過去の投稿2011年10月28日

「教会のディアコニア」・オリエンテーション

「教会のディアコニア」・オリエンテーション

浜松伝道所 学び会のために & 岩の上全体研修会(10月30日)準備のために

≪2006年10月22日 「教会全体半日研修会講演記録」 ※部分 加筆≫

日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所 相馬伸郎

浜松伝道所委員会は、東仙台教会が担っているディアコニアに深く共鳴し、伝道所内にディアコニア支援室を設置しました。現在、◎◎委員を中心に企画された、「ひびき工業団地4」仮設住宅の入居者支援に取り組んでいます。

このディアコニアの理念は、「浜松伝道所では、東仙台教会の東松島市内の仮設住宅におけるディアコニアの後方支援として、文通と物資支援を行います。このディアコニアの主な目的は、仮設入居者と手紙を中心としたコミュニケーションを構築し、キリストの愛を証し、被災者の新しい自立に仕えようと願うものです。そのために、被災者の物質的な支援は極めて重要であり、現時点では必須のことと考えます。」として明瞭にされています。
これはまた、既に、中部中会東日本大震災ディアコニア支援委員会からの献金を受け、浜松伝道所を中核にしながらも、ひろく中部中会有志によって担われ始めています。

そもそも浜松伝道所の大震災のためのディアコニアは、既に4月、◎委員が大会ボランティア登録をなし、キリスト者個人のボランティアとして現地に赴き、泥かき等の活動をされ要としたことに基づきます。このとき、伝道所委員会は、個人ボランティアではなく、教会から派遣する個人の業として位置づけ、献金を託したのでした。
また、日曜学校教師会は、被災地の子らへの支援のため、お菓子を100個送るディアコニアを実践しました。福島伝道所の栗原定住伝道者によって配布されました。

また、被災牧師として毎日、昼夜問わず活動しておられた宮古コミュニティーチャーチ牧師のリフレッシュのために牧師館を開放し、2泊、有志で接待させて頂きました。

これらの活動は、前任者の金起泰先生が、教会形成のビジョンとして掲げられた「隣人への愛を実践する共同体」の実りとして考えることができると思います。

この「隣人への愛を実践する教会(共同体)」こそ、「ディアコニアに生きる教会」と言い換えることができるのです。

代理宣教教師の仕える名古屋岩の上伝道所は、「ディアコニアに生きる教会」を目指して現在その第6年目を歩んでいます。浜松伝道所委員会は、浜松の兄妹にも、「ディアコニア」についての学びが必要と判断し、下記、06年、名古屋岩の上伝道所でなされた代理宣教教師の講演記録をテキストにする事としました。 

はじめに 「教会のディアコニア元年」
① 今年度(06年度)の「年報」の表紙およびp16に、「教会のディアコニア元年」と記した。p11には、「全会員が執事的奉仕」とも記した。
このように、教会のディアコニアを考えることを志して、新年度を出発したわけであるが、実際に学び始めたのは、9月と10月の読書会、そして10月の3回の祈祷会においてであった。もとより、教会のすべての学びと同様に、この学びにも終わりはないのである。その意味では、この原稿もまた、毎年、書き改め、書き加えながら整えて行ければと願っているし、それでよいと思う。教会のディアコニアの学びは、我々にとって、まさに「途上の学び」なのである。
しかし同時に、最初に確認しておきたいことがある。我々は、ディアコニア「元年」と記して取り組んだのであるが、そもそも、94年の開拓伝道開始以来、ディアコニアを必死に生きて来たし、実践してきたはずである。数少ない教会員・伝道所委員・牧師の献身的なディアコニアなくして、今日の我々の教会形成はありえないからである。
私じしんもまた、使徒言行録第6章2節~4節に記されているとおり、牧師、説教者の職務に専心してきた。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話(ディアコニア)をするのは好ましくない。~わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕(ディアコニア)に専念することにします。」わたしも、他の牧師たちとともに、あるいは使徒パウロとともに、「誰よりも多く働いてきたのである」とスコシハ言えるのではないかと思っている・・・。
「元年」の意味は、集中的に、意識的に聖書のディアコニア、教会のディアコニアの全体を、特にその中でも、地域・社会における教会のディアコニアを考える意味での元年という意味である。下記、改めて読みなおそう。

② 06年度「年報」より 「全会員が執事的奉仕者」
「Ⅲ 「教会のディアコニア」元年
  ~~今回、掲げた「教会のディアコニア(ギリシャ語。奉仕、給仕、世話・・・等の多くの意味を持つ。ここからディーコン(英語)=「執事」の職務が生まれた)」、それは、正直に申しますと、牧師として、明確な理解に基づいて指導、先導することができない事柄なのです。素直に、認めなければなりません。ついに、自分のなかで、神学的な理解を整えることができたので、旗を振り上げるのではないのです。
最近、特に、覚えさせられていることがあります。教会が、この世に仕える方向性を持たないなら、まことに聖書的な教会として形成されてゆくことができないということです。そのままでは、健康な教会とは言えないという危機感なのです。
実は、「教会の執事的奉仕」について既に何年も前から考え続けてまいりました。ある兄弟には、将来、教会をこの方面で牽引し、活躍して欲しいと、いくつかの可能性を、話したことがあります。しかし、残念ながら、開拓伝道の真っ只中で、人材も経済も、ほとんど何の見通しもないときでしたから、私自身もそれ以上のことは語りませんでした。しかし今、私は、反省を込めて考え直しています。つまり、経済や人材が整ってから、つまり力がついて、教会の外に向かうだけの余力がついてから、ディアコニアに立ち上がるということでは、結局、いつまでも教会自身が立ち上がらないのではないかということです。
 その決定的な動機付けを与えられたのは、やはり、日本キリスト教会東京告白教会の渡辺信夫牧師との出会いであったと思います。また、上田教会の故四竈牧師や、横浜長老教会の登家牧師などの実践を見ながら、激しく問われたことでした。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もとより、教会内部においても執事的奉仕を待っている仲間、求道者、未信者がおられます。そのように考え始めると、「何もきちんとできていないのに・・・、あまり大風呂敷を広げないほうが・・・」という声も出るかもしれません。正しい意見です。しかし、目前の課題を誠実に、真実に対応して行くなら、主が必ず、私どもを用いて下さるはずです。問題なのは、「できません。」といって、何もしないで、「自己目的の教会(キリスト者)」に転落して行くことにこそあるのではないでしょうか。今年は、「教会のディアコニア」元年としたい、と祈り願います。」

③ 「ディアコニア」の語義について 
ディアコニアは、もともと「食卓の給仕」を意味するまったく世俗の用語である。そこには権力、栄誉、特権などは介入せず、ただ「僕」の働きでしかない。
「ディアコニア」ギリシャ語(名詞)(聖書の中で34回用いられている)
「奉仕、接待、働き、務め、任務、執事の職務」などと訳される。
「ディアコネオー」(動詞)(37回)
「仕える、奉仕する、世話する、もてなす、執事をつとめる」など。
「ディアコノス」(名詞)(29回)
「召使、奉仕者、しもべ、側近の者、執事」などと訳される。

 新約聖書の使用頻度を見れば、どれほど重要な概念、言葉であるかは、一目瞭然であろう。今、御言葉の一つひとつを解説することができれば、すばらしい学びができるであろうが、膨大な時間がかかるのでしない。
いずれにしろ、新約聖書は神と教会(キリスト者)の働き(使命)と存在(本質・生命)を総括する概念として採用した。
よって最初に、結論的なことを言えば、「ディアコニア」は、単に、執事とか奉仕とか愛の業とか・・、教会やキリスト者の一つの重要な側面を示す言葉に留めることではできない。むしろ、教会とキリスト者の存在の本質を明らかにする事柄、大きな広い概念として理解すべきである。したがって、我々はここで、聖書の言語「ディアコニア」を意識的に用いる。

④ 教理とディアコニア
「子どもカテキズム」には、「我々のために神が何をなしてくださったのか。我々はこの神のために何をなすべきか」が記されている。言わば、教理そのものを扱うのは前者であり、後者はキリスト者の倫理(生き方)を扱うものと分類できる。
「ディアコニア」は、キリスト者の倫理を規定する。たとえば、最初の教会の歴史を記した使徒言行録を見れば、弟子たちは、主イエス・キリストの地上の御業をそのまま継承した。彼らの生活は、癒し、助け、奉仕に生きる生活であった。先週の講壇交換で、ペトロとヨハネが、生まれながらの足の不自由な男性を立ち上がらせた物語も、「わたしたちには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録第3章)彼らには、この世的な力は皆無であったが、キリストの御名、ご自身を分け与えることができたのである。また、足の不自由な男性の「右手をとって彼を立ち上がらせた」のは、まさに、体を動かすディアコニアの原型とも言えるのである。教会は、このようなディアコニアを、「御言葉の宣教と一体化」して展開しながら、教会形成に励んだのである。
 しかし、我々のために神が何をなしてくださったのか・・・を問う時、まさに、神ご自身が御子イエス・キリストにおいて、徹底的に僕、奴隷となってくださった御業を示されるはずである。つまり、究極の、唯一のディアコノイ(奉仕者)として、私どもはキリスト・イエスのご生涯と十字架とご復活を示されるのである。

暫定的まとめ
 ディアコニアとは、教会とキリスト者にとって、一つの属性(特徴)なのではなく、その存在の本質概念である。
教会とキリスト者の倫理(生き方、あり方)を規定するのは「ディアコニア」の精神である。
最初の教会は、ディアコニアを御言葉の宣教と一体化して展開することによって世界宣教を実現したのである。