過去の投稿2012年2月24日

2月19日

―牧 会 通 信―

★ 先週、伝道所委員の提案を受け、「説教の分かち合い」の集会について協議がなされました。 【最大限12時30分、早く帰るグループは15分には終わることとしました。宜しくお願いします。】日本キリスト改革派教会の中で、珍しい集会かもしれません。しかし、中部中会では、少なくない教会がこれを実行しています。おそらく私どもが最も早く始めていたと思います。  
   問「み言葉の説教を聞く者に、何が求められているか」
答「み言葉の説教を聞く者に、次のことが求められている。すなわち、勤勉・準備・祈りもってそれに聞くこと、聞いた説教を聖書によって調べること、信仰・愛・柔和・心の備えをもって真理を神のみ言葉として受け入れること、それについてめい想し、語り合うこと、心にたくわえて、生活の中でその実を結ぶことである。」(ウェストミンスター大教理問答の問い160)
「語り合うこと」ここにこそ、説教の教会形成的な目標、意味が最もよく反映されています。説教は、教会を愛の手紙にすることだと、今年の元旦礼拝で学びました。説教は、教会を形成するための最大の手段です。つまり、個人主義的な行為ではありません。ウェストミンスター大教理問答が示した「語り合う」ことは、まさに、礼拝出席者の特権です。御言葉に生きる者のだいご味です。
何を語りあうのかは、記されていませんが、これまで、何度もお伝えしました。「恵み」の分かち合いです。自分が教えられた、示された神の言葉の恵みを分かち合うことです。そのようにして、キリスト者の交わりがもっともふさわしくなされて行くはずです。その指導は、委員が担います。
先週の洗礼入会志願者との学びの折、このように申しました。 「洗礼を受けた時から、【教会人】になります。学生が社会人になるのに似ているかもしれません。これまでは、説教は、自分自身【だけ】のために聞いていたはずです。それでまったく構いません。しかし、現住陪餐会員になってからは、変わります。教会を建てあげる一員、教会の一員として、【教会(共同体)のために聴く】ことになるからです。説教を自分の信仰のためだけに聞くとき、うっかりすると自分が説教をつくる一員であることを忘れます。説教が牧師だけの個人的奉仕のように誤解します。説教は、教会の作品です。説教を聴く会員は、最低、土曜日には説教者のために祈ります。(祈祷会では、必ず牧師のための祈りがささげられます。)それなしに、説教をより「ふさわしく」「深く」「正しく」聴くことができないからです。他教会の会員であれば、その日の説教や説教者のために祈らなくてもかまいません。どんな説教をするのか、説教にある「距離」をもって聴いてもまったくかまいません。しかし、現住陪餐会員が牧師の説教を聴くときには、それでは、不十分なのです。
教会人として礼拝の遅刻は、何故、だめなのか分かりますか。それは、自分じしんが「損する」からではないのです。主日礼拝式は、キリストを主と告白し、キリストの主権に服すことによって、この世に、キリストの教会(体)の輪郭を見せることです。現住陪餐会員がそこに集まらなければ、教会の体の輪郭が、きちんと描けません。キリストの体のために・・・・。」  
すべて、洗礼を受けた方全員に、語ってきた言葉のハズです。先週の説教、祈祷会の学びでも、確認しました。「神の言葉(聖書・説教)分かること以上に、大切なことはない。そして分かるとは、何か。それは、二人の盲人の信仰の眼が開かれたとき、【従った】とあるように、主イエスに服従すること。これは聖霊によらなければ、御言葉を理解できないし、理解していないことも理解できない・・・」前述の大教理問答の結びと同じことです。「生活の中でその実を結ぶこと」これが、聖書の信仰理解です。信仰とは、認識を生きることなのです。

★  二週続けて、リクエストのお便りを頂きました。私は、すぐに(他の奉仕を後回しにして!)、返信します(私信にチラシと読み物を添えて)。物資も、奉仕者を速やかに得て、お送りします。改めて感謝申し上げます!「隣人となる」奉仕へと呼びだされている私どもの幸いと責任を思います。先週、集会室を利用できることがほぼ確定しました。いよいよ、3月の現地ディアコニアの内容他を整えることができます。初めての参加者もいます。本日のディアコニア委員会(全会員の委員)も楽しみです。

☆  愛知県立芸術大学の学生(音楽専攻)より、参加希望者が起こされました。5月に伺った時、未信者の方のピアノ演奏(即興)を聴きました。癒されていた皆さまの様子が忘れられません・・・。