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神の気前良さに生きる  -人の公平と神の不公平ー

「神の気前良さに生きる
       -人の公平と神の不公平ー」

                       

2012年1月22日
             マタイによる福音書 第20章1節~16節

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
 

主イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と語って伝道を始められ、最後まで語り続けられました。マタイによる福音書の福音書の主題は、主イエス・キリストによってもたらされた天国の幸いとそこに生きる者の生き方です。

 今朝の譬え話もまた、ほかならない天国の譬え話です。そして、天の国の常識、天国に生きる者の常識がここでも明らかにされて行きます。天国の説教、つまり、聖書のみ言葉は、いつも、この地上の常識を問い続けて来ました。はっきりと申しますと、告発しつづけてまいりました。中でも、この譬え話は、とりわけそうだと思います。確かに、ある人々には、深い喜びと慰めを与えて来ました。しかしその反対に、ある人々には、大きな違和感、むしろ反発、反感を与えて来ました。

さて、譬え話の中身そのものはとても簡単明瞭です。先ず、農園主が登場します。彼は、広大なぶどう園を所有しています。彼は、自分のぶどう園で働いてもらう労働者を雇うために、広場に出かけて行きます。広場とは、働くことを願っている人たち、労働者たちが集まる場所のようです。朝一番、既に6時頃には、大勢の人たちが集まっています。そこで、主人はこう呼びかけます。「もし、あなたが、今日一日、わたしのぶどう園で収穫の仕事をしてくれたら、一デナリオンさしあげましょう。どうぞ、わたしのぶどう園で働いて下さい。」

本題はここからです。この主人は、朝の9時にも、この広場に行きます。すると、まだ多くの人がいます。彼は、言います。「さあ、わたしのぶどう園で働いて下さい。ふさわしい賃金をはらいますから。」その人たちは、喜び勇んで出かけて行きます。

さて、なんとこの主人は、お昼の12時にも出かけてゆきます。「さあ、わたしのぶどう園で働いて下さい。ふさわしい賃金をはらいますから。」その人たちも、喜び勇んで出かけて行きます。

そればかりか、午後3時にも行って、同じように言います。「さあ、わたしのぶどう園で働いて下さい。ふさわしい賃金をはらいますから。」いへ、驚くべきことに、日も傾く5時、まさに一日が終わろうとしている夕方にも、広場に行きます。そこには、まだ、人が立っていました。主人は、たずねます。「何故、一日中、ここに立っているのですか。」彼らは、悲しい目をして、こう答えました。「誰も雇ってくれないのです。」すると、ご主人さまは、大きな声で言いました。「さあ、急いでください。わたしのぶどう園に行ってください。」

現代的に考えるならば、この農園主は、経営センスがないと言われるでしょう。今日一日分、何人、雇うべきか、分かってよさそうなものです。万一、急なニーズが生じたのなら増産体制を組み直して、新規採用をすることもあるでしょう。しかし、それでも、一日の内に何度もそのようなことをすることは考えられないはずです。しかし、ここは工場ではなく、2000年前のぶどう園です。

いったい何故、一日の内、何度も広場に足を運んだのでしょうか。それは、自分のぶどう園の収穫量を上げようとしてのことではないはずです。彼は、経営者の立場に立っていないのです。むしろ、働きたいのに働き場のない悲しい労働者の立場に立って、考えているのです。つまり、この農園主とは、他ならない神さまの譬えなのです。父なる神の御心、その行動の譬えなのです。そして、ぶどう園とは天国の譬えです。そして、その天国とは、何を意味しているかと申しますと、地上の教会生活、信仰生活です。私どもの人生そのものです。

働きたくても雇ってもらえない人の理由は様々でしょう。これは、わたしの想像ですが、9時に広場にいた人たちとは、現代で言えば、「ブラック企業」と呼ばれるような、社員を使いつぶして捨ててしまうような会社に就職した人に似ているかもしれません。中途退職を余儀なくされたわけです。あるいは、働き始めて、しかし、自分のやりたい仕事ではなかったのだと気づいて、広場に戻ってきた人なのかもしれません。かっこたる人生の目的や働く意味を確立できないまま就職した人かもしれません。いずれにしろ、言わば、出だしで躓いてしまった人々です。

譬え話しは、お昼の12時。そして3時と、続きます。この人たちは、最初は、遊んでいたのかもしれません。朝、起きるには起きたけど、今日は、遊んでしまおう、自分の好きなようにしようと、布団のなかにもぐってしまったのかもしれません。あるいは、外に遊びに出ながら、やっぱりこのままではだめではないのか、もう一度、やり直したい、自分の本当の生き方は別にあるのではないかと考えなおして、ダメはもともとで、広場に来たのかもしれません。

いずれにしろ、いったい、広場にいた人たちの気持ちはどうだったのでしょうか。そもそも仕事とは、ただ単に生活の糧、お金を得るためにあるわけではないと思います。社会とのつながりを保ち、自分の存在が社会に、誰かの役に立っているという思い、つまり、自分の存在意義、生きがいに直結しているのだと思います。したがって、働きたいのに働けないと言う状況は、危機的状況です。最後に5時まで、ずっと、ひたすら広場に座っていた人々は、どんな気持ちでいたのでしょうか。 

そこで、農園主は彼らに、尋ねます。『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』彼らは、悲しく暗い顔つきで言います。「『だれも雇ってくれないのです』と言った。」つまり、働く意思、その意欲は、朝6時の人たちと同じように持っていたわけです。それなら、何故、雇われなかったのでしょうか。もしかすると、肉体のハンディキャップがあったのかもしれません。目が見えない、耳が聞こえない、足が不自由、手が不自由、病気にかかっている、そのような理由があったのだと思うのです。どの経営者からも、労働者として認められなかったわけです。つまり、価値を認められなかったのです。おそらく、彼ら自身も、ついに夕方になったとき、自分の一日はただ空しいだけだった、無駄だったと思ったことでしょう。つまり、自分は価値のない人間なのだと、心折れてしまっていたはずです。

ところが、そのような彼らに農園主がお命じになられます。『あなたたちもぶどう園に行きなさい』命令です。「何も心配しなくてもよい。ただ、わたしのぶどう園には、あなたも活躍できる働き場がある。手が不自由、足が不自由、目が不自由、耳が不自由、いへ、それでも、わたしの農園には、あなたの働き場がちゃんとあるのだから、くよくよしないで、行きなさい。」農園主はこの人々に、何とか、働く喜びを与えてあげようと、一生懸命になっているのです。

午後5時です。彼らがぶどう園につく頃には、もう、夕方になっています。片づけを始めている時間です。つくや否や、あるいは、ぶどうの房を一つもぎとったかもぎ取らない内に、終了の鐘が鳴り響きます。

結局、彼らは、ほとんど何もできませんでした。ところがです。ご主人は、労働監督者に命じます。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』「さあ、働いてくれた人たちを呼んで、約束通り、お金を払ってあげて下さい。ただし、最後に来た者たちから始めて、最初に来た人という順番にしなさい」ぎりぎり間に合った人たちに、何と、一デナリオンが払われました。そうです。これは、約束通りの金額です。一日につき一デナリオンの約束だったからです。そもそも、一デナリオンとは、当時の労働者の一日分の賃金とされていました。日当なのです。

さて、事件は、ここで起こりました。後ろに並んで待っていた人たち、つまり、朝から働いていた人たちが自分の賃金を受ける番になったときです。労働監督者は、その人にも一デナリオン支払ったのです。それを見た瞬間、彼らの目の色が変わりました。興奮しています。「ほとんど何もしなかったような、彼らに、一デナリオンか。すごい、農園だ。すばらしい農園主さまだ。いったい、朝一番から、バリバリ働いた私たちには、どれくらいくれるのだろう。」

ところが、監督は、約束した通り、一デナリオンだけ払いました。その時です。もう一度、かれらの目の色が変わりました。顔つきも変わりました。正反対の思いがこみ上げてきます。真っ赤な顔をして、このご主人さまに文句を言い始めます。「ずるいではありませんか。ずる過ぎませんか。あんな奴らは、広場から農園まで歩いて来ただけのことでしょう。どれだけ収穫しましたか。あんな連中と同じ一デナリオンですか。馬鹿にするな。私たちは、朝から晩まで、暑い中を辛抱して働いたのです。どれだけ、大変な思いをしたのか。分かりますか。何故、あいつらと、我々とをいっしょにするのですか。不公平です。」

いかがでしょうか。私どもの心の中にも同じような思いが潜んでいるのではないでしょうか。「やはり、不公平ではないかな。1時間で一デナリオンだったら、朝の6時から夕方6時まで12時間、お昼の一時間を抜いても、11時間働いたのだから、11デナリオンもらわないと損ではないか。」

ところが、主人はこう答えました。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

主イエスの父なる神、私どもの父なる神さまは、こう語られたのです。「愛する友よ。あなたたちが、よく働いてくれたのは、分かっている。しかし、わたしは、最後に来たあの友にも、同じように払ってあげたいのだ。働きたかったけれど、働けなかった彼らは、どれほどの悲しみ、空しい思い、不安な思いの中で、広場にいたことだろう。わたしは、彼らを憐れむ。わたしの気前の良さは、あなた方には、悪いことになるのか。何故、そこでわたしといっしょに喜んでくれないで、むしろ妬むのか。妬みのなかで、何故憤っているのか。」

主イエスは、何故、この譬え話をお話されたのでしょうか。そして、誰よりも聴いて欲しかった人は誰なのでしょうか。それは、先週学んだ、あの金持ちの青年です。あの金持ちに代表される律法学者やファイリサイ派の人々です。しかし、彼は、すでにいません。

しかし、問題は、彼らだけではありません。むしろそれ以上に、今、問われるのは、実は、弟子たちです。つまり、キリスト者こそです。「主イエスよご覧ください。わたしたちは、これこのとおり、すべてを捨ててあなたに従ってきました。そうであれば、いったい何を頂けるのでしょうか。」こう言ってのけた、ペトロじしんです。

このペトロの主張は、純粋な神への愛と呼ぶことができるでしょうか。彼の思いの背後には、報い、見返りをのぞむ思いが潜んでいます。いへ、溢れています。讃美歌の中に、「報いをのぞまで、人に与えよ」という歌詞があります。私どもが、奉仕を捧げるとき、この奉仕を捧げたら、どんな報いがあるのだろうかと、いつも、そればかりを考えるなら、その奉仕は、長続きしないと思います。つまり、これは、キリスト者のひとつの常識ですが、使徒パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰ第13章で歌いあげたように、まことの愛とは、無条件のものであり、本物の愛は相手からの見返りを求めず、むしろ与えるもののはずです。

ところが、主イエスは、先週の説教で、ペトロのこの言葉を、まったく否定せずに、むしろ、100倍の報いがあると約束されました。このイエスさまの応答にこそ、私どもは驚かされたのです。しかし、主イエスは、ここで、信仰が決して、報いが与えられないものとは、まったくお考えになっておられないことが明らかにされました。ご利益ということを言えば、宗教と言う宗教の中で、イエスさまが約束されたご利益ほど、すごいものがあるかと思います。

ただし、注意深く読まなければなりません。それは、「新しい世界」になるときです。つまり、主イエスご自身が、マタイによる福音書の後半で集中的に学びますが、再びこの地上に来られる日、再臨の日、この世界が新しくされる日、完成される日のことです。生きているこのときに、100倍になるとは、言われていません。しかし、ここで、私どもは、真剣に考えるべきです。この報いを信じることがどれほど大切かです。主イエスがこのように約束されたのは、ペトロをはじめ弟子たちを励ますためです。信仰から信仰へと、この地上の生涯を全うさせ、深めるためです。

信仰は、単なる思想ではありません。私は、誰も見ていないところで、真剣に、真実に主の御顔の前で、従うキリスト者が大勢いることを知っています。言わば、「気前のよい」キリスト者です。彼らの多くは、この自分の奉仕が、捧げた者、あるいは捨てたものが天の宝になっている、主イエスが、はっきりと宣言されたように、「天に宝を積む」ことになると信じているのです。

先日のことです。これは、他教会の会員なのですが、献金を手渡されました。「これは、先生の自由に使って下さい」

昨年、中部中会の教師会で、韓国の東釜山老会の牧師たちから、すばらしい学びのときを受けました。多くの牧師が、執事さんから、キャッシュカードをもらっていると言うのです。必要があれば、自由に使って下さい。これは、非常識と言えば、非常識だと思いました。そんなことをしたら、牧師が堕落するのではないかとすら思ってしまいました。しかし、キャッシュカードをもらって、どうして、それを自分の遊びや何かに使えるでしょうか。もちろん、カードの明細は、執事さんが見るわけでしょう。しかし、それを見られなくても、その方の思いを汲んで、使う以外にあり得ないはずです。

おそらくそのカードをプレゼントした方は、天に宝を積むということを真剣に、考えていらっしゃるはずです。そして、何よりも、伝道が進展することを至上の喜びとなさっているのだと思います。要するに、神の国が前進するのなら、それをこの牧師が担って下さるし、それに用いられるならと喜ばれているのです。誰に強いられたわけでもないはずです。主に従うということは、そのように、霊的な報いを信じる人、言わば、気前の良さに生きるのです。

さて、ペトロに戻ります。さ来週、学びますが、実は、20節以下で、弟子のヤコブとヨハネの母が、イエスさまに、このようなお願いをします。二人の息子を右大臣、左大臣のポストに就かせて下さいとそっとお願いするのです。他の10人の弟子たちが、それを聞いたとき、抜けがけされた彼らは、怒ったのです。弟子たちは、自分たちはすべてを捨てて、これほどまでに頑張っているのだから、当然、すばらしい報い、すごい見返りがもらえるのだろうと思っているのです。

問題はそこです。急所はそこです。だからこそ、この譬え話がここでなされるのです。弟子たちとは、まさに朝から働いた労働者の気持ちになっているのです。「自分がたくさんの報酬をもらうのは、当然だ。最後に来た人たちとは違う。」

この譬え話のメッセージの鍵となる言葉は、何でしょうか。「気前の良さ」です。これは、原文には、ありません。善いという意味、完全という意味の言葉です。文脈で、「気前がよい」と訳したのです。

思いだして下さい。善いと言う言葉は、先週のテキストで出てまいりました。「善いことについて何故、わたしに質問するのか、善いお方はただ一人だ」というイエスさまの言葉です。善いとは、神のことです。

先週の説教題は、「神の恵みの完全に生きる」でした。神の完全なる恵みによって、私どもは救われた、生かされているということです。もし、神が完全なる恵みをもって私どもに望んで下さらなければ、決して、天国に入ることはできないのです。らくだが針の穴を通るようなこと、まさに、神の恵みが完全、100%だから、私どもは罪人のままで救われたのです。

しかし、最初から働いた者たちは、まさに、この神の完全さ、神の善さ、神の恵みを批判したのです。不公平と不平を鳴らしたのです。

確かに、人間の目から言えば、不公平でしょう。しかし、神は、約束を守られたのです。一デナリオンの賃金を払ったのです。

最初から働いた人々は、神が善いお方であり、恵みに富んでいらっしゃるお方であり、愛のお方でなければ、弟子たちは救われなかったことを、忘れるのです。いへ、私どもキリスト者も、特に、若いときに救われ、長く信仰の道を歩んできた者こそ、陥りやすいとも言えます。

昨年、ひとりの兄弟が召されました。教会生活をされたことのない方でしたが、まさに、死の床で、今わの際で、主イエスの御名を呼ばれました。信仰を告白されたのです。確かに洗礼を受けることなく、召されました。しかし、天の御国へと召されたのです。確かに、何の奉仕もできませんでした。しかし、天の御国に入れたのです。わたしは確信しています。神の国こそが、主イエスからのその兄弟へのプレセントなのです。主イエスのこの気前の良さを、天のお父さまの、この気前の良さを、どれほど感謝すべきでしょうか。

わたしは、20歳のときに洗礼を受けました。それから、伝道こそ、わたしの喜び、使命と考えました。大学に行くのも、伝道のためになったのです。今から思えば、大学生のキリスト者としては、バランスを欠いています。しかし、後に、牧師になったのですから、仕方がなかったとも言い訳が可能かもしれません。既に、召されていたのです。そして、いつも心から思うことがあります。若いときに救われた者は、なんと幸いかということです。何故なら、たくさんの奉仕を担うことができるからです。

ある人は、言うのです。「死ぬ前に教会にお世話になります。天国だけは行きたいのです。」しかし、そのような人は、おそらく、信じること、真実に神に救われることはできないでしょう。信仰を、自分勝手にできると思う人こそ、神への冒涜になるからです。

わたしは、こんなことを想像します。もしも、朝から一生懸命に働いていた人たちが、最後にやってきた人に、一デナリオン、支払われたことが知らされなかったとしたら、どうだったのでしょうか。おそらく、「今日も暑かったなぁ。でも、一日、一生懸命仕事ができたし、お金もきちんともらうことができた。うれしいな。さあ、家族が待っている家に帰って、皆でご飯を食べよう。」そんな風に、喜んで家に戻って行ったと思います。あるいは、もしも、彼らが、比べることをしなければ、どうだったでしょうか。同じように、自分に与えられた一デナリオンの報酬を喜びつつ、家に帰ったのだと思います。それなら、どうしたら、よかったのでしょう。答えは、明らかです。比べなければよかったのです。

いったい、神は公平なお方なのでしょうか。それとも、不公平なお方なのでしょうか。そこがポイントです。

主イエス・キリストの父なる神は、死の間際に救われても、同じ天国の栄光に迎え入れて下さるお方なのです。神が、それを欲しておられるのです。そうであれば、神の憐れみの御心を留めることは、できません。これは、神の領域です。神の主権にかかわる事柄です。人間が神さまに、公平、不公平の判断基準を指図してみせることはできません。神の公平のふるまいを、不公平となじることはできません。むしろ、これこそが、神の公平なのです。正義なのです。

神は、常に、弱い者、小さな者、悲しくうずくまる者にこそ御眼を注がれるのです。それこそが、神の気前の良さなのです。これが、神の愛であり、神のお心なのです。

私どもは、罪人です。もしも、神が気前良く、私どもにふるまって下さらなければ、どうなっていたのでしょうか。救われることはできなかったはずです。私どもこそ、このような神の憐れみ、恵みの気前良さがなければ、教会に来ることができなかったはずです。そのように読むこと以外に、この譬えを正しく読んだことにはなりません。ですから、文句を言うどころか、共に喜ぶしかないはずです

主イエスは、この譬えをもって、告発します。この世の考える公平、この世が主張する公平こそ、実は、不公平であること、不公平になって行くことを、は告発します。そして、このような言わば神の不公平こそ、地上にあっては、まことの公平だと訴えるのです。

今、被災地では、被災されている方とそうでない方との差が、いよいよ開いてまいりました。いったい、神の眼差しは、すべてを流されてしまった被災者にこそ、注がれていることを信じることは、悪いことなのでしょうか。

私どもは、年末に洗礼を受けられた方をはじめ、既に今、神のぶどう園で、思いっきり働けることの喜びを味わっています。味わい始めておられることと思います。今朝は、聖餐の食卓を祝いませんが、ぶどうの実り、つまり神と共に、神のために働く喜びを味わっています。そのようにして、ここに聖餐の食卓を囲む、神の教会を形成する奉仕に励んでいます。私どもが教会に通うのは、教会形成の奉仕に生きるためです。神の御国を前進させる聖なる労働、すばらしい労働へと招かれているのです。なんと幸いで、光栄なことでしょうか。

祈祷

主イエス・キリストの父なる御神、私どもはそれぞれの時期に、あなたに捜しだされました。名前を呼ばれ、あなたの教会で奉仕に生きるようにと招かれました。今、礼拝式を捧げる最高、最大の奉仕にあずかっています。何という光栄でしょうか。喜びでしょうか。御名を心から崇めます。感謝いたします。どうぞ、何のいさおしもなく、ただあなたの完全なる恵み、気前の良さの故に、救われたことを覚え、私どももまた気前よく、あなたに従い、捧げて行くことができますように。アーメン。