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クリスマス、最も小さな者の誕生日

「クリスマス、最も小さな者の誕生日」
                 2011年12月18日
テキスト マタイによる福音書 第19章13~15節

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。」
 

クリスマス、それは、イエスさまのお誕生日です。そしてイエスさまは、神さまです。神の独り子です。言わば神の王子さま、神さまの皇太子です。
独り子の神さまがいらっしゃるべき場所は、天国です。天国の栄光に輝く王座こそ、神さまのお住いです。

これまで、皆さんが一番、遠くまで言行ったのはどこでしょうか。東京、仙台、北海道。大阪、広島、四国、九州。外国に行ったことのあるお友達もいるかもしれません。遠いところまで来たとき、「はるばる、やってきました。」と言います。

クリスマスの讃美歌に、このような歌詞があります。「天のかなたから、はるばる来ました。嬉しい知らせを伝えるためです。」これは、天使の告げる声、歌です。天使は、「わたしたちは天の遠くから、神さまに命じられて、はるばるこの地上にやって来ましたよ。」こう人々に告げました。

それなら、天使さんたちは、どれほど遠い距離を、乗り越えてやってきたのでしょうか。それは想像もできないほどの、遠さです。へだたりです。神さまの住んでいらっしゃる場所のことを天と言います。天とは、どこにあるのでしょうか。それは、雲の上でしょうか。空の上の上の又上なのでしょうか。「そうです。」とも、「違います。」ともはっきりとは言えません。ここにいる誰も、まだ見たことがありませんし、行ってみた人はいません。

天とか、天国というと私たちは「上」を仰ぎます。それで間違いありません。ただし、天とは、神さまがいらっしゃる場所のことをさして言うのです。それは雲の上にあるのでも、宇宙のどこかの場所にあるのでもありません。

どうしてですか。昔、ソロモン王さまが、エルサレムに壮大な神殿を建てた時、このようにお祈りしました。「イスラエルの神、主よ、神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」

まことの神さまは、天と地をお造りになられました。目に見えるもの、目に見えないもの、すべてをお造りになられた、何でもできて、比べることのできないただお一人の力のある神さまです。そのような神さまを、どれほど、広がっている宇宙の中にも、このお方を収めてしまうことなどできません。お入れすることはできません。限りのある世界の中に、限りのない神さまが入り込むことはできません。有限の世界の中に無限の神さまを、時間の中に永遠の神さまをお入れすることは、不可能です。

そこで、昔の人たちは、いえ、今も多くの人々は、どうしたら、神に近づくことができるのか、と考えました。それを宗教と呼びます。宗教というのは、どうしたら人間が神に近づけるのかを考え出した道です。「この道を進むと天国に入れます。神さまに近づけます。」そう示します。いくつもの道があるのです。ある人は、こんなことを言います。宗教は、たくさんあるけれど、結局のところ、たどり着くのは、同じ天だ。同じ神さまだ。同じ真理だ。しかし、そんな乱暴な議論は、ありません。

しかし、聖書を読んでいる人には分かります。人間が何十も何百も考えだした道では、天国に行けない。どんなに大勢の人たちが、その道を進んでいるからと言っても、ついて行くのは危険です。結局、分かるのは、どれほど立派で、すばらしいと言われる人間、宗教家、教祖が指し示す道であっても、その道をたどっても、人間が考え出した空想でしかありません。

しかし、唯一の可能性があります。それは、天国の方からこの世界の方へと道がつくられ、あるいは橋がかけられて、来てくれるという、その方法です。イエスさまは、「わたしが道である」と自己紹介してくださいました。イエスさまは、天からはるばる来られたのです。イエスさまご自身が、橋をかけてくださいました。また、道を通してくださいました。そのようにして、イエスさまご自身が道そのものとなられたのです。

クリスマスは、神さまが、わたしたちに決定的に近づかれた出来事です。クリスマスとは、心を開いてこのイエスさまを、この世界に、何よりも私たちの心にお迎えするとき、本当のクリスマスがお祝いできるのです。誰でも、クリスマスの意味を知って信じるなら、神に近づいて頂けるのです。もう、わたしたちは宗教を造りだしたり、宗教に励む必要はありません。神がその独り子を、この地上に人とならせて派遣してくださったからです。私たちは誰でも、すでにこの神さまの愛の中に包み込まれてしまっています。もう慌てる必要などありません。神がなされたこのすてきな、すばらしいクリスマスの出来事を、心を開いて信じ、感謝し、お祝いするだけでよいのです。

ただし、残念でなりませんが、父なる神の愛に抱かれていながら、それに気づかないまま、あるいは自覚しないまま、あるいは目覚めていないままであれば、クリスマスは、その人にやってきません。こればかりは、神さまですらどうすることもできません。けれども、神さまは、天のお父さまは、そのことを気づかせるために、今朝、わたしたちを、神さまのふところ、つまり名古屋岩の上教会の礼拝式に招いて下さったのです。すでに神さまのふところ、神さまの胸に抱かれていることをご存じの皆様は、もちろん、まだ知らない方々にこそ、主の深い愛と恵みが届きますように。

さて、今朝も、わたしたちは、マタイによる福音書を学びます。学び続けて、この12月で既に3年になりました。

先週は、主イエスの結婚についての説教を、2回学びました。本来のすばらしい結婚のあり方について聖書から、主イエスから学びました。今朝は、その後のお話です。13節、「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」

結婚によって新しい家庭の生活が始まります。結婚した男性と女性に、多くの夫婦には、赤ちゃんが授けられます。新しいいのちが、神の賜物として授けられます。そのとき、親子の関係が始まります。今朝のお話は親子のお話です。

両親が、我が子の幸せを願うのは、当然のことです。そして、子どもの幸せ、人間の幸せの中で、もっとも幸いなことは何でしょうか。それは、神さまの愛と祝福を受けるということです。それ以上の幸いはありません。ですから、ここで両親たちが、それぞれ我が子の手を引いて、あるいは、我が子を懐に抱いて、主イエスのところに連れてきているのです。「手を置いて祈っていただくため」です。そもそも、手を置いて祈って頂くという特別ななさり方には、まさに特別の意味、重みがあるわけです。今朝は、くわしくお話する暇がありませんが、ユダヤ人、イスラエルの伝統的な理解に基づけば、イエスさまに手を置いて祈って頂いたなら、天国の財産、宝、つまり神さまの愛と祝福がを必ずを受け継がせていただくということを意味するからです。要するに、天国が開かれ、その瞬間に、神さまの子ども、長男となる特権を頂くと言う意味です。
親であれば、それを願うのは、当然です。ところが弟子たちは、「この人々を叱った。」というのです。何故、そんなひどいことをするのでしょうか。一つには、自分たちを差し置いて、何にも分からない小さな子ども、幼児に天国の宝、天国の遺産を受け継がせることなど、許されないことだと思ったのでしょう。もう一つは、まさに、小さな子どもは、イエスさまがどなたであるのか、そもそも分からない。分からないのに、天国の祝福の分け前にあずかるなど、あまりにも調子が良すぎるし、そのようなことはそもそも、あり得ないと考えたのかもしれません。

それに対して、主イエスは、実は、大変、憤られました。他の福音書にはっきりと記されています。温厚なイエスさまが、激しい怒りを弟子たちにぶつけられたのです。そして、弟子たちに命じられます。そして、親たちにも強く招かれます。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』

誰も妨げてはならない。邪魔をしてはならないと強い口調で宣言されます。何故なら、「天の国はこのような者たちのもの」だからです。天国に入らせていただくのは、このような幼子なのです。子どもなのです。

そもそも、子どもたちにイエスさまのところに来るのは、つまり、それは現代においては、教会に行くことを意味します。教会に行かせるのは早すぎるということは、あり得ません。むしろ、子どもだからこそ、イエスさまのところに来させるべきだと主イエスご自身が招かれるのです。

考えてみますと、「早すぎる」ということは、子どもは、必ず、大人になれる、長く生きられるという前提があるのかもしれません。しかし、それは、絶対にそうだとは誰も言えません。また、この「早すぎる」という考えは、まだ何も分からない子どもに過ぎないということが前提にあるのでしょう。それなら、反対に言えば、いつになったらイエスさまのもとに行く適齢期なのでしょうか。

そもそも、そのようなことを自分たちで考えることは、正しい事、ふさわしいことなのでしょうか。そのような人間が、神さまに至る道をあれこれ、言い始めることを宗教と言うのです。ごく単純で、明解なことがあります。イエスさまが招かれたら、行くべきです。何故なら、主イエスがお招き下さらなければ、誰も、自分の力で近づくことなどできないからです。イエスさまは、私どものことを、それは、ただ単に子どもたちのことだけではありません。老若男女、誰でも、イエスさまは、ご自分のところに来なさいと呼びかけておられるのです。何故なら、主イエスは私どもを愛しておられるからです。私どもを救いたいと願ってやまないお方だからです。

しかも、「天の国はこのような者たちのもの」と仰いました。その意味は、子ども、乳幼児は、自分の力で近づけないからです。連れて来てもらうしかない弱い人間、それが、ここでの小さな子どもの意味です。そして、実は、ここがここでのイエスさまのメッセージの核心です。すべての人間は、イエスさまの眼差しに映るとき、子どもでしかないのです。

ところが、それにもかかわらず、自分のことを大人と考える、それこそが、私どもの愚かさ、罪なのです。つまり、自分ひとりで立つことができると、まったく自惚れて生きているということです。誰ひとりの例外もなく、人は神に支えられてしか生きれません。昨日も今日も、そして許されるなら明日も、ただ神さまの力強い御手に支えられてのみ、私どもは生きることができるのです。自分で生きている人などひとりもいないのです。すべては、神に生かされているのです。

主イエスは、ここで、本当に、子どもたちの頭に手を置かれました。「そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。」つまり、祝福を注がれたのです。天国の宝を受け継ぐ保証をお与えになられたのです。弟子たちは、どんな思いでそれを見ていたのでしょうか。うらやましいと思ったかもしれません。自分たちは、こんなに一生懸命に、イエスさまにお従いして、イエスさまに協力して、イエスさまと一緒になって働いているのに、人を助けるどころか、自分のことすらまったく何ひとつもできないこの子どもたちの方が、先に天国に入ってしまう、天国の祝福を約束されてしまう。そのことに納得がいかなかったかもしれません。

しかし、やがて分かるのです。イエスさまが本当はどのようなお方なのか、後で分かります。マタイによる福音書の著者のマタイもそうです。分かったからこのように書けたのです。

「ああ、本当は、この自分自身もまた立派な大人であり、弟子であるとうぬぼれていたけれども、まさに、イエスさまの前に、父なる神さまの御前にも、何もできない弱く小さな子ども、幼児でしかないのだ、それにもかかわらず、イエスさまが、近づいてくださって手を置いて下さったのだ。それ以上のなにものでもないのだ。」

イエスさまは、私どもに本当に近づいてくださいました。それが、おそらくもっとも美しい形でよく示されたのが、クリスマスなのです。

今朝は、ファミリー礼拝式ですから、教会の子どもたちだけではなく、子どもの教会の子ども達とも一緒に礼拝式を捧げています。

先生は、契約の子たちの生まれたてのほやほやの姿を、知っています。見ています。本当に赤ちゃんとはよく言ったもので、生まれたばかりの赤ちゃんは、まっ白いお顔をしていますが、泣くと、真っ赤になります。そんな皆さんの顔を思い起こします。そして、先生が初めて皆さんとお会いしたのは、病院です。病院のベッドに寝かされている皆さんを見たのです。でも、見て、すぐには誰が誰なのか分かりません。ベッドの横に、お母さんの名前が書いていあります。それを見つけるのです。それまでは、分かりません。みんなよく似ています。だから、小さな透明のベッドだけではなく、足、くるぶしにもお母さんの名前がついたワッカをつけられています。間違えないようにするためです。

イエスさまがお生まれになられたとき、当たり前のことですが、赤ちゃんとして来られました。真っ赤な赤ちゃんだったと思います。生まれたばかりのとき、きっと、皆さんにそっくりだったと思います。そうです。男の子も女の子も関係なく、だれしも人間の赤ちゃんは似ています。そして、それは、赤ちゃんのイエスさまにも似ているわけです。つまり、そのようにして、イエスさまは、わたしたちに近づいてくださったのです。赤ちゃんとなられたのは、すべての人間に近づくためです。70億人のすべての人間のそばで生きるためです。

いえ、本当は、イエスさまは、馬小屋でお生まれになられました。つまり、皆さんより比べられないほど、不潔で、汚い場所です。人間が生まれる場所は、人間の住む家のハズです。ところが、イエスさまは、人間の家に入ることが許されずに、家畜の部屋でお生まれになられました。それは、イエスさまが単に赤ちゃんになるためではなく、最も小さな赤ちゃん、もっとも貧しい赤ちゃん、もっとも大変な目、酷い目、悲しい目にあう赤ちゃんとなられたことを意味します。それは何故でしょうか。どんなに悲しみ、苦しみの中にいる人をも救わなければならないからです。

そのようなイエスさまだからこそ、どんな人でも、一番小さなも、弱い、貧しい人がご自分のところに来られるのを喜ばれるのです。ここにいる全員が、神さまにとっては、小さな小さな子どもでしかないのです。誰も、胸をはって、神さまに自慢できるものはありません。全然構いません。

今朝は、クリスマスのお祝いです。どうぞ、わたしたちの中で、最も小さくなられたイエスさま、今朝は、触れませんでしたがそのご生涯の最後は、十字架の死でした。それこそ、私どもにもっとも近づくために、もっとも小さくなられたイエスさまのお姿です。このイエスさまは近づかれました。私たちも、心を開いて、お迎えしましょう。そのようにして私たちも、イエスさまに、天のお父さまに近づきましょう。