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2012年1月1日

 ―牧 会 通 信― 

主の年2012年が今日から始まりました。
明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。

★  2012年という記載方法は、現代世界の常識と言ってもよいかと思います。いわゆる「西暦」とは、キリスト教的価値観に基づいた暦です。たといイスラーム圏であっても、グローバル経済のシステムの中で、イスラム暦だけで生活することは、困難でしょう。日本に生きる私どもは、教会の文書においては、「元号」を用いません。元号とは、天皇が時間(と空間)の支配者であることをその背後に持っている歴史観だからです。したがって、私どもは、ここに「こだわり」があり、それは、こだわりとして持ち続けてよいと思います。ただし、根本的に重要なことは、創造者なる神が歴史(時間)を創造されていること、したがって歴史の支配者でいらっしゃるという聖書の基本的な教えを常に、生々しく信じ続けることです。今年も(・・・このように書きますが、丁寧に記せば、こうなるはずでしょう。今年が2012年12月31日まで続くとは、誰も断言できません。主イエスが再び来られるその日を常に、計算しておく(=考えておく)ことが信仰の基本です。主よ、来て下さい!)。私どもの生活の上に、何が起こっても、主なる神が共にいてくださり、摂理をもって、すべてのことを働かせて私どもの役に立つようにしてくださいます。今年も、主にすべてをゆだね、主に従って、一歩一歩、教会と共に天国を目指して旅を続けてまいりましょう。

☆  年末に、「聖書VS世界史   キリスト教的歴史観とは何か」(講談社現代新書)を読みました。著者は、埼玉大学教授で非キリスト者です。新書ですから、既知の事実が多いのですが、改めて、欧米の文化・伝統において、聖書(旧約聖書)の歴史記述が、そのまま世界史として、考えられ、信じられてきた長い歴史があることに、ある感慨を覚えさせられました。聖書はそもそも、歴史物語です。神の救いの物語、つまり「救済史」に他なりません。記載された「年代」「年」について、現代の歴史学に基づいて「読解」することは、そもそも、誤りなのです。ただしこのような聖書解釈の、現代の常識、基本は、古代、中世、近世までは、一般にはまったく考えられていませんでした。

★  結論部分、そこにわたし自身、大変、興味深い事実に考えさせられました。明治政府は、最初の世界史の教科書を編んだとき、まさに、旧約聖書の記述を基本的に踏襲する(創造者なる神の部分は、削除していますが、)アメリカの「パーレー 萬國史」を翻訳したものだったとのこと。そこには、「紀元前、凡ソ四千年ノ頃(神武天皇紀元前凡三千二百五十年)ニ当タリテ、・・・、メソポタミアノ中央ナル、ユーフレーテースト、名ヅクル大河ノ近傍ニ於テ、男女二人、始メテ、化成(←この言葉に注目です。創造ではなく、湧き出た?という感じでしょうか。)シ、男ヲアダムト云ヒ、女ヲイブ(←エバではなく、イブと訳したことによって、日本では、【アダムとイブ】という言い回しが定着してしまったことを、今回、はじめて納得できました。)ト云ヒ、是ヲ人間ノ始祖ト云フ」とありました。著者は、この創世神話を明治政府がそのまま採用した「ウラ」には、日本史においてまさに日本書紀などの創世神話を持ちこむことに、役だった旨のことを述べておられます。これもまた、貴重な指摘であると思います。・・・つまり、明治政府によって、アマテラスのオオミカミを日本国土創生の原初に据える歴史観を叩き込まれた日本において、キリスト者であるということは、まさに、いよいよ深い自覚のもとに日本を神学的に考察し、伝道の課題をあぶりだし、まさに聖書によって、神学的に対応する力を養うことです。

★  被災地に行く前に、記載しています。晦日に戻る予定ですが、何時に名古屋に到着できるか分からないからです。火曜日午前、多くの姉妹方がケーキ、クッキーを教会に持ち運ばれ、すぐにお渡しできる手配をして下さっています。3月27日、ディアコニア支援室が組織され、これまで活動的とは言えなかったディアコニア委員会は、まさに大震災対応として、教会を挙げて奉仕を重ねることができました。このようになしえたのは、これまでの学びの積み重ねなくしては、到底、会員が心を合わせ、奉仕に参与できなかったと思います。教理の学びがどれほど、大切であるかを、しみじみと思わされます。そして、教理即生活である事を思わされます。昨年の年報の表紙には、「開拓伝道第17周年、【教会設立】を目指して歩む第7年目、【ディアコニアに生きる教会】第6年目にふさわしい成長を目指して」とあります。まさに、私どもはディアコニアに生きる教会としてどのように生きるべき、あるべきか、具体的な道を問い続け、求め続けてまいりました。新年度は、もはや、記載する必要はないと思います。神がはっきりと、私どもの伝道所にその道を指し示されたからです。