―牧 会 通 信―
★ 15日土曜日の夜、尿管結石の激しい痛みに襲われ、救急車を呼んでしまいました。レントゲンを撮られ、尿管に石がありました。激痛の痛み止めをもらって、月曜日に再来するようにと言われ、家に戻らせて頂きました。主日は、小川先生の説教奉仕。まさに、恵みの摂理と言ってもよいと思います。司式は、私が、と思いましたが、痛みのある顔で、皆さまの前に出るのも申し訳なく、お言葉に甘え、渡辺委員にお願いしました。
☆ 鈍痛の中、小川先生から、「一つの艱難、多くの希望・・・。」「希望は欺くことはない。」との、神の言葉の説教に慰められました。当時の知識人は、希望は人間を欺くもの、つまり敵として考え、希望にすがる人を軽蔑すらしていました。しかし、パウロは、まさに福音の事実に基づく希望を宣言しました。「この希望は、わたしを欺かない。騙さない。恥をこうむらせられない。だからこそ、わたしは福音を恥としない」と語りました。これこそ有名なローマの信徒への手紙の冒頭の勝利の宣言です。牧師室には、額に入ったこの御言葉がいつも、わたしを見おろしています。神に望みを置く者は、神さまに欺かれることなく、恥をかかせられることもなく、まさに、神の約束に守られています。・・・つくづく説教を聴いて礼拝を捧げることの幸いを思わせられました。
★ 午後、子どもの教師会は失礼して休ませて頂きました。中会の問安の際に、また、出席しました。励ましにみちたときでした。残念ながら、2時過ぎということで、ほとんど教師たちだけの出席となり、「もったいない」…と思わされました。その中心課題は、当然、「教会設立」でした。(この時点で、痛みを忘れていました・・・)
☆ 先週のこの欄にも記しましたが、中根先生は、長老主義政治を採用すること、その意味で、「教会設立」を実現すればすべてがうまく行くということではないと、語られます。先生ご自身、長い牧会生活の中で、主の教会とは言えないような「現実」が少なくないことを、よくご存じなのです。その意味では、私どもが、これまでの歩みをいよいよ継承し、そして、それに甘んじず、今まさに、教会の主、頭なるイエス・キリストから問いかけられている、「教会設立」の課題に取り組むべきでしょう。
★ 余談ですが、先週、3:11以降、改めて読み直した「この国の失敗の本質」(柳田邦男氏)を、もう一度、読み直しました。著者は、日本自身が失敗から学ぶことのできない「文化的な欠陥遺伝子」を持つ、と表現しました。これは、日本の教会においても残念ながら、該当すると思わざるを得ません。3:11以前の出版ですが、預言者の響きを聴き取りました。社会学的な正しい知見の集積の上に、知恵ある言葉を語る著者に、我々は、謙虚に聞くべきだったのです。そして、教会(説教者)は、たとい社会学的な知識や掘り下げが不十分であっても、上からの真理の御言葉によって見抜くべき現実の悲惨を切り取って、警鐘を鳴らし、見張りの役目をなすべきでした。私どもは、悔い改め、赦され、再生されるべきです。
☆ 小幡長老が、退職後、自ら「長老職」を志願して、一年の学びの後、長老に就職されたと証されました。 大変、励まされました。今年、私どもは初めて委員を選挙によって選びました。そのような方が、まさに求められているはずです。そのために、いよいよ「教会」を知る、学ぶことが必要でしょう。教会に仕えることがどれほどに貴いことなのか。どれほど、すばらしいことなのか。教会人とされたことがどれほど重要な務めであるのか・・・。それが分かれば、全員が「志願者」になりたいと願うのではないかと、心から思っています。
★★ 次主日は、いよいよ!!全体研修会です。「教会設立実現のために、今、ひとりひとりがなすべきこと」という主題です。これは、わたしの講演が主になりません。「ひとり一人がなすべきことを・・・」つまり、わたし自身を含め、委員、そして会員のひとり一人が、「自分は何をすべきか・・・」これが、主題です。どうぞ、最後の一週間です。祈ってください。教会のために。自分の尊い使命と務めのために!!
☆ 礼拝式にて鈍痛の中にも、詩編133編を思いました。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」神の奉仕を豊かに受けるときが礼拝式に他なりません。これが第一です・・・。様々な重荷を担っている兄妹が、主の力強い慰め(の力)を受けることができること、幸いです。そして、私どもはそれに応えて、第一に神のために、第二に、自分じしんと会員(求道者・町の人々)のために、全力で礼拝を捧げるのです。(「まじわり誌」で川杉牧師が、欠席・遅刻は「キリストの体に損失を与える」と記しておられます。)
★ 教会設立を目指すとは、この喜びに奉仕する道です。中根先生が強調されたようにひとり一人が、健康なキリスト者として、交わりを築ける人、建てられる人として用いられることを求めましょう。その為に謙虚、謙遜にさせられ、奉仕者(ディアコノイ)として成長、成熟、つまり、「子どもとなる!」道をひたすら歩みましょう。長老も執事も教師(牧師)も、そのために先頭に立つ奉仕者・僕です。