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いのちの価値に目覚める-天国の尊さ-

「いのちの価値に目覚める-天国の尊さ-」
2011年10月23日
テキスト マタイによる福音書 第18章6~9節

【「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」】

 今朝、私どもに与えられた主イエスの御言葉を、文字通りに想像されたら、気分を悪くなさる方もいらっしゃるかもしれません。主イエスは、ここで、手足を切って捨てなさい、目をえぐり出して捨ててしまいなさいと仰るからです。
もとより、主イエスのここでの表現を、その文字づらをそのまま受け入れることは、読み間違いになると思います。レトリーク、レトリックという言葉があります。レトリークとは、自分が説明しよう、伝えようとする内容を、どれだけ正確に、どれだけ深く、相手に伝えることができるか、そのための技術を磨くことなのです。したがって西洋における学問は、このレトリークを基本中の基本として教えます。日本では、文章作法と言ったら少し分かりやすいかもしれません。主イエスは、ここで明らかにレトリークを用いておられるわけです。つまり、読者は、ここで、私どもが想像するよりももっとすごい、はるかに大変なことなのだと読者は、悟らなければならないのだと思います。

それなら、それほどまでの事柄とはいったい何を意味しているのでしょうか。今朝、ここで主イエスは、6回も一つの言葉を繰り返されます。「躓かせる」という言葉です。ギリシャ語では、スカンダロンと言います。これは今や、日本語になってしまったかもしれません。週刊誌などで、芸能人や政治家など有名人の隠れた悪い行いが暴露されたとき、それをスキャンダルと言います。あのスキャンダルです。このスカンダロンが語源です。
実は、キリスト教、教会生活において、この「躓く」という言葉は、案外、多く用いられているように思います。しかし、まさに感謝なことですが、私どもの教会で、この言葉を聞くことは、これまでほとんどなかったかと思います。
それは、わたし自身が気をつけたいと考えてまいりましたし、これからもそうなのです。たとえばもし教会員のどなたかが、「わたしは誰それさんの言動に躓きました。躓かされました。」このような言葉が聞こえてきたら、わたしを始め少なくとも伝道所委員方は、聞き過ごしてはならないと思います。名古屋岩の上教会では、これまでなかったことです。しかし、今朝、この御言葉を扱うテキストが与えられていますので、やはり、大切なことですから、私どもがこれからも常に注意し、わきまえるべきことの一つとして触れておきます。
そもそも、「あの人の言葉や行いのせいで、自分の信仰の成長を妨げられた」とか、「信仰が落ち込み、教会生活がままならないのは、あの人の言動が自分を躓かせたからだ」ということは、わたしじしんは、責任転嫁の言葉だと言わざるを得ない場合が多いと思っています。誰か人のせいにしていても、結局、信仰とは、神の御前に、神の御顔の前で生きる以外のなにものでもありません。

ただし、主イエスが語られたように「躓き」という事、「躓かせる」という事は、現実に起こる、起こっていることも、否定できないと思っています。そして、そのことは、どれほど注意してもなお、起こってしまうというまさに悲しい現実であることを、教会の交わりを築く上で、必須の知識とすべきだと思います。たとえば、ヤコブの手紙第3章は、はっきりと告げています。「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。~舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」ヤコブがこのように書き送ったその背景には、実際に、教会の交わりにおいて悲しい現実が起こっていたからだろうと思います。まさに、この点での失敗を少なくして行くことが、前回の説教でも学びました、「子どもになること」、子どもになる道、つまり、私どもが真実の意味での大人としての成長、人間としての成熟への道なのです。

さて、それなら、ここで主イエスが語られた躓きとはいったいどのような意味でしょうか。何かに蹴躓いてしまったとき、転んでしまいます。躓くとは転ぶということです。昔、「ネズミ捕り」という機械がありました。ネズミが板の上を歩くと、バネがパチンと外れてネズミをはさみこんで、逃げられなくする道具です。ネズミにしてみれば、まさかこんなところで、動きがとれなくなってしまうなどと考えてもいなかったと思います。そのような罠にかけ、罠に誘うようにすること、つまり誘惑すること、これが躓き、スカンダロンの本当の意味なのです。そして、新約聖書では、神との関係においてこの言葉を用いているわけですから、スカンダロン、躓きには、罪を犯させるという意味が生じます。つまり、「躓かせる」という言葉は、人をして罪を犯させること、罪へと誘惑することだと言い直してもよいのです。

さて、最初に語られたみ言葉に学びましょう。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」
ここで、「しかし」と前回の説教と繋げていますが、ここでは、むしろ「したがって」とか「だから」とか、「それ故に」と理由を説明する接続詞と訳すと分かりやすくなると思います。「わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」だから、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」という意味です。
主イエスは、ここで、「このような一人の子ども」を「これらの小さな者の一人」と言い換えておられます。主イエスは、ここで徹底的に、ひとりの子ども、小さな者にこだわっておられるのです。そして、この小さな者とは誰なのかと言えば、これこそ、わきまえていたい第一の事ですが、それこそ、私どもキリスト者に他なりません。私どもは神の御子イエスさまを信じ、恵みによって悔い改めを与えられ、すなわち、心を入れ替える救いの恵みにあずかった者たちです。そのようにして、神の子どもとされたのです。
そして、驚くべきことは、主イエスは、ここでこの小さな子ども、小さな者、取るに足らない者を、イエスさまご自身と見なしておられると宣言されます。いったい、主イエスご自身と、その父なる御神、それゆえに私どもの天のお父さまは、どれほどまで私どもを深く愛し、徹底的に顧みられるお方なのでしょうか。まさに、驚かざるをえません。
だからこそ、こう語られるのです。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」たった一人のキリスト者を躓かせるなら、つまり、罪を犯させるなら、もっとはっきりと発音しましょう、父なる神から引き離そうとするなら、そのような者は、大きな石臼を首にかけられて、日本海溝のように深い海に沈められてしまった方がまだましだと言うのです。

主イエスは、ここでは、直接的には、キリスト者を迫害する者、キリスト者をご自身と父なる神から引き離そうと企て、実行する者に対する恐るべき警告としてこう語られています。「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。」確かに、この世は、そしてこの世の霊と言われるサタンは、常に、キリスト者を、神さまの愛から切り離そうと試みます。だから、限りなく不幸、この上なく不幸なのです。
ただし、この説教を第一に聴いているのは、迫害する者たち、敵対する人々ではありません。小さな者、神の子どもたちに他ならない弟子たちなのです。ですから、ここで語られた主イエスの御心はむしろ、キリスト者私どもに対してなのです。つまり、ここで主イエスが、伝えたい相手、わきまえてほしい相手は、私どもキリスト者なのです。主イエスはここで、私どもにお与えて下さいました救いの恵み、天国のいのち、天国にはいる特権がどれほど、すばらしいものであり、価値あるものであり、尊いものであるのかを明らかにされたのです。そして、それは、こうも言い換えることができるはずです。私どもに与えたその罪の赦しの恵み、永遠のいのちを、限りなく大切にしてほしい、徹底的に重んじてほしいという、私どもへの強烈なメッセージです。
それはまた言いかえれば、私どものいのち、永遠のいのちがどれほど大切なのかを、今一度、悟りなさいと言う呼び掛けです。主イエスは、既に第16章で仰せになられました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」もし私どもが、自分の地上の生命、肉体の生命を延ばそうとして、主イエスへの信仰を軽んじてしまったり、果ては捨ててしまうなら、自分のまことのいのち、永遠のいのちを失ってしまう、捨ててしまうことになるということです。

さて、次に進みましょう。「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
ここでは、誰がキリスト者を躓かせようとするのでしょうか。それは、一読して、自分じしんと読むことができるかと思います。自分の片手が、自分自身の片足が私ども自身を躓かせることが起こるなら、切って捨てなさいということです。片方の目が私を躓かせるなら、片方の目をえぐり出して捨ててしまいなさいということです。ただし冒頭、申しました通り、まさに、これを文字通り読むなら、読みそこなうでしょう。教会の歴史の中で、あるいは、私どもの教会の中で、このように実践した人のことを、わたし自身はひとりも知りません。もし、これを文字通り実践すべきだと主張する方がいれば、おそらくその方自身、片方の目どころではないはずです。両の目をえぐりださなければならないのではないでしょうか。
最初に、スキャンダルのお話をしました。誰かが犯罪を、あるいは、犯罪にまではならなくとも道徳上、世間の人々から後ろ指を指されるようなことをしてしまったと致します。我々は、いへ、私どもはそのとき、その人のことを思って手をたたいて喜ぶことはしないでしょうが、どこか自分はまだまだましなのだと思ったりすることは、ありうるのではないでしょうか。
さて、この主イエスの説教もまた、まったく新しい真理が語られたということではありません。既に、あの有名な山上の説教の中の教えが思いださせられます。「しかし、わたしは言っておく、みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」もはや、最後まで読まなくともよいかと思います。つまり、主イエスは、ここで今一度、私どもに、永遠のいのちの尊さ、救いの大切さをわきまえるようにと呼びかけられたのです。

私どもは、今改めて、主イエスが、何故、ここまで踏み込んだ表現をなさってまでも、お語りになられなければならなかったそのお心、お気持ちを考えてみたいのです。
 今、朝日新聞の朝刊で、「プロメテウスの罠」という連載が始まっています。大メディアが福島第一原発の大事故、原発震災の実際について特集を始めています。率直に申しますと、私は、「今更何を」と思っています。3月12日の時点で、つまり水素爆発が起こる前から、実は大変な量の放射線が既に放出されていたことが、あの時点で明らかになっていたと言われています。さらに言えば、スピーディという放射性物質の拡散予想システムの情報も、まさにスピーディーに開示されませんでした。国も県も、まさに生命に直接かかわる情報を福島県の浪江町、飯舘村などの方々に教えなかったわけです。その日の見出しは、「殺人罪じゃないか」とされていました。
 説教で丁寧にお話する暇がありません。しかし、我々の国は、ひとりの人間、いへ、数万、数十万の人々のいのちの危険性と数百、数千万の人々の経済、暮らしを天秤にかけたのです。その結果、真実を知らせないことを選んだのだと思います。浪江町の方から、「それは、まさに殺人行為ではないか」と批判されたわけです。繰り返しますが、今頃になって、ジャーナリズムが取り上げるというところにも、朝日をはじめ大新聞の責任を思います。
私どもは今、あらためて思います。日本は、さらに言えば我々人間は、本当に人間のいのちの尊さを知っているのでしょうか。これは、素朴ですが根本的な問いです。21世紀の今から20世紀を筆頭に歴史を振り返れば、まさに、人間は、人のいのちを極限まで軽んじたと断言できるはずです。戦争や飢餓の問題を考えるなら、人間は、人間を虫けらのように扱ったと言わざるを得ない事実があります。しかも、今我々のこの国で、起こり続けているわけです。
国家つまり国家権力は、国民を、まさに一人の人格、人権として見ないで国民とみる、名前を持った個人として見ないで、数として見るだけなのでしょう。それなら、市民である我々ひとりひとりはどうなのかと問うならば、いかがでしょうか。我々もまた、世界の貧困、差別、日本にあるさまざまな人間の課題を、そのようなリアリティー、名前があるひとりの人間の緊急の危機としては、考えない、考えられないのではないでしょうか。
自分の家族、兄弟、親戚、自分のごく近しい方、友人それくらいしか、考えが及ばない、想像の翼を羽ばたかせることができない、これが、我々の、私どもの現実ではないかと、神の御前に、まさに、罪深さを嘆き、恥じる以外にないのではないか、そう思います。
実はしかし、そこでもさらに掘り下げて考えてみるべきです。私は今、自分の家族、兄弟、親戚、友人と申しました。しかし、真剣に反省すれば、その方々のことですら本当に重んじていると言いがたいのではないでしょうか。自分の小さな交わりにおいても実際はできていないのではないかと思うのです。
それなら最後に残るのは、自分自身です。自分のことは、やはり一番かわいいので、自分を優先する。自分のことだけは、重んじている。もしかすると、このように考えやすいと思います。それを、完全に否定することはできませんし、比較するならば、やはり、自分が一番となるのでしょう。しかし、主イエスは、さらに問いかけて下さいます。厳しく、深く今朝、問いかけて下さいます。「あなたは、本当に、自分のいのちの尊さ、尊厳に目覚めているのですか」と。あなたは、わたしが目の色を変えて、このように訴えている意味が分かりますか。あなたは自分のいのちの尊さを、本当に知っていますか。その大切さがわかっていますか。」
私どもは、うろたえてしまうのではないでしょうか。本当に、わたしはわたしを大切にしているだろうか。自分のいのち、生活、人生を重んじているのだろうかと、振り返る時、私どもはそこでこそ、恥じ入るのではないでしょうか。

ここでのいのちとは、何を意味するのでしょうか。改めて確認しましょう。これは、「肉体の生命」のことを第一に考えているのではありません。バイオ、バイオロジーと言うような肉体の生命を意味するギリシャ語のビオス、生命ではないのです。どれほど肉体の生命、ビオスを延ばしたとしても、ギリシャ語のプシュケーつまり魂のいのちを失ったら何にもならないのです。魂の救いによって与えられる永遠のいのち、ギリシャ語ではゾーエーですが、このゾーエー、永遠のいのちを失ってしまったらまったく何の意味もないのです。そして、ゾーエーを失うということは、裏側から言えば、火の地獄に投げ込まれるということを意味するのです。
今朝の主イエスの説教とは、そのような恐るべき霊的な現実を、主イエスが見ていらっしゃるように、私どもは見ているのかと言う問いです。自分じしんのことなのに、私どもにはるかにまさって、主イエスがわたしどもの救い、罪の赦し、信仰、父なる神さまとの交わりを大切に配慮しておられるのです。私どもは、自分の肉体の生命、健康に配慮する以上に、魂の健康に配慮しているのかと言う問いです。大切にしているのかという問いなのです。
ここがとことん分からない限り、ここが定まらない限りは、人類は、人間の歴史は、いつまでたっても、人間を、弱い立場の人間を踏みつけ続け、力ある人々の幸福の手段に利用されてしまうということが起こるでしょう。

この説教は、まさに、主イエスの説教だと思います。いったい主イエス以外に誰がこのように語ることができるのでしょうか。本当に、主イエスでしか言えない真理だと思います。
何故なら、本当に、心底、人間を愛し、大切にし、しかも、第18章の主題です、このひとりの小さな者を、ご自身そのものとして重んじられるイエスさまだからこその御言葉なのです。
先回も学びました、当時の人々の目から見れば、幼子は、人格として認められていませんでした。生産能力のない、力弱い立場の人間は、顧みられないのです。しかし、主イエスは、この幼子ひとりを受け入れるということは、わたしじしんを受け入れるのだと、ひとりの人間の永遠のいのち、救いをそれほどまでに宝とされたのです。
昔イザヤは告げました。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」(43章4節)。神は、イスラエルの民を高価で尊いと宣言されました。わたしの宝物、宝石だと語られ、愛すると告げられました。しかもこのイスラエル民族の身代わりに、彼らの救いの身代わりにある人が与えられると予告してくださいました。
それはまさに今、神の御子イエス・キリストにおいて成就しました。しかもイスラエル民族でありながら同時に、そのたった一人のためにも、その魂の救いを値高いもの、貴いもの、貴重なものとされたのです。そして、御子のいのちそのものが十字架で身代わりに与えられ、このたったひとりの小さな者を救うのです。
そして、私どもこそ、このひとりの小さな者であったのです。したがって、私どもは、もはや自分自身を軽んじることはできないのです。自棄になったり、信仰生活や教会生活を第一にせず、大切にしないこと、それがどれほど、自分を大切にしないことなのか、それが、私どもはまだまだよく分かっていないのではないでしょうか。神を重んじること、神さまを第一にして行くことは、つまりは、自分の尊厳に気づく道なのです。キリスト教信仰は、常に、冷静です。熱狂主義ではありません。「目をくりだしなさい」と主イエスが仰ったのは、私どもを宗教の世界に縛り付けるためなどではありません。私どもを罪から解放し、自由にし、天国の自由、新しい価値観に生きるまことの祝福を注ぎ、生かすためなのです。
もし、私どもが教会や信仰を、父なる神や主イエスを二の次にしているとき、そこで、自分が何をしているのかと申しますと、結局、自分のいのちを粗末にしてしまっているだけなのです。そして、その愚かさに真っ向から挑んでくださったのが、キリスト・イエスさまです。「それではだめだ。自分自身で、スカンダロン、躓く、私と父なる神から離れて行こうとしてはダメだ。恐ろしいことなのだ」と、全力で、我々の想像力を大胆に刺激して、威嚇してくださるのです。
しかし、ここで語られた恐ろしいまでの威嚇の言葉は、とても不思議です。結局、私どもは、誰一人、自分の足を切り捨てず、手を切り捨てず、目をえぐりださなかったのです。しかし、ただ人となられたキリスト、主イエスおひとりだけが、これを実行し、これ以上の事を成し遂げて下さいました。ご自身の「いのち」を十字架の上で、犠牲にしてくださったのです。十字架の上で、この恐るべき犠牲をいとわずに、この小さな者、幼子の一人であるわたしを、あなたを救って下さるために、苦しまれたのです。ご自身のいのちを犠牲に支払って下さったのです。
これが、あなたの値打ちだと、これが神の目に映るあなたの価値なのだと、父なる神は、見せて下さいました。私どもは、だから、何を犠牲にしても、この信仰、この信仰の良心を重んじるのです。これは、肉体の生命より大切だということが分かったのです。だから、私どもは、この世界、この世にの価値観に抗うのですし、抗わなければならないのです。
私どもは、今朝、今一度、自分のいのちの重さを、感謝をもって受け入れなおしましょう。そして、主イエスを、神を、信仰を、教会の生活を重んじてまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもの信仰の眼差しを開いて下さい。あなたの眼差しにうつる私どもが、どれほど、貴い宝とされているかを、小さな者として見ていて下さる幸いを悟らせて下さい。まさにあるがままで、あなたに受け入れられ愛されていることを徹底的に悟らせて下さい。そして、そこから、自分を見、隣人を見、この世界を、そこに暮らすすべての人々のいのちの貴さと輝きを、主イエスのように見させてください。主イエスはいのちを与えて下さいました。私どもは、その福音の事実を、告げることへ、証することへと押し出し、解き放ってください。教会生活のその重みをいよいよ知り、これに生きる者としてください。アーメン。