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目を開けていただこう

「目を開けていただこう」  

                   

2012年2月12日             
マタイによる福音書 第20章29節~33節

 「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」

最近、しばしば語っているかもしれないことですが、先週の祈祷会でも、同じことを申し上げました。聖書を読むということは、実に危険なことだということです。聖書の危険性とは、この世の考え方、常識を根本から突き崩すことにあります。本当に聖書を読んで理解したら、この世の価値観は転換されてしまうことになってしまうのです。価値の転倒が起こるのです。聖書を読むと心が安らぐということは、本当のことです。しかし、同時に、聖書を読むと不安になるということも、本当のことです。本当のことのはずです。その不安こそが、大切なのだと言いたいのです。自分の生き方、考え方は間違っていたのではないか。世間では、通用して、褒めてすらもらえる。うらやまれることすらある。しかし、神の前では、通用しない。そのようなことに満ち溢れているのです。

たとえば、金持ちの青年の物語はその典型であったかと思います。世間では非の打ちどころのない、立派な大人、子どもたちに、将来、あんな人になりなさいと、模範にされている能力優秀で、しかも品行方正な人です。しかし、その彼は、主イエスの前を悲しみながら立ち去って行くのです。弟子にならずに、弟子になれずに、去るのです。主イエスから離れるのです。これは、その時点では、まさに決定的なことです。

聖書は、この世界を変革させる書物なのです。神の御言葉こそ、この世に天国を打ち立てるための最大の武器、道具、方法なのです。ですから、聖書が真実に説き明かされるなら、そして、それを聴くことができる人が起こされれば、そこには、キリストの教会が形成されます。神の国が力強く出現します。

さて、聖書は、危険な書物であるということには、もう一つの理由、意味もあります。それは、私ども自身の問題のことです。つまり、キリスト者は、聖書を毎日、それこそ友としながら歩みます。何年か過ぎれば、繰り返し読むことも起こります。教会生活をしていれば、たとえば聖書日課のリジョイスを用いるなら、特に、有名、重要な個所になれば、何度も読むことになるはずです。ところが、うっかりすると、「ああ、その御言葉は、知っている。分かっている。こういうことでしょう・・・。」と思ってしまうのです。

ちょうど、朝の祈り会の折、いつものように洗礼入会者との学び会をいたしました。学びを終えた会話のときに、このようなお話が出ました。「聖書は毎日、一生懸命に読んでいるのですが、本当に難しいところがありますね。」まったくその通りです。はっきりと覚えていませんが、私は、このようなことを申しました。「今は、ひたすら聖書を通読されたらよいです。そして、今、分からないからこそ、聖書を一所懸命読まれる。とても、すばらしいことです。しかし、大切なことは、5年後、10年後も同じように、読み続けることです。実は、キリスト者は、うっかりするとその頃には、一応のことは分かるというように、思ってしまいやすいからです。その時こそ、危険です。わたしは、主イエスを信じて30年経った今でも、主イエスのことを思えば、ドキドキします。愛とはそのようなものだと思います。主イエスご自身のすばらしさは、分かっていても分かっていなかったような新鮮さ、いつも驚きが与えられます。知っていたはずなのに、今始めて知るかのような新鮮な驚きがあるのです。だから、死ぬまで、教会生活は、聖書を読む生活は終わらないのです。ここで、キリスト者の幸い、キリスト教信仰の実力、真理、本物さがあります。」

その意味で、今朝与えられたテキストは、うっかりするとそれこそ、ぱっと読み飛ばされてしまいかねない小さな物語だと思います。何故なら、盲人の癒しの物語は、これまでに出て来たからです。第9章です。そこでも二人の盲人が、主イエスにむかって、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんで下さい」と願って、主イエスに触れて頂いて、目が見えるようになった物語があります。そこで、丁寧に説教をしました。ここでも、ほとんど同じ事が書いてあると言えば、言えなくもありません。そうなると、ここからは、特に新しい何かを学ぶこともないだろう、小さなエピソードだと読み飛ばされる危険性があると思います。私どもは、しっかりとここから学びたい、神の御心を聴き取りたいと思います。

さて、今朝、登場する二人は、先週登場した二人とまさに対になっています。「主よ、ただ憐れんで下さい、目を開けて下さい」と願った二人と、主イエスに、「あなたの右と左の立場に立たせて下さい」とひれ伏した二人の弟子たちです。コントラストが鮮やかです。二人の弟子たちは、王座より一段下ではありますが、まさに権力の座、その中枢に就く予定の者たちです。既に今、主イエスの12人の弟子として選ばれ、寝食を共にしながら訓練を受けるという特権にあずかっています。一方、この二人の盲人の居場所はどこであったのでしょうか。それは、道端です。地上における地位、場所としては、最低です。道端というのは、本当は、人間が生活すべき場所ではないはずです。

しかし、今朝の物語の結論は、ヤコブとヨハネだけが、王となられるイエス、主イエス・キリストの後に従う光栄にあずかるのではなく、この二人もまた、主イエスに従う者とされたというのです。

したがって、今朝の物語をきちんと読むためには、先週のおさらいをどうしてもしておきたいのです。

ゼベダイの子の兄弟たち、二人の弟子たちは、主イエスが、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と尋ねられたとき、「できます」と即答しました。主イエスご自身が、「あなたがたは分かっていない」と語られたのです。これは、大変重みのある言葉のはずです。さらに、あなたがたには、杯を飲むことができるのか、飲めないはずだと語られたのです。これに対して、「できます」と答えるのです。確かに、弟子たちにとって、主イエスにはっきりと自分が願っていることの意味が分かっていないのだと指摘されたとき、戸惑ったと思います。自分が願っていることなのです。つまり、自分じしんのことです。だったら、たといそれが主イエスであっても、少なくとも自分のことなのだから、分かるはず、分かって当たり前だと思ったのでしょうか。しかし、主イエスは、主でいらっしゃいます。神です。少なくとも彼らの先生であり、主と認めていたはずです。主イエスは、彼らの心の底、口に出る前の思いさえも見分けることがお出来になるはずに決まっているのです。それにもかかわらず、「分かっています。できます」などと応答することは、許されるのでしょうか。
キリスト者であろうがなかろうが、人として、とても大切なことの一つにこう言うことがあるだろうと思うのです。「知ったかぶりをしない」ということです。分かっていないことに対しては、分かっていませんと、率直に、認め、それを教えて頂くこと、これが人が健やかに成長して行く上でとても大切な姿勢だと思います。

そうであれば、主イエスに、「分かっていない」と断言されたなら、彼らは、どうすればよかったのでしょうか。単純なことです。素直に、こう質問すればよいはずです。「イエスさま、自分じしんが願っていることの意味が分かっていないと仰る、その意味が分かりません。どうぞ、お教え下さい。」こう言えば良いのではないでしょうか。

「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と尋ねられたなら、「できます」などと、本当は力んで応える必要などなかったのです。むしろ、「イエスさま、今あなたがおっしゃった意味がよく分かりません。よく分からないので、もう一度、お教え下さい」こう、お願いすべきであったのだと思います。そして、主イエスは、それをお望みになられたハズです。

私どもは、どれほど、この間違いを繰り返すのかと思うのです。そこでも、邪魔になるのが、間違ったプライドです。弟子たちに見えているのが、面子にこだわる姿です。自分たちには分かりませんが、他人には分かってしまうのです。そのようなこと、私ども自身の課題ではないでしょうか。

先週の夜の祈祷会の折、洗礼入会志願者との学びを行いました。そこで、このようなことを学びました。私たちは神さまの前に、無能力者なのだということです。つまり、自分じしんの人間的な能力で、神さまについて、何も知ることはできないということです。自分の能力で、主イエスを信じることはできません。もっとはっきりと申しましょう。自分の能力で、主イエスを信じていないということも分かりません。自分が罪人であるということも分かりません。罪そのものが分かりません。聖書は言います。人間は、救いについて、まったく何一つも、自分の力で太刀打ちできない、無能力だということです。つまり、ただ、神さまからして頂く以外にない、救って頂く以外にないということです。私どもは、神の前に、完全に堕落している存在でしかないのです。聖書は言います。だからこそ、神の恵みによってのみ救われるのです。救って頂くのです。

さて、そうすると、二人の弟子たちは、主イエスに向かって、率直に、「分かりません」と申し上げることこそ、もっともふさわしいことのはずです。そして、こう続かなければなりません。「分からせて下さい。教えて下さい。」

そして、ここで、「分かる」ということがどれほど重要なことであるのかも分かるだろうと思います。聖書が分かる。つまり、神の言葉が分かる。これは、まさに、人の生死にかかわることです。永遠にかかわることです。その意味で、これ以上に大切なことなど、この世にないと言ってもよいくらいです。

マタイによる福音書第13章51節以下にこのような主イエスと弟子たちとの対話が記されています。*「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」*これは、主イエスが種蒔きの譬えの結びにおいて語られた御言葉です。天国の教えを学んで、そして分かった人は、学者なのだと宣言されました。

「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」とおっしゃいます。自分の倉に納めているものが、新しいものなのか、古いものなのか、誰が分かるのでしょうか。それは、主人だから分かるのです。確かにこの御言葉の解釈は簡単ではありません。ただ、ここでの問題は、何が新しく、何が古いのか、つまり、時間が問題とされていることは分かります。天国の真理を知ったキリスト者、天国の祝福に生かされている学者とされた私どもにとって、まず、時間の問題が明確にされたということです。時間についての学者、専門家とされたのです。天国の学者ですから、神学者と言ってもよいでしょう。職業上の学者ではありませんが、キリスト者はみな神学者とされる、されるべきなのです。

 神学者にとって、絶対的に必要な知識は、この世界には、神がいらっしゃること、しかも、世界を創造された神を個人的に知っているということです。そして、この神は永遠のお方、無限のお方でいらっしゃると知っているということです。それが分かっている人には、聖書が告げているように、この地上には始まりがありそして終わりがあることを、わきまえているということです。世の終わりについては、マタイによる福音書は、これから集中的に取り扱います。

聖書から学んだ人々は、私どもの人生は死んで終わらない、死の時こそ、すばらしい祝福、永遠の世界、天の故郷、天にある御国に移される日なのだと知っているのです。それなら、このことを知ると、どんな利益が私どもに与えられるのでしょうか。まさに、新しいものと古いものとを取り出せるようになるのです。識別するということです。どういうことでしょうか。自分がしている事は、永遠の価値を持つものか、永遠と結ばれているのかということが分かってくるのです。そのとき、自分が今していることに、まさに力が入ると思います。

この世界は、無限に続くのではありません。目に見える世界は、目に見えない永遠の存在、神さまによって創造されました。そのことを知っている私どもは、この世界だけがすべてだとか、目に見えるものだけが人間のすべてだとか言うでたらめ、惑わしに、そそのかされなくなります。「そうではない、この人生、死んだ後こそ、絶対的に大切なのだ」と主張するのです。そしてだからこそ、今を真剣に、今を熱く、全力を注いで生きることができるのです。しかも、その全力を注ぐ方向性を、間違わないようにさせられているのです。この地上だけでしか通用しない古いものを二の次にし、新しいものつまり、永遠に価値のあるものを第一にすることです。そのように永遠の価値とこの世の富や誇りや価値を識別、区別、判別するのです。

それが、天国が分かった人の特権です。天国が分かった人だけが、本当の意味で、自分の人生の主人になれます。自分の主人となれます。自分の人生を他人、つまりこの世の悪の支配の奴隷にさせられ、流されて生きるのではなく、言わば主体的に生きることが可能となるのです。

反対に、天国のことが分からないと、どうなるのでしょうか。エフェソの信徒への手紙第4章にこうあります。*「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」*のです。そして、神の御言葉の真理、教理を学び続ける人は、どうなるのでしょうか。御言葉は、こう続きます。*「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」*天国にいらっしゃるキリストへと、キリストに向かって成長するのです。これが、天国の学者、神学者の幸いです。

今朝の物語に戻りましょう。本当に分かるために、神さまのことが分かるために、何が必要なのでしょうか。それこそ、「目が開かれる」に他なりません。 

おそらく、私どもの目が開かれると、この物語がここに置かれていることの特別の意味について、そのありがたさについても、分かってくるかもしれません。

主イエスは、ここでついに、世界史という時間の中で、また宇宙空間の中でも、空前絶後、ただ一度限りの最大の神秘的な出来事をなさろうとされています。これまでの主イエスのみわざと比べても、まさに、最大の特別の事業をなさるのです。そのような巨大な救いの出来事を実行するまさにそのとき、言わば、たった、二人のために、立ち止まられたということの意味、重さです。

主イエスが死に向かって突き進まれるその緊張感がみなぎっていたと思います。まわりの人々にも、特に弟子たちにも、分かっていたと思います。さらに、群衆たちもまた、主イエスについて来ています。今や、道端に座って物乞いをしている盲人二人にかまっていられないという、主イエスの進むべき道の妨げになってはならないというような興奮した状況にもあったと思います。ですから、群衆は、「うるさい」「私たちの王なるイエスさまの前をあけよ、お前たちの個人的な願いは後にしなさい。」黙らせようとしたわけです。しかし、ひとり主イエスは、立ち止まります。彼らの願いに耳を傾けられます。真剣な彼らの願いは、真剣に受け止められます。ここに、主イエス・キリストのこれまでのご自身の説教が、まさに、ご自身によって生きられるのです。つまり、99匹を野原に残しても、迷い出た一匹を探し求める羊飼いの姿が、ここに重なります。

群衆に遮られた二人は、どうしたのでしょうか。彼らは、なお、叫び、願うのです。「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい」と。ダビデの子よ。これは、救い主という意味です。主よ、私たちイスラエルの救い主よと呼ぶのです。何よりも、この二人は、「主よ、憐れんでください」と懇願します。

 私どももまた、毎週の主日礼拝式で、たった一回ですが、「主よ、憐れんで下さい」と唱えます。ラテン語で、「キリエ、エレイソン」と唱えます。この個所のギリシャ語では、「エレッソン、ヘーマス、キュリエ」と記されています。このギリシャ語から、キリエ・エレイソンという伝統的なキリスト教会の祈りの言葉、礼拝の言葉がつくられたのだと思われます。おそらく、地上で教会が礼拝をささげる限り、アーメン、ハレルヤ、そしてこのキリエつまり主、エレイソンつまり、憐れんで下さい、「主よ、憐れんで下さい」の祈りの言葉は不滅だと思います。これほど、私どもの礼拝式にふさわしい祈りの言葉があるだろうかと思うからです。人間が、最後のとき、神さまに願うことは、この願いに尽きるのではないでしょうか。本日、娘のお友達のお父さまの病床を訪ねます。わたしは面識がありませんが、しかし、末期の方です。人生の終わりのとき、もしも、「主よ、憐れんで下さい」と願うことができたら、どんなにすばらしいことでしょうか。そして、そのとき、そう願う以上の願いもないのではないか、そう思います。

 わたしどもは、毎週、十戒を唱えた後、キリエ、エレイソンと唱えます。それなら、そこで、毎週、私どもに何が起こるのでしょうか。それを、知らないままで、分からないままで、唱えるのは、あまりにももったいないことです。

何よりもここで注目したいのは、すでに何度も繰り返し学んでまいりました、御言葉です。イエスが「深く憐れんで」とあります。もう、皆さんは、ギリシャ語も覚えてしまわれたかもしれません。スプランクニゾマイです。はらわたがちぎれるような激しい痛みを伴う感情、もう、こらえ切れない激しい感情が爆発するのです。そして、それは、主イエスの御手がのばされて、触らざるを得ないのです。主イエスであれば、言葉だけで、癒すことなど何の障害にもなりません。しかし、主イエスは、ここで触れられます。触れるのです。そのようにしてあげたかったからでしょう。彼らに、触れるということは、愛です。

 「主よ、憐れんで下さい」と祈るとき、この歎願を真実に唱えるとき、スプランクニゾマイのイエス、思いをはるかに越えた仕方で憐れみの神に恵みを注がれ、願い求めた以上のものが与えられるのです。神の憐れに触れていただけるのです。

最後に、主イエスは、彼らに「何をしてほしいのか」と尋ねられます。二人は応えます。「主よ、目を開けてほしいのです。」さて、これを、ただうわべのこととして読んではならないと思います。盲人の方であれば、肉眼が開かれ、視力を取り戻すことができたら、どれほど、嬉しいことかと思います。だから、目を開けて欲しいと願った。その理解だけでは、表面的だと思います。むしろ、ここで、彼らが深く願ったことは、主イエスを、ダビデの子を見たかったのです。しかも、これは、単に肉眼で見ること以上のことです。信仰の目です。信仰の目が開かれることが願いなのです。それは読み込みだと言う人もいるかもしれません。しかし、彼らは、すぐ見えるようになって、何をしたのかと申しますと、マタイによる福音書はこう結びます。「イエスに従った」この人は、弟子となったのです。「治して下さってありがとうございます。さようなら」ではありません。主に従ったのです。従えたのは、主イエスが誰であるか「分かった」ということでしょう。彼らはまさに信仰の眼が開かれたのです。

さて、今朝、この物語を私どもが読むとき、改めて、心すべきこととは何でしょうか。分かったふりをしないこと。知ったかぶりをしないことです。私どもは、主イエスに目を開いて頂かない限り、誰も、見えません。主イエスが見えないのです。神が見えません。つまり、分かりません。つまり、信じられないのです。分からないのに、分かったふりをすること、それは致命的です。神の目にもっとも愚かなことであり、罪です。

そして、それを今ここで、分からせて下さるお方こそ、聖霊なる神です。私どもの霊的な目、信仰の目を開いて下さるのは、ただ聖霊のみわざなのです。私どもが知ったかぶりをやめることができるのもまた、聖霊のお働きを受けるからです。そうであれば、今朝の主イエスの呼び掛けは、単純でしょう。この説教の結びは、いつものように単純でしょう。そして、説教はつねに、祈ってしか終われないこと、終わったことがないことは、信仰の歩みの長い人だけではなく、短い方もお分かりだと思います。

なぜ、説教は、祈りで終わるのですか。それは、聖霊を祈り求め、聖霊によらなければ、神の御言葉に従うことができないからです。説教そのものもまた、聖霊の言葉なのです。ですから、祈りしかありません。この盲人のように、真剣に、真実に、深いため息をつきながら、叫びたいのです。

祈祷

「主よ、憐れんで下さい。私どもの、わたしじしんの信仰の目を開いて下さい。よく見えていないのに、見えていると、分かっているとつくろってしまうわたしを砕き、素直に、憐れみを願う者としてください。目を開けて下さいと祈れるように謙虚にしてください。熱心にしてください。目の前にある生活の課題を優先させてしまう、聖書が分からず、御心が分からないままでいることに甘んじる愚かさを悟らせて下さい。その愚かさを捨てさせて下さい。私どもの教会生活、礼拝式をいよいよ、真剣なものとならせてください。アーメン」