過去の投稿2012年3月13日

神の業が現れるために -神の前に大震災を問う-

「神の業が現れるために
       -神の前に大震災を問う-」

2012年3月11日 伝道月間説教
聖書朗読 ヨハネによる福音書 第9章1-12節

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」

今朝は、3月11日、大震災からまさに一年が経ちました。先週に引き続きまして、マタイによる福音書の講解説教を中断して、この特別の日を巡って、今朝、与えられた御言葉から思いをめぐらし、神の御心をしっかりと把握したいと願います。

今朝、私どもは牧会祈祷で祈った通り、被災地と被災者の方々への執り成しの祈りに先立って、私どもの罪を懺悔する祈り、悔い改めの祈り、赦しを求める祈りに集中いたしました。本日は、礼拝式の後、特別に、被災者の方々のための執り成しの祈りを捧げます。しかし、礼拝式では、私ども自身の悔い改めを優先しなければ、被災地の方々のための真実の執り成しとはなりえないはずです。

3:11のこの日がちょうど、主の日であることに、私は粛然たる思いを持ちます。主がなお赦してくださるなら、新しい教会の姿、御言葉によって新しく改革された教会の姿を、教会の主の御前に、明らかにし、この国の中で再生されたい、形成されたいと願います。

さて、今朝の説教準備のために祈っていたときに、昨年3月の週報を読み返してみました。このような記事がありました。おそらくは朝の祈祷会なのだと思いますが、会員のご家族から、「神がいるなら、何故、このようなひどい災害を放っておかれるのか。と尋ねられましたが、何と答えたらよいのでしょうか」と、尋ねられたと記されています。

実は、わたし自身は、このような議論には、ほとんど興味がありませんでした。ただし、そのような問いが発せられたので、何をどのように、お答えしたのか、はっきりとは思い出せません。しかし、確実なことは、はっきりとお答えしたはずです。

実は、3:11以後の最初の子どもの教会の礼拝式で、ただちにそれを巡ってお話したのでした。そこでも、何を語ったのか、くわしいことは覚えておりません。しかしおそらくは、教理を語ったはずです。つまり、人間が神の御言葉に背いて罪を犯して以来、神が完璧にお造りになられた被造物、世界は、その秩序を人間によって破壊されてしまったという創世記第3章の事実です。

人間の堕落、神の前に罪を犯したゆえに、この世界は、いわゆる天災を避けることができなくなっています。被造物の傑作として造られた人間が、神との正しい関係を破壊して、被造物のすべてを虚無に服させた、ローマの信徒への手紙第2章と3章の事実です。それは、主イエス・キリストが再びこの地上に来て下さって、この世界、宇宙を完成してくださるまでは、何とすることもできない粛然たる事実です。その意味では、地震、津波、台風、大雨このような災害を神がどうこうと言うことは、キリスト教でいえば基本的に成り立たない議論と思います。

さてただし、この一年間を振り返るとき、それ以降は、私どもの教会として、そのような問いを発したことも、それに応えたことも、ほとんどなかったのではないでしょうか。確かに、無辜の人々がなぜ、今そこで死ななければならないのか、この問いは、まさにキリスト教的問いではないかと思います。何故なら、私は、その答え、その意味は、聖書によらなければ、決して答えられず、解決もなく、救いもないと考えているからです。

ただし、わたしはこうも考え、信じております。その答えとは、一般的な答えではありません。わたしは、基本的にこのように考えています。信じています。それは、人生の苦難の問題に、一般論の答え、誰にでも当てはまる答えなどあるはずもないということです。確かに、何故、このようなことが起こったのか、それを神に問うことは許されていると思います。問うことは、大切なことだと思います。そして、問うならば真剣に、まじめに問わなければならないとも思います。しかし、そうであればあるほど、その答えに、一般的な解答、模範解答などないと、おそらくはご本人にも理解していただけるのではないかと思うのです。

そして、苦難、試練の問題をまさに、まじめに、必死に問い続ける方は、どうしても神を、創造者、全能の唯一の神を問題にするしかないはずです。そのときには、どうしても、聖書によって、神に問うしかないということに気づいて頂けると思うのです。

さらに、まじめかどうかなど、問う必要もない方々がいらっしゃいます。自分自身の問題として問わなければならない方、つまり、被災者の方々です。しかし、問題は、そのような方こそ、実は、問う力、問う勇気すら失われてしまうということ、それをわたしは案じています。問うことができないとは、つまり、まだなまなましくて直視できないということです。

そこでこそ私どもキリスト者の責任、出番があります。そのような人生の究極の課題について、どこに根本的な解決の道があるのだろうか。キリスト者は、証することができますし、しなければなりません。それは、福音にのみある。聖書において啓示された神とその御言葉のみにあると告げるのです。主イエス・キリストにのみ解決、つまり救いの道があるということです。私どもは、この福音を知って頂きたい。福音によって自ら問い、そして生きる力、希望をこの福音の神から受けて欲しいと心から願っているのです。私どもは何とかして、そのお手伝いをさせていただきたい、しなければならないと確信しています。私どもは、神の愛、憐れみを受けたキリスト者です。そうであれば、神の前に座り込んで、議論するだけしてそこで終わったり、ただ立ちすくむだけだったり、かえって、何かをしようとする人たち、している人たちを批判することなどできるはずもありません。先週、学んだ通り、「行ってあなたも同じようにしなさい」この主イエスの御言葉に生きる以外に、答えはないのです。

さて、今朝、与えられた聖書の御言葉は、ヨハネによる福音書第12章であります。

ある日のこと、主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。するとそばにいた弟子たちがこのような質問をしました。「先生、この人が 生まれつき目が見えないのは、どうしてですか。いったい誰が罪を犯したからこんな目にあっているのですか。本人の罪のせいですか。それとも両親の罪のせいですか。

どうしてこのような愚かな質問をするのでしょうか。しかも、主イエスの弟子たちがこのようなことを問うのです。これは、二重の驚きではないでしょうか。けれども、このような考えは、我々日本人は、よく知っている話のはずです。「因果応報」という考えです。これは、決して大昔の日本のことではありません。今でも、いへ、むしろいよいよと言うべきでしょうが、あちらこちらでまことしやかになされています。今も、さかんにそのようなことを主張する新興宗教や宗教家がおります。占い師もたくさんいます。スピリチャル・カウンセラーなどという人々も出てきました。

彼らは、「あなたが今、苦しいことや、つらいこと、不幸なことがあるのは、あなたに関わる誰かが悪いことをしたからその罰が当たっているのだ」などと言ってのけるのです。これが、因果応報の物語です。彼らは、深刻な顔をして、「あなたが今、不幸な目にあっているのは、あなたが生まれる前に、とても悪いことをしたからです。つまり前世の因縁があるのです。」と言います。インネンとは、今ここに生まれる前に生きていたときに犯した悪行のことで、それが、「たたっている」というのです。ですから、そのインネンを断ち切るために、あれをしなさい、これをしなさいなどと言います。言われた方は、すでに悩みや課題があって相談しに来て、話を聞こうとするわけですから、いとも簡単に、騙されてしまいます。はまってしまいます。そして、その人に言われるとおりにしたということで、一方で、安心してしまう、安心できるわけです。

因果応報の考えは、人間の考えに巣くっているものですが、しかし実にイエスさまの弟子たちまで染まってしまっているということは、まさに驚くべきことです。これほどまでに、人間は、そのような不幸の原因を探すことが好きなのです。好きというより、そのようにしてでしか、今の自分を支えること、説明することができないと考えるからです。人間は、そこに、ある物語を求めます。つまり、理由づけの物語、説明の物語を必要とします。その物語がないと、悲しみや不幸を乗り越えられないからです。

しかし、その一方で、このような声も大変、大きくなっています。「いや、そんなことはない。そんな前世だなんだと非科学的なことを考えるのは、愚かな人間だけだ。」と、自分は大丈夫だと言う方も少なくありません。

たしかに、スピリチャルだとか占いだとか霊媒師だとかに頼るのは、どうかと思います。しかし、このように、言ってのける人たちのことは、同じように大きな問題だと思います。「宗教なんて、弱い人間がすがるものだ、そのような人には必要かもしれないが、自分は大丈夫。必要ない。」

いささか失礼かもしれませんが、そのような人は、もしかするとまだ自分の人生を真剣に考えていないのではないでしょうか。人生の不幸、不条理や悲しみに真正面から向き合っていないからではないでしょか。さらに言えば、自分と言う存在が、本当はとても弱い存在であるという現実を、自分自身を真剣に見つめることがないから、そのように言っているだけなのではないでしょうか。

さて、聖書に戻りましょう。問題は、前世の因縁、因果応報という物語、考えは、はたして真の物語なのか、真理であるのかどうかです。聖書には、そのようなことは何一つ、記されていません。むしろ、まったくそうではないと、今朝、聖書を通して、イエスさまは、高らかに宣言してくださいます。

よく聴きましょう。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」つまり、のろいとかたたりとかインネンとか、ぜんぶ偽りであるということです。そのようなことは、要するに何を問題にしているのでしょうか。それは、「過去」です。私どもは、過ぎ去った昔のことをひとつ一つ思い出して、「あんなことをしてしまったから今の自分はもうだめだとか、あんな悪いことをしてしまったから、その責めを受けて生きて行かなければならない。もう、自分の未来は暗いのだ、希望はないのだ、もはや神さまに愛される資格がないのだ。そのように、悪いことが起こっても仕方がないとか・・・」そのようなことは考えなくて良いのです。いへ、そのように考えてはならないのだと宣言してくださったのです。

主イエスは、さらに、因果応報、因縁の偽りの物語を打ち消しただけではなく、それに続けて、このように積極的に宣言されました。「神の業がこの人に現れるためである。」神の業がこの人に現れるためである。

これは、まったく思いもかけない、思いもよらないことばではないでしょうか。このような言葉は、誰も語ることのできないと思います。たとい、どんなにすぐれた信仰者であったとしても、決して、言うことのできない宣言です。つまり、救い主か真の神以外には言えない、言ってはならないことばだと思います。そして、主イエスは、宣言なさったのです。「神の業がこの人に現れるためである。」

さて、この主の宣言、確かなお約束は、弟子たちに、つまり私どもに何を求めるものなのでしょうか。主イエスは、こう宣言なさって、私どもに何を要求なさるのでしょうか。それは、一言で言えば、「過去を振り返って、とりもどせない過去をほじくりまわす必要など要らない。してはならない。」ということです。そのようにして、私どもの顔を、私どもの眼差しを、前に向かわせて下さるのです。私どもの考えを後ろにではなく前へ、過去にではなく将来へと向かわせるのです。つまり、「これまで」のことに心を支配させてはならない、「これから」のことに心を向けよという招き、要求なのです。それなら、その「これから」、つまり、明るい将来、すばらしい将来とは、どこからくるのでしょうか。これこそ、決定的に大切なメッセージです。

さて、そう仰せになると、すぐにイエスさまは地面に座り込まれます。つばで土をこねておられます。まるでどろんこ遊びのようです。そうしていると突然、イエスさまは、その泥を、目の見えない人の目にお塗りになられました。いかがでしょうか。もし、私どもがこのようなことをされたら、どうするでしょうか。おそらく、抵抗するのではないかと思うのです。目が見えないからと言って、いくらなんでも泥を塗るなんて、失礼なこと、常識的に言えば、非礼な行為ではないでしょうか。

ただし、もしも、私どもが、この主の振る舞いを注意深く見つめているなら、あることに気づく事ができるはずです。それは、旧約聖書、創世記に記されている物語です。創造者なる神が、最初の人間を、どのようにしてお造りくださったのかという物語です。神は人を、土のちりで創造されました。その後人間は、神さまの命の息を鼻から吹き入れられたのでした。そうして、人間は初めて人間になったというのです。つまり、神さまと向き合う関係、神さまと顔と顔とを向き合わせる関係、話し相手といってもよいでしょう。人格的な交わり、神さまに呼ばれれば応えることができるし、その応えに対して、神さまもまた、さらに応える関係、人格的な関係が、神さまに造られた人間の、人間たる本質なのです。

ところが、最初の人間は、そのままの正しい、健やかな神さまとの関係を続けませんでした。人間は、やがて神のみ言葉に背いたのです。神さまから顔を背けました。背中を向けました。神の愛と恵みを裏切ったのです。こうして人は、堕落し、神の祝福を失い、神の命の交わりを失って、さまざまな苦しみを受けることとなりました。

しかし今や、主イエスが、もう一度、泥をこねられるのです。つまり、主イエスはご自身がどなたであるかを、言葉だけではなく、行いをもって表現されます。つまり、主イエスこそ、全能の、創造者なる神であられるという自己紹介です。神にそむいて正しい関係を失い、神を見失った人間。聖書はそのような人間を、つまり罪人を、もう一度、本来の人間、神さまの子どもとなさるのです。それがおできになられるのは、御子なる神イエスだけ、御自身だけであることを高らかに行動で宣言なさるのです。

しかも主イエスは、ここで、とても不思議なことに、それで終わらせませんでした。他の癒しの奇跡とは、決定的な違いがあるのです。主は、さらに、このようにお命じになられます。「シロアムの池に行って洗いなさい」。ヨハネによる福音書を記したヨハネは、わざわざ、「シロアムというのは、『遣わされた者』という意味なのです」と読者に解説します。遣わされた者とは、神から派遣された人ということです。父なる神から、救い主として派遣されたお方こそ、イエスさまであられるのだと告げるのです。ですから私どもは、きちんと弁えるべきです。「イエスさまは、天の神さま、天のお父さまの御業、お仕事をするために送り出された方、遣わされた方なのだ。だから、誰でも、人間として道に迷い、自分をやり直し、新しくされるためには、主イエスさまのところに行けばよいのだ」ということです。

目に泥を塗られたこの生まれながらの盲人は、主イエスに言われたとおりシロアムの池に行きます。そして、言われた通りに洗いました。そしてこれこそが、決定的に大切なことです。もし、主イエスのおっしゃる通りに従わなかったら、それまででしょう。しかし彼は、主とその御言葉を信じたのです。するとどうでしょう。見えるようになったのです。イエスさまの言われる通りに、従えば、その通りになるという、すでに2000年にわたって経験され続けてた出来事、物語なのです。

さらに、私どもが注目したいのは、他の癒しの奇跡との違いです。私どもが福音書で読んで来た物語は、癒される人は、まさに受動的であったと言うことです。完全に、主イエスに癒されるのです。一方的に主イエスの神の力によって癒されるわけです。ところが、ここでは、主イエスは、癒される人じしんとの協力を求められます。いっしょに、働くことを求めるのです。彼は、自分でシロアムの池で洗わなければならないのです。ここに、一つの光を見ます。それは、教会がなす被災地へのディアコニアの中にも、ただ一方的に、何かを提供してしまうことへの問いかけです。今回、押し花を作っていただくこと、そのような共同作業に意味があるのだと思います。

さて、シロアムの池、それは、主イエス・キリストご自身の象徴です。さらに、今日で言えば、キリストの教会を意味しています。人間に襲いかかる不幸、不条理、苦しみ、試練、何故、自分なのか、何故、自分の家族なのか。誰も応えられません。しかし、その苦しさのまま、その悲しみのまま、うなだれて、終わってはならないのです。主イエスが、目に触って下さいます。洗って下さいます。私どもは、創造者にして救い主なるイエス・キリストのもとに行く必要があるのです。彼、イエスさまの下に来る時、私どもは、救われるのです。それは、罪が赦されるということです。大切なこと、決定的なことは、この罪が赦されるということです。そのとき、私どもの上に、神の業があらわされるのです。言いかえれば、神の栄光があらわされるのです。

人は誰でも、たとい生まれながらの盲人の方々ほどのものではないかもしれませんが、人に言えない悩みや悲しみ、ハンディや不安を抱えて生きています。しかし、この物語こそ、私たちの真の物語なのです。私どもの人生の目には見えない本当の姿、つまり本質を解明する物語なのです。いへ、単に解明して終わるだけではありません。私どもの悩み、苦しみを克服させることのできる物語です。ここに神の愛が語られ、約束されています。この物語を信じるとき、私もまた決して、不幸な人間などではなく、神はお見捨てにならないのだと知ることができるのです。今朝読んだ、物語。これは、私自身の物語でもあるのです。わたしのことを語り出すと、時間がたりません。

「アメイジング・グレイス」という有名な讃美歌があります。どなたも一度は、聴いたことがあるメロディーかと思います。メロディーもそうですが、詩がすばらしいのです。「わたしはかつて目が見えなかった。しかし今、神の驚くべき恵みを見ている。」ジョン・ニュートンというキリスト者の詩です。実は、彼は、かつて奴隷商人でした。目に見えるものしか価値を認めない人間の典型でした。しかし、主イエスを信じて、心の目、信仰の眼が開いたのです。人間を売っていた自分のような者にすら救いの恵み、赦しを与えて下さったと神を讃美したのです。かつては、肉眼は開いていたが、霊的な目、心の目が開かれていなかったのです。しかし、主イエスを知って、見えた。恵みが見えたのです。そうなると、この物語は、ジョン・ニュートンの物語でもあると言えます。

私どもも今、悩みや苦しみがあるでしょう。しかし、決して、それで終わらないのです。主イエスがお命じくださったように、シロアムの池に行けばよいのです。そこで、自分の目を洗えばよいのです。それなら今日、そのシロアムとは、どこにあるのでしょうか。目を洗う水は、どこにあるのでしょうか。先ほど、シロアムの池、それは、主イエス・キリストご自身の象徴だと申しました。しかし、それだけではありません。主イエス・キリストは、今、天に戻られました。それなら、私どもは、この地上で、目が開かれないままなのでしょうか。違います。主イエス・キリストは、この地上に、ご自身の体に他ならない教会を建てられました。教会こそ、イエス・キリストが共にいて下さる場所なのです。私どもはすでに今、この礼拝式で、神を、主イエス・キリストを仰ぎ見ています。本当のことを言えば、主イエスさまがここに招いてくださいました。そのようにして、今朝、生きておられる主イエス・キリストは、私どもの傍らにまで来ていただいているのです。

先週の説教をここでも繰り返します。病床で、ひとり伏せるあの病床で、主イエスが隣人となって下さっていることを信じたと、先週、証しました。そして、ここに座る私どもにもまた、そのように主イエスが隣人となっていて下さるのです。今朝、主イエスを信じるとき、この盲人の目が開かれた物語は、私ども自身の物語にもなるのです。そしてこれこそ、新しい物語なのです。過去のいかなる悲しみをも乗り越えさせる希望にあふれた、真実の物語なのです。教会は、この希望を証します。

祈祷

人生に対する偽りの物語ではなく、あなたが教えて下さった真の物語の中に、私どもを招き入れてくださり、感謝いたします。どうぞ、私どもが前を向いて、上を向いて、神よ、あなたを仰ぎ見て、地上の歩みを、小さくともしかし確実に進むことができますように。私どもの教会をこの世界への愛の手紙として用いて下さい。いのちと望みに満たされた神の家として下さい。アーメン。