過去の投稿2012年1月10日

永遠のいのちを得るとは

「永遠のいのちを得るとは」
                      2012年1月8日
              マタイによる福音書 第19章16節~22節

 「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」

 ここにひとりの男性が登場します。青年と言われます。ある注解書では、24歳から40歳までの男性を指す言葉だと教えています。年齢にはかなり幅があります。30代はまだ青年というわけでしょう。もしかするとこの青年は、イエスさまと同世代か、あるいは少し上の年齢である可能性もあります。

その人が、主イエスのもとにやってきます。一つの悩みを抱えているのです。それは、ユダヤ人としての固有の悩みと言ってもよいかと思います。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」信仰に生きる人間らしい悩み、その意味では、すばらしい悩みと言ってよいと思います。

そもそも、信仰に生きる人間にとって最も大切なこと、つまり人間にとって最も大切なこととは、永遠の命を得ることに他なりません。つまり、天国に入ることです。言い換えれば、神に救われるということです。

したがって、自分が天国に入れる、救われているという確信がないままで、信仰の生活を健やかに続けることはできません。その意味では、まさに、私どもが自ら問うべきもっとも大切、根本的な問いです。そして、その答えをきちんと持つべきです。それを後回しにして、今週を、今年を始めることはできないのです。

彼の悩みは、自分が、確かに永遠の命を得ているのかどうか、その確信が持てないというものです。いへ、これは、いささか乱暴な表現でした。この青年は、信仰の確信、救いの確信を、持っていると言えば持っていると言い得るのかもしれないのです。なぜなら、彼は、こう問うているからです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」しかも、主イエスのお答えに対して、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」と即座に答えることができたのです。それほどまでに、善いことなら、それなりに十分にしているのだという自覚、自信を持っているということでしょう。つまりは、彼がここでイエスさまによって、何がしたいのかと申しますと、これまでに営々と培ってきた自信を、まさにここで、揺るぎないものとしたいという願いなのです。その意味では、ユダヤの社会で言えば、世間的には、まことに次元の高い信仰生活を送っているわけです。たくさんの財産を持っていることも、当時のユダヤ人にとって、神の祝福そのものと考えられていました。自分も周りの人々も、彼は特別に祝福されている人間だと考えていたはずです。しかも、神の掟を守る生活もきちんと、落ち度なく実行しているのです。まさに、押しも押されもせぬ模範的なユダヤ人、信仰者と考えられていたはずです。

ところが主イエスは、世間からの高い評価とまた自分自身の高い評価に生きている、まさに模範的な信仰者に、たいへん厳しく対応されます。主イエスは、言わば、彼を、ぺしゃんこにしてしまわれました。自惚れをたたき壊されてしまいます。もっと言えば、主イエスは、この青年を躓かせてしまわれるのです。事実、彼は主イエスの言葉に躓いて、「悲しみながら立ち去」ってしまいました。

もし、主イエスの12人の弟子たちとこの青年とを比べるならいかがでしょうか。世間の評価は、圧倒的にこの青年に向けられます。著者のマタイなどは、天下の徴税人です。ユダヤ人のなかで最低の人間と見下されている人です。そもそも、この青年と比べることなど、はばかれる存在でしかありません。彼は、世間の厳しく冷たい視線を受けていたのですし、主イエスの弟子とされた今でもなお、過去の経歴を問われたら、世間の厳しい視線を受けるしかなかったはずです。しかし、主イエスは、マタイを弟子にすることに言わば、成功しますが、少なくともこの時点では、この青年は弟子にできませんでした。救いに導けなかったのです。しかし、主イエスには、どうしても譲れない線があります。誰でも、何でもよいから救うことはできません。どうして、何の能力もない、幼子を救うことがお出来になられるのでしょうか。あるいは、その能力を悪い方に十分に発揮していたと見なされたマタイをお救いになることがおできになられたのでしょうか。それを問うことが、この物語の真髄に触れることになります。

彼は、主イエスに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねます。どんな善いことをすればよいのか。この問いの中にこそ、すでに彼の問題の何であるのかが、明らかにされているのです。もし、「どんな善いことを実践したら、永遠のいのちを得ることができるのか」というこの問いを分析したら、こうなるはずです。神は、我々に、掟を与えられた。この掟を守ることを条件にして、神は、それぞれを天国に入れて下さる。永遠のいのちを与えて下さる。つまり、永遠の命とは、自分の力で掟を守る生活、掟を守る実践によってこそ得られるもの、獲得するものという理解です。だからこそ、彼は、掟を守ることに熱心なのです。

しかし、主イエスは、まさに、ストレートに彼の真の問題のありかをご指摘なさろうとされます。「イエスは言われた。『なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。』」

そもそも、この金持ちの青年は、目の前にいらっしゃる主イエスを救い主として、生ける神としては、考えていません。信じていません。単なる優れた律法の教師、先生という理解です。そこが決定的問題なのです。しかし今は、置いておきます。主イエスは、彼の根本的問題について、ただしい自覚を促そうとなさいます。それが、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」です。この意味は、こういうことです。「わたしは、まさに、善き者だ。しかし、あなたはそのようには、わたしを信じていない。信じていないのに、善いことについてわたしに尋ねる。善い方は、ただおひとり、つまり神のみだ。」この神に尋ねること、これが、あなたにとっての根本の間違いなのだ。」

さらに、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と問う彼とのやりとりを次に、繋げるために、こう仰います。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」主イエスは、ここで、彼が問いかけた問いをそのまま、肯定されているわけです。うっかりすると、主イエスもまた、掟を守ることによって、つまり人間の努力、修行、難行苦行によって永遠のいのちを獲得できると仰ったと、誤解してしまいます。しかし、まさに、誤解です。ここで主イエスは、正しい意味で、掟を守るということは、神を信じることと同一のことだと宣言されました。神を信じるとはその掟を守ること、つまり、聖書の信仰の真髄に他なりません。ここで大切なことは、掟を守ることは、神を信じることと一つの事だと言うことです。神を信じるとは、神を愛するということです。神を愛することは、神の掟、戒めを守ることに直結するということです。それ以外に、掟を守る、戒めを守ることは、本来の意味で、守っていないということなのです。だからこそ、主イエスは、彼に*「掟を守りなさい」*とお命じになられたのです。

さて、青年は、主イエスが、このように答えてくださったことに、少し安心したと思います。さあ、いよいよ、自分に足らない掟が示されるのだ。こうして既に、押しも押されもしないほどの世間的な地位と名誉を受けるばかりか、ついに、神の前での名誉、確信をも手に入れることができると、どきどきしながら、気のきいた掟が示されるのを待ったと思います。
ところが、どうでしょうか。主イエスが掲げられた掟は、こうでした。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」これは、私どもが主の日の度に共に唱えている十戒に他なりません。厳密に言えば、十戒の後半部分です。順序は、バラバラです。第五戒は、「父と母を敬え」ですが、ここでは、それが最後に置かれます。そして、第十戒の「むさぼってはならない」が抜けています。今朝は、その問題に深入りする暇はありません。いずれにせよ、ユダヤ人なら、まさに幼児でもそらんじることができる十戒が、守るべき掟として示されただけなのです。

したがって彼は、即座に答えます。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」この答えは、当然と言えば当然です。彼にとっては、言わば、そのような幼稚な、あるいは誰でも知っているような次元の低いことを問題にしているわけではないのです。彼は、この自分でさえ、気づいていない掟が、聖書の中には記されてあるのではないかという、聖書の教師としてのイエスへの質問を試みているのです。

彼にとって、十戒くらいのことなら、幼児の頃から今日まで、完璧に守っていると自覚しているのです。このような彼の対応を見るとき、気が付きます。彼には、良心の深い痛みが感じられません。「自分は、このすべてを神が求めておられる基準において、守れていないのだ。むしろ、遠く離れている、破ってばかりいるのだ」という自覚がありません。したがって、嘆きがありません。

それこそがまさに問題なのです。いったいどうして、彼は、そのように答えることができたのでしょうか。実は、これは、使徒パウロの救いの課題にも通じます。ユダヤ人全員の共通課題とも言えるかと思います。それは、掟を「うわべ」で守るというあり方です。法律に触れないというあり方です。神の御言葉、聖なる律法を、法律を犯していないという次元で考えるとき、自分は、完璧に守っているという自覚を持つことも可能です。年末に、運転免許証の書き換えにまいりましたが、ゴールド免許に戻りました。実際の運転では、違反を犯していても、法律上は、無事故無違反扱いになっています。そして、それは、保険に加入するときには、若干、割引されるようです。そのような次元で、神の律法を守っているということは、あり得ることです。しかし、そのような考え方そのものこそ、まことに信仰からは、離れてしまったあり方なのです。

そこで、そもそも、考えましょう。何故、主イエスは、ここで、十戒の後半だけを教えられるのでしょうか。

先日も、ある方と子どもカテキズムを学んだとき、神が私たちにのぞんでおられることは、「神を愛することと、隣人を愛すること」と学びました。そこでわたしは常に、「これは、十戒の要約です。そして、十戒は、この順序こそが大切です。この順序を逆にすることはできません。」いつも、力を込めて強調しています。

ところが、主イエスは、なんと、ここでその前半の「あなたはわたしの他になにものをも神としてはならない。あなたは自分のために刻んだ像をつくってはならない。あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚えてこれを聖とせよ。」に触れられないのです。主イエスは、ここであえて、語らなかったはずです。語らないことによって、逆に目立たせられるのです。十戒は、二つの石の板に神との関わりについてが前半、人間どうしの関わりが後半で、二つで一つなのです。しかも、この二つは、信仰の論理があります。動かせない順序があります。最初に神なのです。神を愛するところからしか、信仰は何も始まらないのです。マタイによる福音書第22章35節以下にこうあります。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」主イエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」と明瞭に宣言されました。これは、なにも、イエスさまの専売特許ではありません。旧約聖書における常識です。主イエスは、金持ちの青年に、まさに信仰の初歩の初歩、基本中の基本を、正面から問われます。「あなたは、神を愛していますか。」これが、急所なのです。これこそが問われているのです。彼は、自ら、この問いを問うべきなのです。

しかし、まことに悲しく、残念ですが、彼はこう胸をはって答えるのです。「まだ何か欠けているでしょうか。」彼は、自分は神の要求する基準において、つまりうわべのことではなく、心の深いところで完全な純粋さをもって、この掟を実行し得ていない自分を見つめ、掘り下げるべきです。自分が、ただの罪人でしかないこと、しかし、そんな罪人であっても、この掟を生きるようにと呼びかけて下さる神の愛、神の完全なる愛にすがりつき、ただ無心になって、この完全な神の愛、完全な恵み、完全な救いに飛び込んで行き、信頼すればよいのです。自分の不完全さをまるごと抱えたままで、完全なる救いを受け入れればよいのです。

ところが、彼は、自分は、掟を破っていない。守っていると、自己弁護を貫きます。まさに、それが自己弁護です。しかし、神の御前にもっとも忌み嫌われることこそ、この自己弁護なのです。自己弁護とは、自分を自分で救おうとすることです。彼は、自分の社会的な立場、名誉、地位を自分の努力で、きずき挙げました。しかし、なお、魂に平安がありません。永遠のいのちの確信がありません。それを、最後、つかみたい。それさえあれば、まさに、なにも怖い者などないという心境だったと思います。しかし、自分の魂の救いを自分が掟を守ることによって獲得しようとする一切の企ては、破たんするのです。永遠のいのちを受けること、得ることができないのです。

主イエスは、一切、妥協せずに、彼を躓かせます。何故なら、たとい神さまであっても、いえ、真の神だからこそ、この自己弁護をして、無心に主を信頼し、主なる神に飛び込もうとしないあり方のまま、天国に入れることはできないのです。

そこで、主イエスは、彼を本当に救いに導こうとして云われます。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
主イエスは、彼が完全になることを求められます。マタイによる福音書第5章48節にこうある通りです。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」完全にならなければ、天の国に入れないからです。

さて、くどいですが、なお、完全にこだわりましょう。主イエスは、金持ちの青年に、完全になりたい、永遠のいのちを手に入れたいのなら、自分の家に帰って現金や持ち物、土地を売り払って、貧しい人に施しなさいと要求されます。何故、そのような極端なことを命じられるのでしょうか。これは、率直に申しますと、ここにいる私どもの誰一人も実行していないことだと思うのです。

それなら、もし仮に、ここで、この青年が、「はい分かりました。ありがとうございます。ただちに、家に戻ってそうします。」と答えたら、この物語は、ハッピーエンドとなるのでしょうか。違うと思います。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰ第13章で、こう言いました。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」うわべにおいて守るとは、まさに、そういうことです。神を愛し、隣人を愛する思いを欠いたところで掟を守る生活などは、神の前にまったく通用しないのです。意味がないのです。永遠のいのちを得ることなどできないのです。

それなら、一体、彼は、どのようにすれば、善かったのでしょうか。どのようにすれば、永遠のいのちを得ることができたのでしょうか。それは、ごく単純なことです。主イエスが命じられた言葉、その結びの言葉こそ、決定的に大切なことです。主イエスは命じられました。招かれました。「わたしに従いなさい。」これこそ、第一のものです。そして最後のものでもあるのです。主イエスに従うこと、それは、無心に主を見つめることです。救いは、永遠のいのちとは、他ならないイエスさまご自身の事であって、神ご自身のことであって、このイエスさまについて行く、離れないこと、そこに救いがあるということです。

彼は、悲しみながらも、しかし、世間に戻って行きます。本当は、戻ってはならないのです。彼は、こうすべきなのです。「主よ、憐れんで下さい。わたしには、そこまではできないのです。いえ、今分かりました。わたしは、神を愛する愛が最初から定まらないところで、神の掟を守ることに心を向けています。神さまが、どのような御心を持っておられるのかを悟らないまま、真剣に考えないまま、まるで、法律を守っていれば、ユダヤ人として永遠のいのちを受け継げるのだと、思い違いをしていました。「主よ、赦して下さい。憐れんで下さい。救って下さい。」こう、主イエスにすがればよかったのです。
彼は、主のもとから立ち去ってしまいました。戻った世間では、この青年は、批判されることもありません。軽蔑されることもありません。これまで通り、自分たちの優等生、信仰者の模範、鏡として評価されるのです。

さて、今朝、私どももまた、深く自ら問われます。主を愛する愛が問われています。しかし、もしもそのとき、私どもが、自分の力で愛を深めたり、信仰の道を『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』とするように必死の努力を始めるのなら、結局、この青年と根本のところで同じ過ちを犯すことになるはずです。そもそも私どもは、神を愛する掟こそ、自分で守れない人間なのです。罪人なのです。罪人の頭なのです。

神は、この第一の掟において、鮮やかに私どもに示しておられることがあります。これこそ、根本的な、福音の真理です。神こそが、そして、主イエスこそが、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」小さき私どもを、罪人の私どもを愛されたのです。今なお、愛し続けておられるのです。ここにこそ、信仰のすべての根拠、土台、出発点があるのです。

この物語の直前に、主イエスが、何の能力もない、幼児をそのまま天の国に入れられた物語があります。まさに、今朝の物語と正反対の信仰のあり方が示されていました。あの幼子の姿こそが、私ども信仰者の姿なのです。そして、その正反対が、この金持ちの青年、立派な青年の姿に他なりません。

幼子とは、無心に生きる存在です。無心とは、何も考えていないということではありません。無心とは、対象に集中するということです。幼子が、遊ぶときまさに無心になっています。お乳を飲むときも、母親に抱かれるときも、無心です。だからあれほど喜べるのです。無心とは、そのように、集中する姿です。私は、この第一の掟を読むとき、いつも、思わされます。ここで、神こそが無心になっておられると言うことです。主イエス・キリストの父にして、私どもの父なる神こそが、自分の力で自分を救うことなど、決してできない小さな者、幼子を、自己中心で自己弁護に走る罪人を救おうとお考えくださったのです。そして、これを十字架で、実行してくださったのです。

私どもは今朝、ここで、この神の愛を、無心になって私どもを愛して下さる神を仰ぎ、愛を注がれ、愛を受けるのです。だからこそ、私どもは、自分の罪のみじめさ、不信仰、信仰の弱さをまるごとかかえて、主のもとに来ているのです。主イエスから離れないのです。そのようにして、わたしどもは、救われているのです。そして、信じています。主が、私どもに、個別に、「あなたの財産をすべて換金して、このことに捧げなさい」とお命じになられるときには、主がそれを、必ずや私どもにおいて実現して下さるのだと。今それができるかどうか、それは、根本的な問題ではありません。それが必要な時には、それを成し遂げる力が与えられると信じることです。

祈祷
わたしに従って来なさいと招かれる主イエスよ、あなたこそ、わたしどものいのちそのものです。今年も、今週も、今日一日も無心に、あなたを仰ぎ見る眼差しを与えて下さい。あなたを愛する故に、喜んで掟を守る生涯を捧げさせて下さい。愛されている喜びのなかで、私どもも神を愛し、隣人を愛する者として、本当の人間の姿へと、本当の自分の姿へと変容し続けて下さい。アーメン。