ー牧会通信ー
★ 9月より、教会に来て下さるようになった求道の友は、「FEBC」というラジオ番組を聴取しておられ、そこから、私どもの教会を紹介されたことによって、牧師室での出会いへと導かれました。そして、朝の祈り会、主日礼拝式へとご出席くださっています。ラジオ伝道の、きわめて大きな成果と言えるかと思います。
わたし自身も又、「キリストへの時間協力委員」の委員としてすでに長く末席をけがしています。キリストへの時間のラジオ放送は、日本キリスト教団、そして中部圏にあるキリスト教主義を標榜する学校関係との協力の下、CBC(中部日本放送)より、日曜日朝、6時30分~ 「キリストへの時間」を提供しています。実に、60年近い歴史を持ちます。CBC開局とほぼ同じ歴史を持つ番組です。その意味では、まさに圧倒的な「最長番組」の記録の更新を独走中です。
今回の会報の巻頭言にも記しましたが、「ラジオ伝道」は、「放送しっぱなし」では、福音の本質から考えるとき、不十分、途上の伝道だと思います。放送を「通して」「媒介にして」分かりやすく言えば、「きっかけにして」キリストご自身にお会いしていただく、信じていただくことを究極の願い、目標にしているからです。
☆ 先日の朝の祈祷会の後、メールをいただきました。
【『まずは聖書をよく読んでください。聖書をよんでイエス様の御言葉を知ってください』 と仰いました。いまその言葉を痛感しています。なぜなら、本当に読むだけではわからないことが多いです。わからないことだらけです。聖書を断片的に読むことに注意しなさいと、放送でもききますが、つい格言的な言葉に目がいってしまいます。礼拝や祈祷会に出て、行間にある背景やイエス様の思いは解説いただかなければわからないことでした。マタイの福音書18章の17節、異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。このお言葉も決して突き放す、追放する意味ではないのですね。ひとりの滅びも望まない、イエス様のお心は教えていただかなければ、本当にわからないことでした。格言的でないところにも、深い意味があるのかと思うと、何度も何度も読み返すことの必要性を感じます。聖書を読んでいると、時間はあるのに、毎日時間が足りない気がします。】
旧約聖書には、「箴言」「伝道者の書」があり、それだけは、格言集です。ほとんど文脈は、関係がありません。しかし、逆に申しますと、礼拝説教のテキストにすることはほとんどないのです。これらは、まさに、「知恵の書」として、信仰に生きる者への神からの知恵の言葉として与えられている文書です。しかし、それ以外には、まさに文脈から、何よりも神からの言葉としての信仰の前提に立って読まなければ、言いかえれば、教会の信仰告白に基づいて読まなければ、正しい理解に至らないはずです。被災地で、新約聖書を配布します。とても大切なことと私どもは考えています。しかし、聖書を贈呈すれば、伝道になるとは、考えていません。「御言葉を伝える人」「聖書を説き明かす人」「御言葉の証人」が必要です。
説教者のわたしの願い。それは、現住陪餐会員がまさに、隣人のために、愛の手紙そのものである聖書(御言葉)をご自分の口で説き明かし、その証し人、証言者、キリスト者じしんが愛の手紙そのものとして用いられること、これに尽きます。
★ ついに本日、オルガンコンサートです。封筒に入れたチラシを、お宅を捜しながら入れましたが、何名が集って下さるか、つかめません。鈴木優人兄が、この礼拝堂のオルガンを用いて、神への音楽の捧げものをして下さいます。興奮しています。わたしは、お父さまの鈴木雅明氏(芸術選奨文部科学大臣賞受賞、日本を代表する世界的なバッハの演奏家、オルガニスト、東京芸術大学教授)による神港教会のパイプオルガンの演奏で賛美を歌わせて頂いた体験を忘れられません。それは決して神港の大きな礼拝堂とパイプの力によるものだけではなく、その演奏が、まさに天上の世界を、はっきりと地上に映し出してくださったからです。 全身全霊で、神に賛美を捧げることができました。あれから、私どもの礼拝式もまた、ますます、そのような天国を映し出す礼拝式そして賛美を求め続けてまいりました。先週、初めて○○姉がご奉仕くださいました。皆で、大きな声で、歌いました。しかし、まだ足らないとも思います。心を挙げるとは、顔を挙げることでもありましょう。また、声を挙げることにも通じましょう。コンサートもそうですが、礼拝式、まさに楽しみです。
(オルガンを前方に設置しました。音響のことを考えれば、前方設置の方が、格段によい響き、音色が生じます。改めて、オルガン設置の位置について、記します。後方設置は、オルガニストやオルガンが、神とその御言葉の(中心的)位置を疎外する危険性を思うからでした。ただし、これまでの積み重ねの中で、その危険性はなくなっていると思われます。※ただし、会衆には、常に、その危険性、誘惑があるでしょう。)