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神に祝福される結婚へ

 「神に祝福される結婚へ」
                 
2011年12月4日
テキスト マタイによる福音書 第19章1~12節

「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」

弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

さて、本日から第19章に入りました。今朝の個所は、おそらく三つにわけて学ぶことができるだろうと思います。一つは、結婚について。もう一つは、離婚について。三番目に、独身についてです。

第1節から第2節までは、第19章に入るための繋ぎのことば、説明文です。主イエスは、第17章において、ご自身の十字架の死を予告されました。しかし、弟子たちは、そのことの重みと意味をわきまえようともせずに、天国における自分たちの偉さ比べ、順位について言い争いました。そして、第18章へと続きます。その説教を終えられると、主イエスは、あらためて神の国の伝道へと戻られます。ユダヤ地方に赴かれ、大勢の群衆がついてきました。そして、いつものように人々の病気を癒されました。つまり、主イエスは、まさに毎日毎日、時間を惜しんで、全力を注いで神の国の福音を証しし続けておられるということ、それが、この1、2節で、マタイによる福音書が告げようとするメッセージです。

さて、今朝のメッセージは、第3節から始めます。「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして」とあります。先ず、この個所に注意しなければなりません。

ファリサイ派の人々とは、自分たちこそは、聖書の教え、神の律法を厳格に順守していて、まさに正しい信仰と生活を保っているユダヤ人の模範、鑑だと自認している人々に他なりません。そのような人々が、今、何としてでも主イエスを攻撃し、裁判にかけて、つまり、神のことば、神の律法に違反した罪を犯したこととして裁いて、殺してしまいたいと思っています。憎くてたまらないわけです。マタイによる福音書は、その理由を、端的に、「ねたみのため」であると断言しています。

それなら、ここでファリサイ派の人々がねたみのために試そうとする、言いがかりをつけようとしたのは、主イエスのどのような教えに対してなのでしょうか。

私どもはすでに第5章の31節の個所で、このような主イエスの教えを学びました。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」主イエスは、ここで、夫が妻を離縁することは、つまり、姦通の罪を犯させることになること、十戒の第七戒違反に問われるのだと高らかに宣言なさっておられます。単純に申しますと、離婚の絶対的禁止です。

これに対して、ファリサイ派の人々は、心底、驚いてしまいました。彼らとその指導者である律法学者たちとは、自分たちこそ、神の掟、律法を順守して、人々から尊敬されていたと自負しています。自分たちこそは、人々に律法を教え、守らせ、宗教と生活の審判者、裁判官だとうぬぼれていたのです。

ところが、イエスさまが、そもそも、離婚は、神の御心ではないと高らかに宣言されたのです。少し、当時の状況を説明しないと事柄がつかめないと思います。当時、この律法の解釈を巡っては、さまざまな立場があったようです。ある立場に立つ人々は、このように考えていたと言われます。もし、結婚後に、夫が妻の振る舞いに対して、何でも気に入らないことがあれば、離縁状を書いて渡しさへすれば、離婚が成立するというのです。その中には、例えば、食事を焦がすとか、あるいは結婚後に、他に美しい女性に出会ったからとか、まさに、夫のやりたい放題を認めるような立場があったというのです。

これに対して、ファリサイ派の人々は批判しました。離婚は、不品行の場合に限るというわけです。その意味から申しますと、極めて健全で、聖書の教えに適っていると思います。旧約聖書の申命記第24章1節が、今朝の個所を読み解くとき必ず、開かれなければなりません。こうあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」そこには、離縁の条件が示されています。つまり、旧約聖書の律法においては、離婚が絶対的に禁じられていたわけではないのです。

そこでは、離縁の理由として、「何か恥ずべきこと」が挙げられているわけです。ところがやがてそれは、先ほどもうしましたように、拡大解釈されてしまったのです。それに対して、不品行に限定する立場は、まことに健全な聖書解釈に立っていたと言ってもよいはずです。だからこそ、ファリサイ派は、主イエスの言わば、絶対的な離縁の禁止に対して、批判を展開するわけです。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」

つまりこう言うことでしょう。「イエスよ、あなたはモーセの律法を知らないのか。知っていても、そんな、大それた規則を押し通そうとするのか、おかしいではないか」

それに対して、主イエスは、先ず、神の御心を宣言されます。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

最初の「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」これは、創世記第1章27節の御言葉です。次の「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。」

これは、創世記第2章24節です。最後の「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」これは、主イエスのオリジナルの御言葉であり、宣言です。教会での挙式においては、新郎新婦の結婚の誓約に対して、司式者は、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」とこの主イエスの宣言を、その場で宣言しなおすのです。

さて、ここで、問題になっているのは、律法の書の中の律法の書である創世記の御言葉は、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。」と、結婚の神聖、結婚の祝福を告白しながら、一方で、何故、同じ、律法の書である申命記第24章では、離縁を認めるのでしょうか。

それは、歴史の順序の問題です。具体的に申しますと、創世記第3章の問題です。創世記第3章とは何でしょうか。それは、祝福された結婚の生活を楽しんでいたアダムとエバが、なんと二人で神の御前に罪を犯したことを告げる章です。こうして、人類によってこの全被造物は破壊され、汚染されてしまったのです。人間が神との正しい関係を破壊してしまったとき、その罪科、罪のしわよせが人間だけではなく、人間が暮らす大地そのもの、そこに生きるすべての存在に及びました。

創世記第2章によれば、神の祝福のもとに一体とされていたアダムは、エバのことを*「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。 まさに男(イシュ)からとられたものだから。」*まさに、情熱溢れる恋愛の歌を歌って、その喜びを表現し、爆発させています。ところが、彼らは二人で心を合わせて、神に反抗します。食べてはならない善悪の知識の木の実を食べてしまいます。そのとき、何が起こったのでしょうか。最初の夫婦げんかが始まりました。この喧嘩は、責任転嫁にもとづきます。

アダムは、言いました。「神さま。あなたがわたしに与えたこの女のせいで、わたしは罪を犯してしまったのです。悪いのは、この女です。」そして、口に出しては言っていませんが、究極の事は、こう言う文句でしょう。「神さま。こんなに悪い女をわたしに紹介し、与えられたのは誰でしたか。神さまですね。あなたのせいです。」ついにアダムは、妻への責任転嫁をも飛び越え、神にも責任転嫁したのです。

今の我々は、どの時代を生きているのでしょうか。創世記第3章以降の世界を生きているわけです。そして、申命記第24章の「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」とは、この罪を犯したアダムとエバ以降に、改めて与えられた神の掟なのです。その意味では、そもそもこのような御言葉は、なくてもよかったのです。

そのことを明らかに示されたのが、主イエスのこの御言葉です。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」

神さまは、最初に、離縁することを想定しておられません。つまり、そもそも、モーセのこの掟の意味と目的も、そもそも離縁を命じる律法ではありません。「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」これは、「離縁しなさい」と言う命令では断じてないわけです。去らせなさいではありません。どしても無理であれば、それは去らせることも万やむをえない。しかしそれでもなお、彼女が、離縁後に困らないように、正式な、公的な手続きをきちんととりなさいと言う、神の妥協であり、憐れみなのです。

しかし、ここで暴露されてしまうのは、ファリサイ派をはじめ、弟子たちじしんの問題です。弟子たちはこのように言います。本音が出たと言っても言い過ぎではないと思います。「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」主イエスが、絶対に離婚をお禁じになられるというなら、結婚しない方が良いと思います。つまり、ひとりで暮らしていた方が、罪を犯さないでいられるから、楽であるというわけです。今朝は、これ以上掘り下げませんが、この時代の人々の考えでは、そうなってしまうのです。

今朝の主イエスの説教をひもとく鍵になる言葉に集中しましょう。それは、これです。「あなたたちの心が頑固なので」かたくなということです。固いという事です。神に向かって開かれていないということです。柔らかな心とは、神に向かって開かれている心です。よい状態にある心です。神の御前に、心がかじかんでいる。それ故に、人間お互いの間もまた、心が上手にひらくことができなくなってしまっている、これが我々の現実なのです。罪の姿です。

ファリサイ派の人々だけではなく、主イエスの弟子たちもまた、ここで、たとい結婚しても、相手が嫌になれば、離婚は許されると考えているのです。もとより、ファリサイ派も弟子たちもまったく自分勝手な、でたらめな理由での離婚が許される、できるなどとは考えていません。彼らが考えていた条件とは、妻が不倫を犯すということです。姦通の罪を犯すということです。そのような場合は、妻を離縁しても、神の律法を破ったことにはならないはずだと考えているのです。むしろ、ファリサイ派は、そのような場合は、積極的に離縁すべきだと考えていたようです。

ところが、主イエスは、彼らの考え方に根本から挑戦なさっていらっしゃいます。彼らは、はじめに離婚できるという条件、限界状況を設定しておいて、そこから結婚生活を考えるというわけです。マイナスの議論、後ろ向きの議論から始めているわけです。しかし、主イエスは、そこにこそ、メスを入れて下さいます。主イエスは本来の結婚の姿を、神に定めていただいた人間のあるべき姿、男女が共に手をたずさえて生きる本来の姿を取り戻すようにと求めておられるわけです。そのような前向きの議論、目標を目指すプラスの議論でしか、私どもの問題を根本から捉え、解決させる道はないからです。

確かに、モーセによって与えられた離婚の条件に関する律法が与えられています。何故なら、神さまは、そもそも罪を犯した人間がなすすべての営み、決断には、間違いが混入することをご存じでいらっしゃるからです。間違いを犯してしまう人間、罪人でしかない人間を先回りして、憐れんでおられるのです。

私どもは、まったくの罪人です。したがってすべての人の結婚が、幸福を保証するものになるとは限りません。それは、論より証拠で、明らかです。

つまり、創世記第1章、2章にあるような、本来の祝福された結婚をすべての人が体験するわけではないわけです。いへ、誰一人として、罪を犯す前のあのアダムとエバのすばらしい男女の関係を、今、体験している人はおられないのです。それほどまでに、我々人間は、罪深くなり、男女の関係をはじめ、人間の関係は、ぎくしゃくしているのです。ファリサイ派の人々は、主イエスを妬んでいます。そこにも、ただしい人間関係が結びえない人間の罪の姿が鮮やかに示されているはずです。

さて、神は、罪を犯してお互いの正しい、あるべき愛の関係を失った二人を何とか、愛の関係へと再び築き上げようとしてくださいます。それは、どのようにしてであったでしょうか。それは、神が彼らに代表されるイスラエルという民族にかかわり続けて下さった歴史においてです。

今、旧約聖書の歴史をおさらいする暇はありません。しかし、旧約聖書を読めばそこに繰り返されている出来事があります。一言で申しますと、神に選ばれた民、イスラエルが繰り返し、神に背いた歴史であったということです。

口語訳聖書には、忘れがたい表現があります。「うなじのこわい民」です。最初にこのことばが出て来るのは、イスラエルの民がエジプトから解放されて、モーセがホレブの山で十戒を付与されているとき、モーセが山から下りて来るのを待ちきれないで、金の子牛をつくって拝んだときでした。出エジプト記第32章9節です。「主はまた、モーセに仰せられた。『わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。』」これは頭を下げないという意味でしょう。ひれ伏さない傲岸な心の態度です。新共同訳ではこうです。「主は更に、モーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。』」かたくなです。つまり、頑固です。

しかし、旧約聖書によれば、神は、イスラエルの民をご自身の妻になぞらえられています。もしそうなら、ここで夫でいらっしゃる神が、もしも一度だけではなく、何度も不貞を働き続ける妻である、イスラエルを離縁してもまったく構わないはずです。いへ、ファリサイ派の人々の考えにもとづけば、離縁すべきです。ところが神は、限りない憐れみ、限りない愛、一方的な愛、赦しの愛によってイスラエルをご自身の愛へと招き続けて下さったのです。

その頂点が、イエス・キリストのご降誕であり、十字架、ご復活です。そうであれば、我々人間の結婚生活とは、とりわけ、キリスト者どうしの結婚生活は、この神の愛を見習う以外に、神の愛をお互いの間に反映させる以外にあり得ないということになります。なるはずです。つまり、そこでは、夫が一方的に妻を忍耐するということでもなく、妻が一方的に夫に忍耐するということでもありません。あるいは、どちらが忍耐の数、量が多く、深いのかということを比べることでもありません。肝心かなめのことは、自分が夫に、また妻に赦されているということ、赦してもらう以外に、夫であり得ない、妻であり得ないということをわきまえることが必要になるはずです。

こうして、キリスト者は、結婚の関係を通して、神の恵みと赦し、憐れみと愛の深さを体験し、同時に、結婚を通し、神の恵みと赦しの深さ、尊さ、憐れみと愛の深さと尊さを、この地上に映し出すことへと召されているわけです。

来週は、後半の離婚、独身について学びます。最後に、短く触れて終わらなければならないと思います。教会は、絶対に離婚を禁じているということではありません。少なくとも、改革教会は、違います。人間じしんの罪、罪人でしかない私どもには、現実には、どうすることもできない悲しみ、悲惨があります。むしろ、離婚した方がよいという状況があります。

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰ第7章で、結婚について集中的に扱っています。そこで、一つの鍵になるのは、第15節です。「こうした場合は信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。」とあります。

私どもが神と人との間で平和に暮らせる道を、神がお望みになっていらっしゃるのです。その直後に、パウロは、*「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」*と記しています。それは、結婚した後、キリスト者になった人たちが、未信者の伴侶とどのように暮らして行けばよいのかということが記されています。パウロは、決して、未信者の配偶者と離縁を勧めているわけではありません。正反対です。しかし、同時に、相手が、信仰を理由に去って行くのなら、去るに任せなさいとも勧めるのです。何故なら、キリスト者の妻も夫も、未信者の夫と妻を自分の力で救いに導くことができないからです。

最後に、ここで一つの象徴的な出来事を改めて思い起こしたいと思います。創世記第3章において、アダムとエバは、夫婦で一つになって神に反抗しました。しかし、神はなおも、彼らが夫婦でいることをお認めになられました。さらに、神は、二人に毛皮を着せさせました。そうすることによって、二人を保護されたのです。毛皮とは、動物の死が伴うものですから、主イエス・キリストの贖いの死をイメージさせます。そして、この毛皮によって、お互いの間、お互いの関係に言わばクッション、緩衝材を入れて下さったと理解してもよいでしょう。つまり、夫婦の間に、人と人との間に、その真ん中に、キリストをお迎えすることが、人間関係の秘訣になるということです。

 願わくは、キリスト者どうしで家庭を築いている方々は、より、キリストを中心にして、キリストを二人の真ん中にお迎えしてください。そのことによって、キリストの愛を夫婦の関係で証する道となるからです。

また、結婚後にキリスト者になった方は、ご自分の結婚を改めて神の導きとして受けとめなおしてください。そして、キリストにある夫婦の生活へと導かれることが神の御心であることを信じて下さい。

また、まだ結婚していない兄妹は、キリストにある結婚を深く祈り求めつつ、主の導きを求めて下さい。

最後に、すべての私どもに必須の事がありましょう。それは、具体的なさまざま状況の中で、決して、心をかたくなにしない、してはならないということです。「これは自分の個人的なこと、誰にも口をはさまないでほしい。」それこそが、心のかたくなさです。頑固さです。もしも、牧師や兄弟姉妹のことばを聴こうとしないとき、心を閉ざして自分の信仰の世界に閉じこもろうとするなら、それは、まさに、神の前に心を閉ざしていることに他なりません。夫婦の生活、家庭の生活をはじめとして、いついかなる時も、私どもの根本の問題は、心の頑固さ、かたくなさ、神の御前にうなじをこわくしている問題につきつめることができます。だから、私どもは神に、祈り求めるのです。

祈祷

人をあなたに似せて男と女に創造し、二人を一体として、あなたの喜びを味わうようにとご計画してくださいました創造者なる御神。私どもは今、アダムとエバの罪の故に、私ども自身の頑固さ、かたくなさ、罪の故に、その最初の祝福を失ってしまいました。しかし、あなたは、なお私どもを憐れみ続けて下さいました。あなたに背き、裏切り続けるイスラエルの民を、なお憐れみ、あなたは遂には、御子をこの地上にお与えになられました。この御子のいのちの犠牲によって、私どもの赦されざる罪をまったく赦し、御前に生きる者として下さいました。どうぞ、そのような私どもがつくる家庭の生活、夫婦の生活を祝福し続けて下さい。支え続けて下さい。赦されてしか互いに存在し得ません。相手を赦そうとすることにおいて、自分が赦されていることを忘れがちな私どもです。どうぞ、憐れんで下さい。キリスト者同士の家庭を作ろうとし、また、そこに向かって結婚を祈る者ひとり一人にふさわしい道を開き、導いて下さい。

アーメン