2012年3月4日
テキスト ルカによる福音書第10章25-37節
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
本日は、いつものマタイによる福音書講解説教を中断します。そして、来週もまた、3月11日を覚えて礼拝を捧げるために同じように中断することと致しました。
昨年の東日本大震災を機に、私どもはディアコニア支援室を設けました。今朝、読みましたテキストは、震災の翌週の主の日に語られた個所です。私どもは、「行って、あなたも同じようにしなさい。」との主イエスの招き、ご命令を、聴いたのでした。そして、1年が経とうとしています。私どもは、この主の御言葉にどのように応答することができたのでしょうか。最初に、率直に申します。もしも、「自分たちは震災ディアコニアをよく担っている。少なくとも他の教会と比べたらそうしているはずだ。」そのように安易に考えることは、大変危険なことだと思っています。もとより、私どもがそのように考えているということでは、決してありません。
さて、この有名な「善きサマリア人のたとえ」を読み解くためには、先ず、この譬えが語られた背景を押さえておかなければなりません。「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。」とあります。律法の専門家とは、聖書の学者のことです。信仰の教師、指導者です。掟を守ることに関して、非の打ちどころのない人々です。そのような学者の目に、イエスさまはどのように映ったのでしょうか。問題はそこです。
彼らから見えるイエスとは、正規の律法の教育を受けていない、ただの田舎者です。たしかに神について熱心ではあるらしいし、力ある業も行っている。しかし、肝心の聖書に対する深い、そして正確な知識はどうなのか。まさに、そこが疑われ、そこが問題視されたのです。ですから、試そうとするわけです。試問するのです。完全に、上から目線です。
彼はこう言います。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」先ず、ここで言えることは、「さすが」、ということです。彼らは、「永遠の命を受け継ぐこと」つまり、聖書の太い流れ、その主題を救いとして把握しています。さすがです。
ところが、律法学者は、主イエスから、「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と言い返されたとき、たじろぎます。彼は、こう思ったのです。「たしかに、自分は、ちゃんと分かっている。毎日、会堂で人に講義している。しかし、実際に、自分じしんがきちんとそれを守り、行っているだろうか」彼は、心に不安がわいたと思います。
そのとき、彼は、このような質問を仕返します。ただし、ルカによる福音書は、まるで著者自身が、身を乗り出し、顔を出すかのように、この学者の発言のことを、「自分を正当化しようとして」言ったのだと、つまり自己正当化に過ぎないと厳しく批判するのです。
律法学者は今、ことが、聖書に関する一般論、単なる知識を問うのではなく、自分じしんを問題とされていることに、たじろぐのです。そこで、ふりかかる火の粉をはらうかのようにして言い逃れをします。とぼけるのです。「先生、実行するのは、かまいません。そもそも、わたしは、神を徹底的に愛し、従っている信仰者です。そして、隣人をも愛していやまない人間です。しかし、問題は、わたしの隣人とは誰なのか、それが、はっきりしていないのです。わたしの隣人とは誰と誰なのでしょうか。」
よく考えてみますと、この返答は、不真面目な質問だと思います。不誠実な問いです。そもそも、そのような質問は、他の誰かに尋ねるべきものではないはずです。自分の問題なのです。「わたしの隣人。わたしの隣人とは誰なのか。」そのようなことは、自分で判断すべきことでしょう。自分で、わきまえるべきことでしょう。それを、主イエスに尋ねるのは、まさに自己弁護でしかありません。
そしてこの、自己正当化こそ、自己弁護こそ、神の御前に最大の、最悪の罪と言ってもよいのです。神さまの御前に、赦しを乞わない態度です。どこまでも、赦される必要を認めず、誰かの責任にするわけです。責任転嫁と言ってもよいのです。それが、私どもの罪です。自分のメンツを、第一にしたいのです。
さて、この律法学者の問題、彼の究極の問題は、どこにあるのでしょうか。今、自己正当化と申しました。自己弁護とも申しました。その通りです。そしてそれは、つまるところ、第一の掟の問題に行きあたるはずです。つまり、神を愛するというまさに第一のことが、そここそが問われているのです。何故なら、そこにこそ、究極の問題があるのです。つまり、神を神として愛さない。神の栄光のために、神に従おうとしない。素朴に申しますと、神を神としないという問題にこそ、罪の行いの根源があるからです。
それは、先週のエルサレム神殿の偽りの礼拝を破壊し、克服させる主イエスの御心とまったく同じです。安息日を守り、過ぎ越し祭を守るイスラエルのまことに敬虔な人々、宗教深い人々の、しかし、奥に隠し持たれていた自己中心の問題です。つまり、神を第一にするのではなく、神を第一にしているという自分を第一にする問題です。素朴に申しますと、偶像礼拝の問題に他なりません。キリスト教の偶像礼拝とは、イエスさまや父なる神さまを自分の宗教的要求に従わせる、自分の願いを第一にするという問題です。
さて、わたしは、このようなことを想像いたします。もしこの律法学者と自分じしんが向き合わなければならなくなったとすると、どうするだろうかと言うことです。「もう、こんな屁理屈を言う人間は、話しにならない。時間の無駄だ。」この人との会話を、打ち切ってしまうのではないかと思うのです。
そもそも、真理についての議論をするためには、前提があります。もしも、真理を認識できたとしたら、喜んで自分の意見を訂正する意思が求められているはずです。つまり、真理への愛です。柔らかな心です。相手が、自己正当化を図って、議論をこねくり回すだけであることが分かれば、我々は、そうそう時間をもてあましているわけではありませんから、議論を打ち切ってしまうかもしれません。
大学での経験ですが、残念ながら、このような学生さんがいます。それは、「キリスト教は、世界史をみれば、戦争をしてきたではないか。現代世界をみれば、宗教こそ、戦争、紛争の種になっているのではないか。自分は、そのような宗教に深く関わりたくはない。」最初に抱いたその考えを、最後まで貫こうとするのです。言わば、いつも、そこにたてこもって、キリスト教そのもの、宗教そのものを否定しようとするのです。自分には、拒否する正当な理由を持っていると考えるのです。そして、おそらくは、それは、キリスト教がどうこうということでは済まないのです。人間としての豊かさ、本当の教養を身につけられないのではないかと思います。
教師の立場なら、困難と言ってもまだまだ、問題は簡単だと思います。しかし、私どもの日常の生活のなかで、このような人と出会ったらいかがでしょうか。もしかすると、自分が傷つくのを恐れて、早々と対話をあきらめてしまうかもしれません。「言っても分からない。だったら、時間の無駄。」関わることを避けて、通り過ぎるかもしれません。
さて、それなら主イエスは、どのようになさるのでしょうか。それが、この物語なのです。実に、主イエスは、この律法学者のために、大切な時間をお割きになられるのです。エルサレムに入城する直前の、まさに緊張感あふれるそのとき、あの二人の盲人の目を癒されたイエスさまは、この律法学者のためにも真実に接し、真剣に向き合ってくださるのです。つまり、もう既に、この物語の結論のメッセージを語ることになります。主イエスこそは、まさに、この傲慢な、この自称知恵ある者、賢い者の善い隣人となられたのです。そうです。主イエスは、この律法学者の善き隣人となられるためにこそ、この善きサマリア人のたとえを語られるのです。
譬えをみてまいりましょう。ある人が追いはぎに襲われました。追いはぎは、その人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去りました。このままでは、イスラエルの気候からすれば、夜になれば、気温もぐっと下がって、ほとんど死ぬ以外にはないのです。
そこに最初に通りがかったのは、祭司でした。彼は、見て見ぬふりをして、通り過ぎました。
次に、レビ人が通りかかりました。レビ人は、いわば、聖職者、祭司の予備軍です。ところが、彼がとった行動は、祭司とまったく同じでした。
次に、サマリア人が通りかかりました。ところがこのサマリア人は、祭司やレビ人とまったく違いました。「*憐れに思い*」近寄るのです。この言葉のもともとの意味を直訳すれば、「はらわたが痛む」となります。実際、憐れむ、かわいそうに思う、不憫に思うという感情が、深いものであれば、内臓が痛みます。いへ、肉体ばかりか、心にも大きなストレスが襲います。病んでしまうほどの激しい感情なのだと思います。それがギリシャ語の「憐れに思う」という言葉の持つ意味なのです。
さて、このサマリア人は今、この倒れている人を、その全存在を震わせるようにしてかわいそうに思ったのです。そして彼は、倒れている人に近寄ります。そして、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をします。オリーブ油とぶどう酒、それらは、食用のものですが、同時に、今日の薬でもありました。言わば救急箱を持っていたようです。まるで看護師のような手際よさです。そして自分のろばに乗せて、宿屋に連れて行き、介抱します。一緒に泊まるわけです。
ただし、このサマリア人は、次の日は、自分の旅を続けます。つまり、彼にもまた、大切な仕事、用事があるのは明らかです。そこで、彼は、宿屋の主人に、お金を渡します。デナリオン銀貨二枚です。今日で言えば、およそ二万円です。それによってこの瀕死の重傷を負った彼は、少なくとももう一泊は、宿を得ることができます。しかも、介抱つきです。わたしは、ここで、善きサマリア人は、この人との間に、ある一つの線を引いたことに注目してよいと思います。
彼は、確かに自分でも介抱します。しかし、お金で、この人を支援することも同時に行います。つまり、ある距離を保てているわけです。今朝は、それが主題ではありませんから、簡単に触れるだけにしておきます。これは、主イエスが示されたキリスト者に対するディアコニアの在り方のモデルなのです。
ただし、丁寧に見ましょう。彼は、お金で解決できるなどとは、考えていません。彼は、必ず、戻ってくるはずです。「帰りがけに払います。」そう、約束します。つまり、この人と、かかわり続けようとするのです。ある一定のところまでは、おそらくは、自分で歩けるまでと想像します。ここに、私どものモデルを見ることができるはずです。
さて、主イエスは、最後に、律法学者に尋ねるのです。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」誰が隣人になったのか。これは実に鋭い問いです。律法の専門家の問いを問いかえすものです。「私の隣人とは誰か。」という問いは、言わば立ち止まった問いです。自分はでーんと座り込んでいるのです。しかし、主イエスは、仰せになられました。「自分の隣人は誰か」ではなく、「隣人になる」ことへと、この学者を実践へと導かれるのです。専門家は、言いました。「その人を助けた人です。」まったくその通りです。そして主は、厳かに仰せになられます。「*行って、あなたも同じようにしなさい。*」つまり、「あなたも隣人となれ」と命じられました。
この人のその後は記されていません。やりとりは続いたのか。これで終わったのか。終わったのであれば、彼は目覚めて、喜んで帰っていったのか。それとも、反発して帰っていったのか。実は、分かりません。
しかし何よりもここで、私どもに分かったことがあるはずです。悟るべきことがあるはずです。実に、このたとえの中に登場したサマリア人とは、他ならない主イエス御自身の譬えであるということであります。そして、私どもこそ、この律法学者であり、祭司であり、レビ人だということです。
私どもは、かつて、自分の罪のために死んでいた人間でした。霊的には、神との交わりを失ったままでした。つまり、肉体的には生きていましたが、神さまとの関わりにおいては、断絶していたのです。それを、霊的な死と言います。本当の人間のいのちとは、他ならないいのちの源であられる主イエス、神との交わりを受けることです。神との交わりのなかでこそ、人間は本当の人間になるのです。主イエス・キリストとの交わり、主イエス・キリストとの正しい関わりの中でこそ、人は人になるのです。自分が本当の自分と出会うことができるのです。本来の自分が始まって行くのです。本当の自分が実って行くのです。
私どもはかつて、まさに死んでいました。そのまま放置されていれば、遂には、永遠に滅びるしかなかった者たちでした。ところが、主は、私どもの人生に関わってくださったのです。私どもの旅路に、近寄ってくださったのです。そして、憐れんでくださいました。それは、痛みを伴った激しいものであったのです。そのようにして、このわたしのまことの隣人となられたのです。わたしにとって隣人となってくださったのはこのイエスさまです。あなたの隣人になられたのは、このイエスさまです。
昨晩、ある方の病床をお訪ねしました。そこでもベッドのもっとも近く、傍らに、隣人となってくださる主イエスの御業を祈りました。
主イエスは、律法学者に愛を込めてこうお命じになられました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」そして、この御言葉は、語られた主イエス御自身が今まさに、ここで、この律法学者に対して実行しておられるのです。今まさに、この律法学者のよいサマリア人になられたのです。しかし、ユダヤ人の聖書学者たる彼は、サマリア人を嫌ったかもしれません。軽蔑したのかもしれません。しかし、彼は本当は、そこでこそ、自分の心を開くべきでした。自己正当化をやめるべきだったのです。
主イエスは、この自己弁護の塊、自己正当化を押し通す律法学者に対しても、憐れんで下さったのです。はらわたを痛むほど、愛しておられるのです。確かに厳しく戦われます。厳しい批判がなされました。この立派な大人、指導者としてうぬぼれて、神の前に、悲惨な状態の彼を、神の前で、幼子のようにさせるための愛の戦いをしておられるのです。隣人となっておられるのです。そのようにして、彼をも救うためです。永遠のいのちを与えるためです。
そうであれば、私どもはすぐに思います。このサマリア人が示した憐れみの心とは、その痛みとは十字架の痛みであったこと、十字架の御苦しみと痛みをたとえているということです。まさに、主イエス・キリストこそは、ひとりの律法学者のような、祭司のような、レビ人のような私どもの善い隣人となって、私どもの身代わりに十字架の上で死んでくださったのです。そのようにして、私どもに永遠の命を分かち与えてくださったのです。
今や、私どもは、この主の憐れみ、神の憐れみを受け、主の憐れみを信じ、すがることによって、救っていただいたのです。神の憐れみとは、精神論や感情だけの次元ではなく、行いを伴うものなのです。
確かに、この物語、このたとえ話は、教会の奉仕、ディアコニアの手引きを指し示す意味があります。しかし、何よりも大切なことは、主イエス・キリストのご存在と目的を明らかに指し示す譬え話であるということです。そこで、何よりも大切なことを悟ることができるはずです。今まさに、ここにいる私どもこそ、「善きサマリア人」である主イエス・キリストのお世話を受けていること、憐れみにあずかっている、もてなしに豊かにあずかっている事実についてです。
私どもの教会のディアコニア、奉仕は、すべてはここから始まるのです。私どもの隣人となって下さった主に対して、私どもも、隣人となるということです。神の隣人です。主イエスの隣人です。そしてそれは、同時に、まったく赤の他人と思われる人とも、隣人となることです。
今まさに、ここで、この礼拝式において主イエスは、私どもの隣人となり続けていて下さいます。今朝、説教の後、ただちに聖餐の礼典を祝います。主なるイエスさまが招いて下さる永遠のいのちの食卓です。主イエスによって、いのちのおもてなしを受けるのです。
主イエスは、今朝、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と私どもにも命じられます。それは、私どもが主イエスのもてなし、永遠のいのち、憐れみをしっかりと受けなさいという招きの言葉です。行って、隣人となるためには、わたしがあなたの隣人となっていることの恵みに満たされること、満たされ続けることがひつようなのだから、わたしの内に留まりなさいということです。
そしてまた、同時に、この命令は、まさに素朴な命令です。同じように隣人とならなければならないのです。それは、主イエスが、私どもが出来ることを信じておられるからです。「しなさい!」とは、「あなたは、できる!」という宣言なのです。「あなたには、できる。だからしなさい。」なのです。
どうして、それほどまでに、私どもを信じておられるのでしょうか。それは、「行きなさい」という命令の背後には、その根拠には、主イエス・キリストご自身が共に行くことを決意しておられるからです。私どもは、主の日の礼拝式の言わば最後のプログラムの位置に、毎週、同じ派遣の言葉を聴いて、出発しています。「安心して行きなさい」です。この主イエスの派遣の御言葉は、「一人ぼっちででも安心して行きなさい」ということではありません。わたしがいつもあなたと一緒にいるから、わたしが行くから、だから安心して共に行け」と言う意味です。
主イエスは、今朝改めて、「隣人となれ」と命じられます。そうすると、わたしと誰かとの垣根は、乗り越えて行かなければなりません。この律法学者とは、実は、主イエスを十字架へと追い詰めて行く側の人々に他なりません。つまり、キリストの敵となる人です。主イエスはその垣根を乗り越えられました。敵という境界線を飛び越えて行かれました。隣人となるということは、つまり、敵という垣根をも越えて行くことを、本来意味しているのです。愛すべき人の隣人となるということでは、ないのです。そもそも、サマリア人にとって、ユダヤ人こそは敵だったのです。
主イエスは、この律法学者のためにも、御自身のいのちを十字架の上に捧げられました。主イエスを見下し、批判し、攻撃し、殺してしまう学者のためにも、十字架についてくださったのです。ここに神の愛があります。これが、まことの愛なのです。
祈祷
私どもを憐れみ、私どもの隣人となってくださった主イエス・キリストよ、私どもを、自己正当化から自由にしてください。あなたからの愛に満たされ、あなたを愛し、隣人を自分のように愛する自由へと解き放ってください。愛において貧しく、助ける業においてまことに拙い者です。しかし、あなたはできるからしなさいと信じて、命じて下さいました。どうそ、私どもを、あなたの憐れみの業の証人、神の愛の手紙として整え、用いてください。アーメン。