけではありません。改革者カルヴァンはこう言っています。 「我々の論じるこの秩序とこのような種類の統治を、あるいは廃止しようと努力しあるいは余り必要のないものと見るものはみな、教会の散逸、いやむしろ破滅と滅亡を望む者である。地上の教会の保持のために使徒的・牧者的職務が必要なのと比べれば、現生の命を養い支える太陽の光と熱、また食物と飲み物さえも必要性は劣る。」(キリスト教綱要Ⅳ3・2 渡辺信夫訳p56)
教会にとって、説教者が太陽や飲み物のよう・・・、否、それよりももっと必要だと訴えているのです。私どもはそこまで、真剣に考えているのかと、鋭く問われます。要するに、キリスト者にとって、教会にとって神の言葉なしには、成り立たない、倒れてしまうということを意味しています。

★   学び会を終えた、交わりの中で、ある方が、「名古屋岩の上伝道所と一緒の集会をぜひ計画して下さい。」と提言されました。笑い話のように、「朝の礼拝式を岩の上で捧げ、すぐに、浜松に戻って、いつもの礼拝式を捧げることは不可能ではないですね~」と。もとより、現実は、ほとんど不可能に近いわけですが、しかし、そのような御申し出の中に、浜松の皆さまのある思いが込められていることを思いました。かつて私どもの委員会でも、「牧師と共に何人かで、浜松伝道所に伺って共に礼拝を捧げることも、大切ではないか・・・」との議論がなされました。これも現実は、岩の上の午後の奉仕、集会のため、委員が抜けてしまうことは、できませんから、なお、困難です。どうぞ、皆さまの祈りの中に、浜松の群れのための祈りを熱くして下さい。