過去の投稿2011年12月27日

12月25日

 ―牧 会 通 信―

★  先週の子どもの教会教師会で、このような情報が分かち合われました。ひとりの未信者の方が、クリスマスの物語をご自分でつくられ(フランネルなど)、小学校で読み聞かせをされた・・・というのです。しかも、子どもたちは、クリスマスが主イエスの降誕日であることを誰も知らなかったというのです。 とても興味深い現象です。未信者の方がクリスマス物語を、喜んで、公立の学校で子どもたちに語り聴かせる・・・。神が、未信者の方を通して、伝道させていらっしゃるということです。クリスマスには、そのようなことが、あちこちで起こっています。例えば、ラジオでは、未信者の方が宗教曲を奏で、歌われます。それを、未信者の方々が喜んで聴いておられるわけです。神の御業の大きさを思います。同時に、これはわたし自身への問いかけともなりました。
  クリスマスがサンタの日とか、恋人の日とかと考えられている昨今、キリスト教の「プレゼンス」(影響力)が衰退している現実を、いよいよ見せられています。各個教会で、どうすることもできない・・・、そのような大きな課題です。社会におけるひとりのキリスト者の業績もまた、求められます。思想の世界、学問の世界、文芸、芸術に影響力を及ぼす人材が起こされることを祈りましょう。しかし、何よりも私どもは、この名古屋岩の上伝道所を【通して】、にこだわらなければなりません。この町の人々の魂への責任を、正面から受け止めなければなりません。私どもの教会から始める以外にありません。
  先日、ある他教会の会員から、「先生の教会の日曜学校の出発は、地域の子どもたちの犯罪に対して、地域社会から、教会の責任を問う声がなかったことを、教会の責任として考えたことから始められたのですよね・・・」と言われました。驚かされました。10年前には、いくつかの集会で講演したことがあるのですが、わたし自身、忘れかけていたことを、覚えておられたわけです。まったくその通りです。
 先週の説教は、ちょうど、「子どもたちをわたしのところに来させなさい」でした。教師会では、かつてのように、子どもたちを車で送迎する奉仕者のことにも触れました。私どもの子どもの教会は、教会を挙げて取り組んできた歴史のはずです。どうぞ、送迎奉仕のためにもお祈り下さい。

☆  いよいよ、今週、被災地へのディアコニアに出発します。今回は、恵那教会の草野教師と仙台カナン教会 の○○長老ご夫妻が加わってくださいます。中部中会ディアコニア支援委員会は、今回の費用を二つの教会の事業として考えることによって(1教会への支援額上限15万円)30万円もの支援金の支出を決議されました。もとより、総予算は、最低、42万円ですから、これまでの献金を加えての奉仕になります。しかし、このようにディアコニアの輪が広がったことは、実に、すばらしいことです。手編みの靴下は、200足に達したかと思われます。中部中会の諸教会、伝道所を軸に他中会の皆さまからも、暖かな主にあるお気持ちが、私どもに託されました。全仮設に一足は、そのお気持ちをお届けすることができます。さらに、被災地の教会員(長老ご夫妻)がこの奉仕に加わって下さいます。これこそ、私どもの望外の喜びです。今後のことを考えるとき、まさに大きな希望となります。このように、今回の名古屋岩の上伝道所の現地ディアコニアは、既に、中会的のみならず大会的な祈りと奉仕によって捧げられるものです。いったい、誰が、現地へ第一歩を踏みしめた5月に、このようなことになると考えていたでしょうか。しかし、主は、私どもの信仰と志を用いて、被災者に寄り添って、御心をなして下さいます。これからも、いよいよ、私どもは、「信仰の冒険」を続けるのみです。キリスト者の生涯は、この冒険の生涯です。父なる神が、「飛び込んで来なさい」と、腕を広げて待っておられるゆえに、私どもは、子どもらしく、愛の故に、信頼して、飛び込むのです。(先週の祈祷会より)

★   祈祷会で三回、言わば、霊的、実践的備えをしました。「たましいのケア」から学びました。「善意の押し売り」・・・、についても確認しました。つまり、自分たちの実践を常に冷静に、批判的に考察することがどれほど大切なことであるか、毎回、学び続けたわけです。しかし、だからといってひるんだり、尻込みする必要はありません。主の赦しと促しを信じ、ディアコニアを実践してよいのですし、すべきです。

☆   朝の祈祷会は、今年最後の祈祷会、○○姉の誕生日と年末の朝の祈祷会を感謝して、ケーキと紅茶のミニパーティーの時を持ちました。今年も、祈祷会で兄妹は、「執り成しの祈り」という最高、最大のディアコニアに励んだのです。

★  洗礼入会式を挙行します。ご本人はもとより、私どもも、受洗者であることの霊的事実を再確認しましょう。私どもは、キリストと共に死に(葬式)、キリストと共に復活(誕生)させられているのです。