「わたしたちの目標」
2012年1月1日 聖餐礼拝式
テキスト フィリピの信徒への手紙 第3章12節-14節
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
一年の計は元旦にあり、と言われます。確かに、ひとりひとりの人生に対して計画をきちんと立てることがどれほど大切であろうかと思います。教会もまた、この時期、新年度の計画を立てるのです。
そこで改めて確認しておきたいことがあります。神のご計画とは、ごく簡単に申しますと、私どもの救いです。しかし、その救いとは、キリスト者のひとりひとりを救うということには、留まりません。神のご意思は、ご自身の民を救うことにあります。聖書を読むキリスト者でありながら、なおもこの世の考え方に引きずられることがあります。どうしても、目に見える現実に引きずられて、考え違いをしてしまうことがあります。それは、この救いを個人的な事柄として考えてしまうという過ちです。うっかりすると、自分のこの一年にとって、教会はどのような位置を持つのかという発想、考え方へと私どもは引きずられてしまうわけです。信仰とは、自分のためにあるものと誤解するのです。自分の幸福のため、自分の人生を確かなものとするために神さまがいらっしゃるのだという誤解です。神さまを利用するという罪を犯すことも、十分にあるのです。
キリスト教信仰とは、神を中心にする信仰であり生活、人生です。徹底して神中心を貫くこと、神を第一にすることが、聖書に生きるキリスト者の基本です。私どもの教会堂の正面に掲げている通り、「Soli Deo Gloria!」ただ神の栄光をめざすことが、救われた人間の新しい生活なのです。神さまがこうしてくださった。ああしてくださった。神さまが、私を救って下さり、神さまが、私を通して働いて下さる。すべての事を、神を主語にして考えることが、キリスト教信仰なのです。
今年もまた、神を中心にする生活、神を主語にする生活を、一歩進めてまいりたいと願います。ただし、これは、順調に進むというのではなく、二歩前進、一歩後退、あるいは三歩前進二歩後退のように、後退するときもあることを、最初から自覚することが大切です。後退するときすら、神の恵みの御手の中にあるのだと、そこで自覚できたら、おそらく前進することへと、戻されて行くはずです。
2012年最初の主の日、しかも元旦礼拝に与えられた御言葉を聴きましょう。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
使徒パウロは、「後ろのものを忘れ」と申します。それは、どのような事を意味しているのでしょうか。
私たちは、普段のくらしのなかで、「前向きに行きましょう」「前向きに考えましょう」と申します。積極的な意味で、よい意味として、そのように用いるのだと思います。「過去は過去です。くよくよしないで、もう、忘れましょう。」そのような言い方がなされることもあります。
日本語に、「水に流す」という独特の表現があります。ある神道の学者が、日本人の精神にしみ込んでいる精神構造を指す表現であると、批判的な文脈の中で言っておられます。これは世界から見た日本への批判ですが、日本人は直ぐに昔したことを忘れてしまう、つまり、責任回避をするというものがあります。戦争責任の問題や原発の爆発の責任問題に関しても、由々しき問題として世界に特にアジアの国々に今なお不信の念を植えつけています。その意味では、日本の新しい時代を切り拓くために、我々は、徹底的に過去を反省すること、言わば、後ろ向きに歩まねばならないのではないでしょうか。その意味での「後ろ向き」とは、良いことと言うより、そうあらねばならない生き方、姿勢なのだと信じます。
そもそも、歴史的教会は自ら道を踏み外さないために、常に後ろを向いて歩いてまいりました。つまり、徹底して過去を調べ、過去に学びながら歩みを重ねてまいりました。それ以外には正しく将来の展望を開くことはできないからです。現在の教会は、先達から受け継いだ信仰の遺産によって、つまり、伝統によってここまで持ち運ばれ担われて、今日あるを得ているのです。そして今、私共じしんが現役の世代として、2000年の伝統の担い手とされ、ここで励んでいるわけです。このような連鎖のなかに教会の生命があるわけです。
ある人が、それをボート競技にたとえています。オールを漕ぐ選手は、皆、後ろを向いています。そして、前に向かって進むのです。ただひとりだけ、船尾に座っているコックスと呼ばれる選手だけが、前を向いて、クルー、漕ぎ手たちに指示を出します。教会あるいはキリスト者と歴史との関わりにおいて、一つの示唆を与える喩えだと思います。
さてそれなら、ここで「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」とは、どのような意味なのでしょうか。そもそも、ここで言われている「後ろのもの」とは何でしょうか。そして「前のもの」とは何でしょうか。私共が忘れてよい後ろのもの、忘れなければならない後ろのものとは何でしょうか。
ローマの信徒への手紙第7章でパウロは自分自身の内側に悪が付きまとい、肉では罪の法則に仕えているというまさに神の御前におけるキリスト者としての惨めさを平気で言い表しました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。~わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」
それは、決して敗北の告白ではありません。直後の第8章1節でこう宣言しています。「従って、今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」確かに、自分自身のなかに弱さがあり、時には、罪に負けてしまう現実を抱えているのがキリスト者です。しかし、「今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められること」はないのです。何故なら、私どもは、過去現在将来に渡る罪の刑罰を、イエス・キリストの十字架の御業によって完全に、充分に、余すところなく支払われてしまっているからです。
実に、神が主イエス・キリストにおいて、私共に向かってなしてくださった救いの御業、今もなし続けていてくださる恵みの御業、やがてもたらされる完成の御業、このような神の救済のお働きこそが「前のもの」なのであります。もっと単純に言えば、信仰の生活、主を信じて生きる人生こそ、前のものなのです。
逆に、主なる神を知らず、信じないままで、自分の力、自分の考え、自分の働きにより頼んで、生きて行くことが「後ろのもの」であります。
昨年、と言っても先週のことですが、ここでひとりの姉妹が洗礼を施され、キリスト者、教会員に加えられました。歓迎愛餐会で、わたしから、「洗礼とはお葬式を意味すると教えられました」と仰いました。ここで、洗礼をお受けになられた皆さんも、かつて同じことを学んだはずです。ローマの信徒への手紙第6章11節にこうある通りです。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
古い自分がキリストと共に葬られ、死んでしまったのです。今生きている、生かされているのは、復活のキリストのいのちによってです。そして、キリストのいのちによって生かされることが、私どもの毎日の復活経験、新しく生まれる経験なのです。私どもは既に、主なる神を信じ、つまり、神に対して生きています。すでに、古い自分は死んでいます。それは、後ろのものでしかないのです。
キリストの弟子たち、使徒たちは、連戦連勝の信仰の偉人たちであったのでしょうか。それは、誤解です。素直に聖書を読めば、彼らは、主イエスのご復活の後ですら、なお、失敗を重ねているのです。そのようにしながらも、しかし、確実に成長させられているのです。それが、信仰の歩みです。信仰の偽らざる姿なのです。
パウロは、信仰の歩み、その信仰の人生をこう表現します。「なすべきことはただ一つ」つまり、一点に集中した歩みになると言います。また、ならなければならないのです。さらに「ひたすら走る」と言います。ここで、「ただ一つ」と同じ意味の言葉を重ねています。神を、主イエスだけを人生のゴール、生きる目標、生きる意味そのものと仰ぎ見ることです。目をそらさないということです。
ウサギとカメのお話をしますと、多くの方が、それは、何度か聞いたとおっしゃるかもしれませんが、思い出して下さい。何故、ウサギが負けて、カメが勝ったのかというお話です。キリスト教的な理由づけをしてみたのです。ウサギは、競争相手のカメを見ていたから負けたのです。油断したのです。しかし、カメは、ただ一点、ゴールだけを見ていたから、ひたすら走ったのです。歩いたわけです。比較に生きることをやめて、自分自身の使命に気づいて、信仰の道を歩めば、誰でも信仰の勝利者になれるのですし、ならなければならないのです。
最後に「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」から、学びましょう。私は実は「賞を得るため」という言い方に、以前、少し抵抗がありました。「私は信仰生活を、何も、ご褒美、賞与、ボーナスを獲得するためにしているのではない。神への愛、主への感謝に基づいてしているのだ。」つまり、何か、御利益宗教の響きがあると誤解していたからであります。しかし、かつてハイデルベルク信仰問答を読んでから変えられました。そのカテキズムは繰り返し、「これこれのことを信じるとどんな利益がありますか」と、臆することなく問うのです。そこで明らかになるのは、主イエス・キリストの御業、神の救いの御業は徹底的に私共の益のため、救いのため、祝福のためであるとの信仰であります。
先程は信仰の走る目標、ゴールは前方にあると表現されましたが、ここでは上方、上に向かいます。
使徒ペトロは、かつて海の上を歩いたことがありました。人類史上最初で最後の奇跡に与った人物かと思います。しかし、主イエスとペトロ以外に、海の上を歩いた人間はいないはずです。しかし、キリスト者とは、誰でも海の上を歩く人間だと、わたしは確信しています。信仰によって生きるとは、そのような奇跡に与って生きるということであります。海の上を歩くためには重力に抗う力が必要です。上へと、引き上げる力がなければなりません。それこそ、今日読みました「キリスト・イエスに捕らえられている、神に捕まえていただいている」力と言えると思います。つまり、天にいらっしゃる父なる神さまに、上から捕まえられて、引っ張られているということです。ペトロの経験は今日の私共キリスト者の経験をモデルケース、模型となっているのです。
さて再びテキストに戻りましょう。ここで言われている、「上」とは何処でしょうか。勿論、空間の上、空の彼方ではありません。上とは主イエス・キリストがおられる場所のことであります。それは同時に父なる神のおられる所に他なりません。御子は父なる神の右におられ、私共はやがてそこへと迎え入れられるのであります。そこに迎え入れられたとき救いは完成いたします。それこそが賞であります。と言うことは、この賞とは先ほど申し上げたご褒美、ボーナスというような特別のものというよりも、今までも与えられつづけてきた救いの完成、完全なる救いのことであります。まさに、主イエス・キリストと完全に顔と顔とを合わせまみえる恵みの頂点、救いの完成のことであります。罪の赦し、主イエス・キリストを求めてひたすら前に向かって走る私共は必ず上に持ち運ばれるのです。そこで、栄冠を、救いの栄冠を、神の子としての栄冠を与えられるのであります。これが、目標であります。ここを目指して私共は今日も一緒に信仰の旅を歩んでいるのであります。この旅は地上にあるかぎり終わりなき旅、留まらない旅であります。
しかし、それなら、信仰とは休みなく常に、走り続ける厳しい修行、難行苦行の連続になるのでしょうか。急所はそこです。パウロは言います。「何とかして捕らえようと努めているのです。なぜなら、自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」キリスト・イエスに捕らえられている事実が私共を駆り立てるのです。ここで、パウロが云う、ひたすらな走行、走り続ける生き方とは、何でしょうか。これは、いささかおかしな表現ですが、神さまが走っておられるからです。生ける神ご自身が、ひたすらに走っておられるのです。どこに向かってでありましょうか。何をゴールにしておられるのでしょうか。それこそ、実に、私共じしんです。いったい、何の為に私どもを目標としておられるのでしょうか。私共を救うためです。
パウロはこの真理を知っているのです。私どもの信仰の目標は、神御自身です。しかし、驚くべき事にその目標がなんと、私共に向かって迫ってくる、「ここが目標だ、この私のところに向かってあなたのほうも走ってご覧」そう呼びかけておられるのであります。それこそが、神の現実なのです。今年もそのように、父なる神が私どものに近づいてきて下さる、それが歴史の事実なのです。
はいはいから独り立ちした赤ちゃんが、歩きだすとき、大抵、親はその子の名前を呼んで、さらに手をたたいて「こっちこっち」と招きます。神は、手を叩かれる代わりに常に、御言葉を語ってくださいます。それゆえに私共はその歩みをさらに重ねることができるようになります。自分の歩みが神に向かっているとの確かさの中で、喜びのなかで走るのです。しかも、神御自身が傍らにおられる歩みなのです。神御自身のほうから私共の目の前に進みよって、手を引いてくださるそのような歩みなのであります。それが「キリスト・イエスに捕らえられている」という御言葉が指さす御業の内容です。
今年、私どもは、教会設立実現のための最後の1年という、明確な目標が与えられています。これまで、日本キリスト改革派教会への加入、会堂建築という歴史を画する歩みを重ねてまいりましたが、今年もまた、まさに、そのような新しい1ページを編む、幸いが与えられています。このような教会に導かれ、会員とされたことを心から感謝して、ふさわしい覚悟をもって出発致しましょう。
祈祷
私共を主イエス・キリストの内に選んでくださいました父なる御神。今年も、私共を捕らえ続けてください。私どもの目標である主イエスを絶えず仰ぎ見て、あなたを目指して走らせて下さい。