過去の投稿2011年10月28日

教会のディアコニア・オリエンテーション

Ⅴ 政治基準(教会職務制度)における執事職
 教会の執事的奉仕(教会のディアコニア)を学んでいる我々にとって、「執事の務め」を集中して学ぶことは、当然である。我々の「政治基準」を通して、執事職そしてディアコニアについて学ぶならよい学びができるはずであるが、時間がない。下記、熟読されたい。

日本キリスト改革派教会政治規準より
第10章 執事
第56条(執事の職務) 
執事の職務は、聖書によれば、主イエス・キリストの模範に依って、愛と奉仕の業を行い、聖徒の交わりを特に相互の助け合いにおいて具現するものである。
第57条(執事の資格)
  この職務を担当する者は、霊的品性を持ち、模範となる生活を送り、家をよく治め、よい名声を持ち、あたたかい同情心と健全な判断力を持つ者でなければならない。
第58条(執事の任務) 
執事の任務は、次のとおりである。 
一 貧困・病気・孤独・失意の中にある者を、御言葉とふさわしい助けをもって励ますこと。 
二 献金の祝福を教会員に勧め、教会活動の維持発展のため及び愛の業のためにささげられたものを管理し、その目的にふさわしく分配すること。 
三 教会会計及び教会財産の維持・管理を小会の監督の下に行うこと。ただし、財政上の重要事項は、会員総会の議を経て行わなければならない。 
四 個々のキリスト信者が愛の律法によって果たすべき一切の義務を、特に執事として果たすこと。 
五 教会員と共に、また教会員のために祈ること。
六 牧会的配慮を要する事柄を、牧師に知らせること。 
七 伝道すること。 
八 諸集会のために配慮すること。 
九 教会内外の執事的必要を調査し、教会員に訴えること。
2  執事は、中会または大会において執事的働きに関する委員に選ばれることができる。
第59条(執事会) 
各個教会の執事は、三名以上の執事をもって執事会を組織する。教事会は、小会の監督の下におかれる。
2  執事会は、議長・書記・会計を選出し、毎月一回定期会を開かなければならない。特別な事情のため、毎月一回開催できないときでも、少なくとも三ヵ月に一回は開かなければならない。執事会の定足数は過半数とする。
3  執事会書記は、執事会記録を定期的に小会に提出し、承認を受けなければならない。
4  執事会は、必要があれば小会と合同協議会を開くことができる。            」
第60条(執事会職務の代行) 
三名以上の執事を確保することができず、執事会を組織できない場合でも、執事的働きは遂行されなければならない。その場合の勤事的働きは、執事が長老と共同して、あるいは執事が全く選出されない場合には、小会が行うものとする。
2 伝道所においては、伝道所委員会がこの職務を代行する。
  
改革派教会は、教会に不可欠の三つの職務として、「牧師・長老・執事」の三つの職務制度を立てることを基本としてきた。これは、キリストの教会が、キリストの三職である「預言者職・祭司職・王職」に対応する業を付託され、継承されているという理解に根ざすものである。

 我々の教会には、牧師(宣教教師)以外に、任職された仕え人はいない。近い将来の小会設立をめざし、伝道所委員会は、将来の小会・執事会形成の準備期間として位置づけ、小会運営を「真似て」なされ始めている。ただし、現行の政治基準上から、伝道所委員は執事職に近いのではないかと考える。

いずれにしろ、改革派教会の自己理解において、第60条で規定されている通り、教会には執事職が必要不可欠とされてきたことは、特筆すべきことである。教会の本質がまさにディアコニアそのものであることを雄弁に物語っていると言えよう。ディアコニアは、教会に不可欠の務めなのである。

そうであれば、執事職がおかれていない現在の我々の伝道所こそ、この執事職の「務め」の重さ、重要性を認識したい。実に、伝道所委員会とは、伝道所におけるディアコニアの主体そのものなのである。しかし、現住陪餐会員は、誰でもが、「執事」の務めへと召され、課せられ、担うべき自覚を持つべきではないか。
キリスト者として救い出され、召し出された者は、すべての者にディアコニア、愛の奉仕に生きる使命が与えられている。もし、現住陪餐会員として選ばれた我々が、教会における奉仕の責任、務め、立場を担うことがなければ、会員、キリスト者であることの意味、使命を見失っていることとなるであろう。

もとより、教会には、病床にいらっしゃる方、高齢者もいらっしゃる。与える側ではなく、ただ受ける側にある方がいらっしゃることを、忘れてはならない。しかも、それぞれが互いを必要としていることを決して忘れることはできないし、忘れてはならない。我々、ひとりひとりは、神がご自身の家族として、一つの教会へと招集されたお互いにとってかけがえのない一人なのである。

また、使命に生きる共同体であればこそ、そこで傷つき、悩む我々は、王である僕、キリストの慰めを豊かに受けることなしに立ち行けない。御言葉に服従し、実践するキリスト者にとって、キリストが共にいてくださり、キリストの慰めに生きる共同体として教会の交わりは、不可欠となる。

ここで我々の課題として、記しておきたい。これまでの学びの視点から第10章の執事職の定義について見つめ直すとき、克服すべき点もまた明らかになるであろう。たとえば、執事の働きを、「聖徒の交わりを特に相互の助け合いにおいて具現するものである。」と狭い意味での教会形成に限定、自己規制している。この点は、今日の我々の課題として焦眉の急とすべき点であろう。

参考
⑴ 大会執事活動委員会「執事職の手引き」1997年
「ディアコニアは、単に食卓や配給のことに限って用いられている語ではありません。この語は、御言葉の奉仕(使徒言行録第6章4節・コロサイ第1章23節)、パウロに「仕える」オネシフォロ(テモテの手紙Ⅱ1章18節)、慈善の業(献金コリントの信徒への手紙Ⅱ8章4節)、教会内の種々の務め(コリントの信徒への手紙一12章5節)。すべてのキリスト者が、主に対して、兄弟に対して、奉仕者でなければならないということを学ぶべきでしょう。」(p9)
「使徒言行録第6章において、三回ディコアニアが記されているが、「日々の分配」「食事の世話」「御言葉の奉仕」と新共同訳聖書は、訳し変えた。」(p10)

 ⑵ 「執事職 改革派の伝統と現代のディアコニア」
(エルシー・アン・マッキー著・一麦出版社)より
 「執事職は、一つのからだとしての教会は、神の民が苦しむなら、たとえ彼らがどこにいようとまた誰であろうと、彼らに関わっているということの決定的な制度的証しであり、指針なのである。」(p160)

20世紀後半におけるディアコニアの諸規準
① 「ディコアニアは、教会の生命とけんこうにとって本質的な事柄である。」
② 「ディアコニアは地域的教会の中で形成される。
 各教会がおかれている社会の要求に対して開かれていなければならない。」
③ 「地域的なディアコニアは、世界大のディアコニアによって補完される必要がある。」
④ 「ディアコニアは、予防的措置を強調すべきである。苦難や貧困の原因を扱わなければならない。」
⑤ 「ディアコニアは構造的あるいは政治的領域に関わる・・・それゆえ教会は正義に関心をもたねばならない。たとえ奉仕の目的が政治的でなくとも、結果的にはそうなりえる。」
⑥ 「ディアコニアは人道主義的なものである。それは、ディアコニアが教会やキリスト者に限定されないということである。より公正で、より人間的な社会のために教会の外で闘っている献身的な個人や団体を通しても働いておられることを承認しなければならない。」
⑦ 「ディアコニアは相互的なものでなければならない。真実な奉仕者は他者のなかに神の似像を見て取るゆえに優越感を抱く事とは相容れない。」
⑧ 「ディアコニアは解放するものである。」  (pp145-146)
  
Ⅵ キリスト者の誘惑としてのディアコニア? 善き業とディアコニア
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」                
(エフェソの信徒への手紙 第2章8-10節)

神に義とされるのは、ただ恵みのみ、信仰のみによるという信仰義認の教理は、我々の信仰の根幹をなす教理に他ならない。万一、自分の救いの確かさを、ディアコニアに求めるなら本末転倒となる。上述どおり、キリストの教会のあらゆる営みの出発点は、ただ主キリストから生じるものである。よって、キリストを根拠にしない、できないようないかなる「善行」も教会は拒否するのである。

しかし、義とされたキリスト者は、ただちに、新しく創造された者である(コリントの信徒への手紙Ⅱ第5章17節)。すなわち、神の作品であり、善き業をするようにキリストにあって造られた者に他ならないのである。つまり、聖化の歩みへと解き放たれ、導かれている。教理的に言えば、聖化(の歩み)においてディアコニア論は成り立つのである。我々の救済論が、ナイーブなものとなること、つまり、善き業についてのウェストミンスター信仰告白に基づく確信に建てないとき、信仰義認そのものが空洞化する危険を指摘せざるを得ない。下記、熟読されたい。

ウエストミンスター信仰告白第16章「よきわざについて」
1   よきわざとは、神がそのきよいみ言葉において命じられたものだけであって、人間がみ言葉の保証なしに、盲目的熱心から、または何か良い意図を口実にして案出するものではない。
5   わたしたちは、自分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない。その理由は、そのよきわざと来たるべき栄光の間に大きな不釣合があり、またわたしたちと神との間には無限の距離があって、わたしたちはよきわざによって神を益することも前の罪の負債を神に償うこともできず、かえって、なし得るすべてをなした時にも自分の義務をなしたにすぎず、無益なしもべだからであり、またそれが善であるのは、それがみたまから出ているからであって、わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである。
6   しかも、それにもかかわらず、信者自身は、キリストによって受け入れられているので、そのよきわざもまたキリストにおいて受け入れられる。それは、そのよきわざが、この世で神のみ前に全く非難され責められるべき点がないものであるかのようではなくて、神がそれをみ子において見られ、誠実なものを、多くの弱点や不完全さを伴ってはいるが、受け入れて、それに報いることをよしとされるからである。
7   再生しない人々がする行為は、事柄としては、たといそれが神の命じておられる事柄であり、自分にも他人にも有益であるとしても、それでもなお、信仰によってきよめられた心から出ておらず、み言葉に従って、正しい態度からも、また神の栄光という正しい目的のためにもなされていない。それゆえその行為は、罪深いものであり、神を喜ばせることも、神から恵みを受けるにふさわしくすることもできない。それでもなお、彼らがこの行為を怠ることは、一層罪深く、神を怒らせることである。

Ⅶ ボランティアかディアコニアか
今日、既に「ボランティア」という言葉は、日本社会に定着している。そもそもボランティアにおける自発性、自発的社会奉仕などは、もともと聖書的発想と言えるものであろう。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」 (コリントの信徒への手紙Ⅱ第9章7-8節)

世俗社会においてボランティアが、生きがいや自己実現、自分の存在価値を確認するため、地域社会との交流、友人を増やすため、自分の特技を発揮させるため・・・等の理由でなされている。理由は、いかにあれ、それらが誰かを助けるための行いである限り、決して「悪い」ことではない。

しかし、前述のとおり、キリスト者は神の御前で、いかなる「善行」も功績にはならないことを弁えているゆえであろうか、世俗ボランティアへの消極的参与、さらには批判に至るキリスト者もいる。あるいは反対に、教会の奉仕とは別に、一般のボランティアにこそ使命感を抱くキリスト者もいる。いずれも、批判し、克服しなければならない極端である。キリスト者として地域社会のボランティアに生きる人々を評価し、感謝することは、当然過ぎることなのである。そしてそうであれば、そのような地域の福祉に従事している団体、個人を励まし、祈ることは教会の務めである。 

ただし、キリスト者でしか担えない業に専心することを、日本のキリスト教の実力に鑑みて、優先されるべきではないかと思う。

※ 私どもは、東日本大震災において、止むにやまれぬ同情心に駆られてなされた数多くのボランティアの働きにどれだけ励まされ、教えられ、ときに叱咤されたことであろうかと思います。私どもが、亘理町・山元町においてのディアコニア活動をなしたとき、そこには常に非キリスト者たちのボランティア活動となされていました。私どもは、礼拝式の牧会祈祷や何よりも祈祷会では、【愛と正義と福祉の働きのために働いている宗教、信条を越えたすべての人々、諸団体の上に、神の祝福、導き、支えがあり、ご自身の栄光のために用いて下さい】と祈っています。したがって、これらの記述は、けっして一般のボランティアを否定したり、貶めるものではありません・・・。また今回、教会として被災者に有効なディアコニアを示しえない現実に、一般のボランティアとして現地に出向いてディアコニア(ボランティア)活動に従事されたキリスト者もいると伺いました。

 ※ 東日本大震災において、キリスト教会内部から自らのディアコニアを「ボランティア」と称して語られることについては、既に、週報で牧師としての見解を公にしています。再録します。厳密な議論は、後日改めて、と思います。

【ボランティアは、自発的になすわけで、基本的には、義務ではありません。やめたくなれば、やめても誰にもとがめられません。(もとより、保険に入るのが常識ですし、自己責任が問われます。多くの場合は、組織の中で動くわけですから、組織の規制の中で、協調性をもってなさなければなりません。)しかし、ディアコニアは、違います。それは、神の召しなのです。神に責任を負うのです。したがって、祈ることからしか始まりません。祈りの中で、御言葉を受け(御心を知り)、応答するものなのです。したがってまたそれは、キリスト者個人のものではなく、彼が属する教会に責任を負います。ディアコニアとは、教会の働きなのです。たとい個人が担う場合も、教会員として働くのです。~】