過去の投稿2012年3月13日

3月11日

―牧 会 通 信―

★  本日は、3:11を記念する特別の礼拝式として捧げます。そして、今週の牧会通信は、実は、前もって、震災と震災ディアコニアについての事ごとを書いておりました。しかし、先週の月曜日、突然、○○姉のお母さまのご逝去、そして、ご葬儀へと導かれました。今回は、何よりも、このことについて通信を用いたいと思います。震災関連は、次主日にと思います。

☆  □□姉のご危篤の知らせを受けたのは、車の中でした。家内と共に、ある未信者の方のところに、週報をお届けするために出かけたところでした。月曜日は、中会や大会の委員会もありますが、遠いところに出向くことがなかったことも、まさに「摂理」であると思わされました。
   既に、ご親族が集まっておられました。その時のことは、ご葬儀の列席者には、説教でお話させていただきました通りです。(必要の方は、原稿を差し上げます。)○○姉が洗礼を受けられた時から、それを許された時から、すでに、教会での葬儀を希望しておられたこと。ご仏壇や神棚も整理なさっておられたこと・・・。

★  わたし自身、あらためて問われます。昨年は、「家族伝道に集中する」と、私どもの教会では、初めて、目標にかかげました。余りにも当たり前のこと、当たり前すぎることですから、教会としての年間目標として「伝道しよう」とか、「聖書を読もう」とか、「祈ろう」とか、当たり前のことを掲げることと、ほとんど同じことと考え、したことがありませんでした。しかし、このことによって、教会の中で、ある緊張があったことは確かですが、とても必要なことでした。しかし、やはり、このことは、まさに、昨年だけの標語ではなく、常に、第一の祈祷課題であり続けるべきことであると、思わされます。

☆  私どもは、今、主イエス・キリストの父なる神から、名前を呼ばれています。ギリシャ語で、教会を意味する「エクレーシア」とは、「招集された人々の集い」という意味です。元来、政治的会合の意味であったと言われます。それを、私どもの先輩は、教会の訳語として選びました。私どもを招集してくださるのは、神であり、私どもが神に呼び集められた民であることを、示すのです。日曜日を主の日と呼びます。旧約を見れば、「主の日」とは、何を意味するのか、お分かりいただけると思います。それは、神の審判のなされる日です。裁きの日をも、意味しています。私どもにとっての主の日、主日は、さらに、豊かな、大きな恵みの意味がありますが、しかし、審判の日であることは、その土台に据えられた理解です。そこで、神にお会いします。教会は、天国の先触れです。現れです。つまり、死後の審判を受ける前に、何としても、教会に招きたいということです!地上にある限り、恵みの日、救いの日です。少なくとも、今の私どもに、死んだ後における、「信仰の機会」はあり得ません。だから、急ぎましょう。さらに、「信じて」祈りましょう。おそらくは、誰よりも、○○姉じしんが、恵みの内に、強く示された神の御心でしょう。

★  葬儀は、突然です。いささか、慌てました。教会堂での葬儀は、久しぶりです。教会としての執事的課題がいくつもあります・・・。もし、家内がいなければ・・・、大変だったと思います。牧師じしんは、「葬儀」の統括は、本来できません。諸式の責任に集中すべきはずです。僧侶とは、オソラク比較にならないほど、大変と思います。
いわゆる「葬儀ノート」(もとより、今回は、現住陪餐会員の葬儀ではありませんから、該当しません。)の未提出の方もいらっしゃるかと思います・・・。わたし自身も!です。

☆  □□姉妹、このように記すことも許されると思います。葬儀の打ち合わせの折、会葬者を80名と見積もりました。しかし、前夜式には、100名をはるかに越え、さらに葬儀式には、120名ほどであったとのことです。のべ、200名の未信者の方々が説教を聴いて下さいました。二つの説教とも当然、この葬儀のために準備したものです。葬儀は、神礼拝であり、第一に、ご遺体の葬り、第二に、遺族の慰め、第三に、故人とのお別れ、最後に、なお生かされている者たちへの死への備えのためでもあります。そこに、伝道説教の役割があります。故人は、最後のとき、私どもができない、していない・・・、大勢のお友達を福音の言葉へ、神の言葉と礼拝へ、教会へと導いて下さったわけです。証と伝道がなされたのです。地上に生かされている私どもは、いよいよ、伝道の務め、隣人への証に励みたいと思います。