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神の恵みの完全に生きる-後の者が先になるとはー

「神の恵みの完全に生きる
       -後の者が先になるとはー」

                       2012年1月15日
             マタイによる福音書 第19章23節~30節②

 「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
※ イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 説教についてのある学びをしたものとしては、心して避けて来たことですが、しかし、今朝はあえて、私もまた少しずつ成長、つまり変化している者であると思いますのでお話させていたこうと思います。

先週、あらためて亘理旧館の仮設住宅、坂元中跡の仮設住宅をお訪ねしました。仙台での会議があったから行けたわけです。午後からの会議でしたので、一日早く仙台に行って宿泊し、午前中の時間を利用しようと考えました。雪が舞い散る朝でしたが、ひとりの長老の運転の奉仕をお願いし、同行していただきました。お便りをいただきました何人かの方々と短いながらも、お話をさせていただくことができました。

 「ようやく今頃になって、モノは全部失ってしまったけれど、それは、結局、モノでしかないのです。いのちが守られたのだからよかったのだと思えるようになりました。他には、もっと大変な思いをされた方もいることを、知っています。自分なんかは、ほんとうによい方です。今年からは、前を向いて、やって行こうと考えています。」

 津波は、モノというモノを、またそこに留まったいのちといういのちを、流し、奪って行きました。土地、モノ、現金がなくなってしまった方々の厳しい人生を思うと、本当につらくなります。しかし、少しずつ心の整理をつけはじめていらっしゃる方もおられます。

 私どもの小さな被災地支援のディアコニアは、これからも、小さな伝道所だからこそ担えることを、また、大会や中会の広い祈りと支援を受けながら、いよいよ継続し、展開しなければならないと、毎日思わされています。

 もとより、私どもは、昨年も、週報に記載している通り、「教会設立へのカウントダウン」として、教会を挙げて取り組まなければなりません。そして、この町に住む、倒れている方々の隣人にならなければなりません。

 さて、ここに登場する物語の主人公は、金持ちの青年です。当時の人々、いへ、結局、現代もまったく変わっていない考えだと思いますが、お金を稼ぎ、裕福な暮らしをしている人を羨み、そして、そのような能力を持ち、正当な努力もした人を、社会は評価します。たとえば、駅の外で段ボールで横になっているホームレスになった人と新幹線に乗って、自由席ではなく指定席、あるいはグリーン車に乗ってパソコンを開いてる人を比べるなら、どうでしょうか。

 この青年は、社会的に極めて高い評価を得ていたのです。しかも、ユダヤ人である彼は、人々から、「ああ、あの方は、神さまに祝福されているから金持ちになったのだ。やっぱり、神の掟を守って生きている人は違うな。」人の子の親であれば、子どもに向かって、「○○ちゃん。あの人をごらんなさい、あなたもまじめにがんばって勉強して、あんな人になりなさい。」そんな声すら聞こえてきそうです。

 ところが、主イエスは、そのような世間の常識を、覆してしまわれます。主イエスは、実に、幼子を、乳飲み子をそのままで祝福されてしまったのです。幼子たちは、立派になれません。お金をかせげません。掟を守れません。ただ、受けるだけしかできません。ただ、お世話をされるだけの存在です。無心になって親に抱かれているだけです。親をひたすら信頼するだけでしか生きられません。しかし、主イエスは、その幼子、子どもたちに手を置かれたのです。

手を置くということは、聖書に慣れ親しんでいる人には、分かるのですが、権利を継がせるときの「しかた」なのです。創世記において、イサクの次男のヤコブは、長男エサウの当然受けるべき、受け継ぐべき長男の権利を奪ってしまいます。その権利を受け継がせる方法が、頭に手をおいて祝福の祈りを捧げるということなのです。主イエスが、ここでなさったこととは、まさにそのことです。ここで祝福された子どもたちは、イスラエルの父祖、イサクどころではありません。神の御子なるイエスさま、主イエス・キリストから直接に、手を置いて祈って、祝福を受けたのです。ということは、天国の遺産、天国の宝、永遠のいのちを、なんと、この幼子が受けてしまったということです。まさに驚くべきことです。しかし、これが、天国の現実なのです。福音の真理、神の完全なる恵みの御業なのです。

そのことを、心にしっかりと覚えたまま、今朝の物語を読むときに、何が見えて来るのでしょうか。幼子とは正反対の、いわゆる立派な大人の姿です。そして、この立派で、誰からも憧れられる大人が、主イエスの祝福、神の祝福を受けそこなってしまったという物語なのです。いったい何故、そうなってしまったのでしょうか。どうしてなのでしょうか。私どもは既に、幼子を祝福する説教で、答えを学んでいます。神のメッセージは、はっきりしています。主の恵みを一方的に受けること、神に無心によりすがること、突っ伏して、よりすがることなしに、永遠の命を受けること、獲得することはできないということです。
 

 ところが、主イエスは、この男性には、一つの条件を提示されました。そのように素朴に読むことができるだろうと思います。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」完全になりなさいという命令です。どうして、幼子には、何の条件もつけないイエスさまが、この大人、この立派な大人には、このような条件を、しかも、人間には到底できないような条件を要求なさったのでしょうか。

私どももまた、先週、少し触れましたが、この物語を読むと、心がざわつくと思います。何か、そわそわする。後ろめたさを覚えるからです。家に帰れば、土地も家もある。銀行には貯金もある。しかし、自分は、どれほど、それらを神のために、また伝道のために、捧げているだろうか。そうすると、幼子を祝福されるイエスさまの物語は、心が落ち着くけれど、この物語は、キリスト者であっても、いへ、キリスト者だからこそ、何か、後ろめたさを覚えるのではないかと思うのです。

それは、私どもだけではなく、誰よりもこのとき、弟子たちじしんもまた、そのように思ったのです。主イエスは、去ってしまった青年の後姿を見つめるその眼差しを、弟子たちに向けられて、こう宣言されました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 金持ちが天国に入ることは、難しいとおっしゃいます。比べて見るなら、たとえば、らくだが針の小さな穴を通ることの方がよほど簡単だと言うのです。つまり、金持ちが天国に入るのは、不可能だと仰ったわけです。マタイは記します。「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った。」驚きを通りこして、衝撃が走ったのではないかと思います。これは、「そんなにも、永遠の命を得ることが難しいのなら、誰も救われないのではないですか」という意味です。このときの主イエスの要求を誤解して聴き取るなら、まさに、その通りだと思います。完全な者になろうとする努力にゴールはありえません。生きている限りは不可能、絶対に無理ということです。

そのとき、主イエスは、26節にあるように、弟子たちを見つめられます。じっと見つめられます。この場面の主イエスの眼差しを、わたしどもはそれぞれに、黙想したらよいと思います。どのような眼差しだったのでしょうか。「目は口ほどにものを言う」という言葉があります。その眼差しを、正しく心に描ければ、もう、それで、十分と思うほどです。同時に、この金持ちの青年の立ち去って行く後ろ姿を見つめておられたイエスさまのまなざしをもあわせて想像してくださるとよいはずです。主イエスの彼に対する激しい憐れみの愛が通じないことの悲しみ、彼の今日と明日のことを思って、激しく心を痛ませておられた、厳しい思いを味わっておられたと思います。

弟子たちは、主の愛の眼差しのなかで、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と高らかな宣言を聴きました。すると、なんということでしょうか。ペトロは、主イエスが直前に仰った高い要求、高いハードルを越えて進むことは、人間には無理だと、驚きと衝撃をもって、聞いたばかりにもかかわらず、こんなことを語りだしたのです。「すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。』」
「そうです。主よ、わたしを、私たちを見て下さい。これ、このとおり、何もかも捨てて、イエスさまにお従い申し上げています。」ぺしゃんこになったかと思ったのもつかのま、まさに胸をはっています。最近の言葉で恐縮ですが、「どや顔」です。いったいどうしたのでしょうか。

 もとより、このときの自信満々のペトロの顔は、単純ではないと思います。「自分たちは、確かに、このように家族を捨て、仕事を捨て、イエスさまに従っている。一応、条件をクリアしているではないか。しかし、そうだ、これは、神さまのおかげなのだ、人間にはできないことだが、神のおかげで、神の恵みによって、奇跡を起こしていただいたのだ。」つまり、ただ単に自分の努力や優秀さを鼻にかけたのではなかったと思います。ただ単に、自分の力を誇ってみせたのとは違うと思います。しかし、いかがでしょうか。先週も、開いた個所を思い起こしましょう。コリントの信徒への手紙Ⅰ第13章3節です。そこには、こうあります。「全財産を貧しい人のために使い尽そうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」神は、私どもが、何をしたのかではなく、どのような動機でしたのか、それをこそ問われるのです。それこそ、神の問いなのです。

 何よりも深刻に問題にすべきことは、これです。どや顔のペトロは、こうも、はっきりと、臆面もなく語ったのです。質問したのです。「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」これを聴いて、私どもは、思います。「何だ、結局同じことではないか」。つまり、金持ちの青年もまた、何をしたら永遠のいのちを得られるのかと、言わば見返りを求めて、主イエスのもとに来たわけです。そしてそれが自分にはできそうもないと考えたとき、悲しみながら立ち去ったわけです。

しかし、ペトロは、「一応自分たちは、まがりなりにも一定の基準を果たしているはずだ。だったら、永遠のいのちをいただけるはずだ。いや、そればかりかもっと別のすばらしいものもいただけるのではないか。」そう思っているのです。いわゆる教養のある人なら、顔に出さず、口にださずに、心に隠していたかもしれません。ペトロは、素直と言えばまったく素直です。しかし、要するに、ペトロの心、その動機と金持ちの青年の心、動機とを比べてみれば、言わば、五十歩百歩、どっちもどっちなのではないかと思うのです。「何だ、結局ペトロたち、弟子たちも、純粋な愛、神を愛する愛に基づいて、従っているわけではなかったのか。あの幼子のように、神とイエスさまを無心に愛していたから従っていたわけではないのだ」そう思います。それが、暴露されたと思います。

しかし、私ども読者をそれ以上に驚かされることが続きます。これに対する主イエスのお答えのことです。おそらく、私どもはここで一つのことを予想できるのではないでしょうか。青年に向けて語られた厳しい要求、言葉より、むしろ、この弟子たちにこそ、さらに厳しい言葉かけがあって当然ではないでしょうか。ところが、主イエスは、いっさい叱責されません。叱責どころか、もう、これ以上にないという位に、聖書の他のどの個所にもないくらいに、弟子たちには、すばらしいご利益が与えられると約束されたのです。

わたしは、キリスト教はご利益宗教ではない。だから真理、それこそが、神の国の真理だと、言わば、マタイによる福音書の講解説教で、ずっと語り続けて来たつもりです。今朝も、愛がなければ、空しいと使徒パウロの言葉を繰り返して引用したばかりです。ところが、主イエスは、このように約束されます。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」
前半の、「十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」とは、ユダヤ人の栄誉として、究極の、最高の栄誉です。イスラエルの王さまになるということです。12人が、それぞれ王さまです。後半は、誰にでもわかる富についてです。主イエスの御名のために捨てたものは、100倍になって報いられるという約束です。銀行にあずけておいても、零点何パーセントしか利子がつかない時代ですから、天国に預けておいた方が、すごいことになるわけです。ここで主イエスが仰ったことは、まるで経済のお話、言わば金融の世界のようなお話です。しかも、最後には、永遠の命を受け継ぐと保証されたのです。いちいち、説明する必要はありません。すごいご利益です。
  

そもそも主イエスというお方は、このような天国の祝福を、なんとしても、人々にお与えになることを願っていらっしゃるのです。そして、弟子たちは、その祝福にすでに招かれ、約束されたと宣言されたのです。天にも上る喜びとは、まさにこのことでしょう。いへ、実際に、その天に昇れると約束されたのです。

 私どもは、素朴に、この主イエスの御心、ご愛を深く味わいたいのです。一つは、本当に、地上にあって、主イエスの御名のために、つまり、自分の栄誉ではなく、主イエスの御名のために、家を捨てた人は、必ず、報いられるという約束、恵みを信じたいのです。この御言葉は、迫害の時代を生き抜いた先達の力となったと思います。しかし、何よりも、ここで味わうべき福音の真理とは、自分に与えられたものを捨てることができたのは、神の奇跡だということです。つまり、救われるのは、ただ神の奇跡によるのだということです。そうであれば、キリスト者に「どや顔」はまったく似合わないのです。そのような自慢は、信仰を否定することになります。しかし、キリスト者にふさわしいのは、救われた喜びと誇りです。神の完全な恵みに生かされている誇りに生きることです。
 

 冒頭で、被災者の声をご紹介しました。モノよりも大切なものを実感なさっていらっしゃいます。そこから、これまでよりもっと深い生き方、すばらしい生き方へと立ち上がるチャンスがあると思います。いっしょに同行して下さったひとりの長老は、「こちらの方から教えられた思いです。」とおっしゃいました。まったくその通りです。
 
最後に、主イエスの不思議な言葉を聴いて終わります。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」いったい、「先にいる多くの者」とは、誰のことでしょうか。謎めいた言葉です。後先の問題、順番の問題なのでしょうか。つまり、ようするに、どちらも最後には、永遠の命を受け継げるのということでしょうか。まさに、謎めいています。私は、天国に行く順番の問題であれば、先に行く人に向かって「どうぞどうぞ」と譲ることもできると思うのです。むしろ、我先にと、競うようにして、永遠の命を求めることもないように思います。しかし、もしも、先の者の多くが永遠のいのちを受けられないということを意味するのであれば、これは、ゆゆしき問題です。大変な、問題のはずです。そして、わたしは、この御言葉を、まさに「ゆゆしき問題」と解釈した方がよいと思います。

それなら、ここでの「先の者」とは、誰のこと、どのような人のことなのでしょうか。それは、この掟を守れば天国に入れると考え、実践する人です。つまり、ユダヤ人であり、ユダヤ主義者です。この青年がその代表、典型です。彼らは、言わば、先を急いだのです。

それなら、「後の者」とは、誰のことでしょうか。それは、掟を守ることによって永遠の命を受け継ぐことができないと考える人間です。自分のことを、罪人として、しかも罪人の頭としての自覚を深める人のことです。つまり、弟子たち、キリスト者たちのことです。

つまり、実は、自分のことを、神の掟、律法ならば、幼い頃からみな、ちゃんと守ってきましたと自覚していた、言わば天国にもっとも近い、先にいると思っていた人たちこそ、実は、入りそこなうことが起こってしまうのです。ここに、律法学者、ファリサイ派のユダヤ人の根本的な悲しみがあるのです。それに対して、主イエスの弟子たちをはじめ、主イエスのまわりの名もなき群衆、幼子たちこそが、罪人たちこそ、先に天国に入るわけです。

 ここでも、先々週のイソップ物語のウサギとカメのお話の、キリスト教的解釈について、恐縮ですが、あらためて思い起こして頂きたいと思います。

 後ろの者とは亀のことです。キリスト者のたとえです。彼は、のろまかもしれませんが、ただゴールだけをみつめます。つまり、天国だけを見つめるのです。それに対し、ウサギは、律法主義者、この立派で金持ちの青年です。掟を守れるし、ゴールに先に入ったら、亀などよりも、もっとすばらしい報酬が待っていると考えるわけです。言わば、やがて受けることのできる報酬目当ての信仰生活です。

 しかし、亀は、違います。確かに報酬を受けることを信じています。しかし、急所になるのは、これです。亀は、今この瞬間を、天国を目指して走り続けている、そのことじたいが喜びであり、感謝だったのです。後先も関係ありません。そもそも、競争しているわけではないからです。

 たとえば、分かりやすい例になりますので、エホバの証人たちのことを考えてみます。彼らは、神の救いとは、今ここで、与えられるものとは考えていません。彼らは、やがて自分たちが死んだ後、なんとかして天国、パラダイスに入ることを求めています。必死です。新しい世界に入るには、分かりやすい条件があるのです。それこそは伝道です。彼らは、その保証、その手ごたえを必死になって求めています。それが物見の塔という宗教、エホバの証人なのです。彼らの伝道とは、個別訪問です。ノルマが課されています。そのノルマを達成することによって、死後の世界の保証を得るというカラクリ、活動の仕組みです。ですから、全員が個別訪問をするわけです。

 彼らは、聖書の信仰と似ているようで、まったく違います。大切なことを確認しましょう。私どもの永遠の命とはどこにあるのでしょうか。それは、イエス・キリストご自身です。イエス・キリストというお方そのものが永遠のいのちです。つまり、それは、肉体の死後に与えられるものではありません。丁寧に申します。肉体の死後に初めて与えられるものでは決してありません。永遠の命とは、主イエス・キリストを信じたその瞬間に与えられるものです。そのしるしが洗礼です。信じて洗礼の礼典にあずかり、信じて聖餐の礼典にあずかっている私どもは、皆、永遠のいのちに生かされているのです。丁寧に申します。生かされ始めているのです。これなしに、死んだ後に、永遠の命を受けること、可能性はほとんどあり得ないのです。

 掟を守っていのちを獲得する道は、ウサギの世界です。先の者です。律法主義の在り方です。しかし、亀は、後の者です。もともとの亀は、そもそも、動けもしません。ただ神の愛を信じたとき、そのとき、神を愛しはじめ、動き始めることができたのです。隣人を愛する方向へ、それをゴールにして、歩み始めるのです。

神を愛することは、同時に、隣人を自分を愛するように愛する掟へと規定されることとなります。拘束されることになります。そして、この規定され、拘束されることこそは、実は、解き放たれて行くことに他なりません。自分中心のがんじがらめの窮屈な生き方から解放されることです。

 福音の真理を正しく信じて、生きるキリスト者は誰でも、ここで言われている後の者なのです。後の者こそ、ただ恵みによってのみ生きる人、あの幼子たちのように無心に、神の完全な恵みにすがってのみ生きる人々のことです。その人々だけが、主イエスのもとから立ち去らず、主イエスによりすがり続けるのです。

 祈祷

 主イエス・キリストの十字架と復活の御業を信じるだけで、私どもに天国を開き、永遠のいのちにあずからせて下さいました父なる御神。私どもを、あなたの愛をいよいよ豊かに受け、あなたを愛し、隣人を愛する者として、いよいよ、愛に生きる自由へと解き放って下さい。アーメン。