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神の人間信頼-神の前に大震災を問う②-

 

「神の人間信頼-神の前に大震災を問う②-」

2012年3月18日
聖書朗読 ヨブ記 第1章1-第2章10

ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。

息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。

ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。
主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。

主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。

ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。
またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。

主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。

主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」

サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」

サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

今朝は、先週に引き続きまして、マタイによる福音書の講解説教を中断して、この度の東日本大震災を巡って、今朝、与えられた御言葉から思いをめぐらし、神の御心をしっかりと把握したいと願います。

私の記憶のなかで、今朝ほど、長く聖書を朗読したことはなかったと思います。ヨブ記は全体で42章もあります。丁寧に解説すれば、大変長い時間を要すると思います。わずか40分足らずで、これを取り扱うことはできません。しかし、今朝は、あえてこの一回の説教で、ヨブ記の本質、ヨブ記を通して語られる神のメッセージを受けとめたいと思います。

このヨブ記について、ある詩人は、こう言いました。「古代と現代とを通じて最大の詩である」また、改革者ルターは、こう言いました。「聖書の中で他に匹敵するものがない壮大かつ崇高なもの」何よりも私が親しんだ内村鑑三は、こう言っています。「世界の最大著述といえば、ダンテの神曲、シェークスピアの劇作、ゲーテのファウストでしょう。しかしこれらの最大の書以上の書で、価値をつけることができないほど無限に貴重なる書は、ヨブ記であります。」

そればかりか、キリスト者ではない方々も、たくさん言及しています。戦後日本を代表する思想家の一人と言われている、吉本隆明さんもそのお一人です。今回、ネット上のユーチューブで、講演を聞かせていただきました。余談ですが、この説教の準備中に、逝去されたニュースにたいへん、驚かされました。

この書物の主題は、何でしょうか。多くの人が、こう言っています。「神がいるなら、なぜ、人生には不条理なことが起こるのだろうか。」「無辜の人々、いわゆる罪なき人々に、災害や病がふりかかって苦しむ一方、人を人とも思わないで、自分の欲望を押し通す人々が、健康に恵まれ、財産に恵まれ、幸福に暮らしている。いったい、神は不公平ではないのか。そもそも、神はどのようなお方なのか。いや、神はいるのか。」そのような問いに対する解答です。つまり、これは、キリスト教だけのテーマではありません。まさに人類に普遍のテーマだと思います。アジアもヨーロッパも人間が生きて、暮らしているところには、どの国に生きる人々も、どの時代の人々の人生にも、まさに自分のこととして考えさせられるテーマだと思います。だから、キリスト者でなくとも、信仰者でなくともヨブ記は読まれ続けるのだと思います。しかし、問題は、はたしてヨブ記のメッセージとは、本当に、そのようなものなのでしょうか。わたし自身は、根本の問いを持っています。

先週は、「因果応報」の考え方について、学びました。これも、実は、洋の東西を問わず、人間が基本的な前提として考える、考えていることだと申しました。原因があるから結果がある。その意味では、科学的な思考だと言えると思います。弟子たちが、通りがかりに、生まれながら目の見えない人を見て、主イエスに問いました。「本人が罪を犯したからこうなったのですか。それとも両親の罪でしょうか。」これが、因果応報の考え方です。しかし、主イエスは、その因果応報の考え方を、飛び越えて下さいました。「神の御業がこの人の上に現れるためである」と宣言されました。実は、そこに、ヨブ記を正しく読む、重大な手掛かりがある、そう言ってよいと思います。

さて、今朝は、第1章から第2章までを読みましたが、ヨブ自身の痛切な叫びは、その後の3章から明らかになってまいります。物語は、余りにも変わり果てた姿になって、苦しんでいるヨブのことを案じて、三人の友人たちが御見舞にまいるところから始まります。

不幸のどん底にあるとき、訪ねてくれる人は、本物の親友です。しかも、この三人は、あまりに変わり果ててしまったヨブの姿に、声を出すこともできませんでした。しかし、実に、すばらしいことに、この三人は、七日七晩、ヨブの傍らに座って、じっとヨブの嘆きの声を聴き続けます。すばらしい、友人です。

しかし、ついに、ヨブが自分の生まれた日を呪い出したとき、彼らは口を開きます。そして、ヨブをいさめるのです。この対話が、延々と続くのです。いささか乱暴な捉え方ですが、友人たちの主張は、こうです。「神は正義の神だから、このような災害、苦しみ、試練が襲ったのには、ヨブの側にもそれなりの理由があるはずだ。あなたは自分の正義を主張するが、あなたの隠れた罪を懺悔しなさい。あなたの罪を神が裁かれているのだから、神の前に悔い改めなさい」このようなアドバイス、反論なのです。そして、その考え方の根拠にあるものこそ、実に、「因果応報」の考えに他なりません。ヨブが隠れた罪を犯したからこそ、その結果として、神の裁き、刑罰が下っている、そのような主張です。

しかし、ヨブ記は、最後に神が登場します。そして、結論を下されます。神は、怒られます。その憤りの相手は、ヨブに対してであるより、むしろ、ヨブに罪を悔い改めるように促し、迫った、友人たちに対してなのです。

説明がつかないことを、何とか説明してしまおう、それを科学的思考と仮に呼んでおきます。古代の人々も現代の人々も、その意味では、皆、科学的な思考に生きようとしています。ところが、聖書は、ヨブ記は、それに否を宣告するのです。違う!というのです。神ご自身が、そのような人間の企て、考え方に違う!と抗議なさるのです。つまり、それは、真の神を、人間が分かりやすい神に仕立て上げようとするありとあらゆる人間の企てに対する、神からの抗議です。人間は、説明のつかないような人生の不条理、悲しみ、苦しみをなんとか説明しようと、納得しようと、簡単な、合理的な答えを出そうとします。その延長線上にあるのが、「因果応報」の考え方なのです。生きておられる神を、人間に理解しやすくしよう、原因と結果の枠の中で、収められるようにしようという企てです。そして、それが多くの場合は、宗教に発展します。しかし、実に、そのような人間の側からなされる宗教的な企てこそ、最大の不信仰なのだと、ヨブ記は言うのです。

さて、吉本隆明さんは、ヨブ記の中に登場する神の言葉には、「深みがない」と言います。薄っぺらだと言います。ヨブの言葉の方がはるかに深いというのです。私は、吉本さんのこの主張に大変、興味を持ちました。確かに、ヨブの嘆きの言葉は、まさに、冒頭で申しましたように、史上最大の詩と呼ばれるほどです。そして、なるほど、冒頭の部分と最後の部分の神ご自身の言葉には、深みがないという評価に対して、ある共感を持ちます。

実は先々週、浜松伝道所で、ひとりのご年配の紳士から、ヨブ記についてのご質問を受けました。御茶を飲みながらでしたので、きちんと、お答えできませんでした。これは、正確な言葉の記憶はないのですが、おそらく、このような主旨だったと思います。「ヨブ記には、興味を持っているけれど、あれは、どこか、嘘っぽい、子どもっぽい、そのような物語を、キリスト者は事実として信じているのか」このようなものでした。その極めて率直な質問にも、大変、興味を持ちました。なるほど、よく分かると思ったのです。

確かに、次から次へと起こってくる不幸、悲しみを前に、そして、友人たちからの批判を受けて、ヨブの悲嘆と怒りは、いよいよ深くなります。自分の人生の深淵をのぞきこんで行くのです。まさに最高峰の文学になって行くのも当然のことだと思います。ところが、神ご自身は、その人間の悲しみや怒りに対して、余りにもあっさりと、応えられるのです。これはぜひ、後で丁寧にゆっくりと読んで下さい。

神は、そこで、創造者にして主権者なる存在でいらっしゃること、ようするに、ご自身の存在を示されるだけなのです。それ以上の深さがない、といえば、なるほど、私もそう思います。同感します。

しかし、もっとも大切な事実があります。それは、ヨブ本人には、たったそれだけ、ただそれだけで十分であったという事実です。信仰者ヨブにとっては、神が、自らをお示し下さるだけで、もう、何も要らなかったのです。神がおられる。神がいらっしゃる。神が自分を個人的に、確かに顧みていて下さる。信仰者には、もうそれで十分なのです。十分すぎると言ってもかまいません。

神は、悲嘆にくれるヨブの嘆き、神への怒りすら、ご自身の栄光と救いのために用いられます。ヨブが、嘆き、呻き、憤って神に叫ぶとき、決して信仰がなくなっているわけではありません。むしろ、神の前に、叫び、怒り、途方に暮れることの中にこそ、信仰の歩みがあります。何故なら、神がそのようなひとり一人を憐れんでいて下さるからです。

もとより、その中で、ヨブ自身が神に罪を犯したことは事実です。当然のことですが、その意味では、決して、ヨブは完璧な信仰者であるというわけにはまいりません。しかし、神は、そのようなヨブを赦し、憐れみ、ヨブにお応え下さるのです。私は、そこで、押さえておかなければならないことがあると思います。おそらく、ヨブに対する神からの答えは、万人に共通する、普遍的な答えではないということです。また、納得の仕方も、一人一人違うと思います。ですから、ひとりひとりが、それぞれの悲しみと嘆きを、それぞれの仕方で、神に訴えて良いのです。訴えるべきです。それは、決して、不信仰ではありません。むしろ、ヨブは、希望を神にかけているから、訴えたのです。神を信じているからこそ、深く悩み、深く悲しみ、深く迷うのです。しかし、深く悩んだり、悲しんだり、迷ったりできる、そこにキリスト教信仰の奥義があります。まことの唯一の神、聖書に啓示された真の神のありがたさがあります。被災者の方々が、悲嘆に沈む方々が、苦しみと悩みの中にいらっしゃるすべての人にとって、神の前に、嘆き、涙を流すこと、それがどれほど、大切であり、すでにそこに、勝利、助けがあることを思います。反対に、人の前に、ぶつぶつ、文句や不平を言っても、最終的な結論、救いにはなりません。

さて、そもそも、ヨブ記は、このように始まります。
「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

ヨブ記は、この神とサタンとの対話を骨格にしています。天上で、神の下、天使とサタンとが集まりました。主は、サタンに言います。「お前はどこから来た」これは、サタンへの警告でしょう。サタンは、本来、天上の会議に参加する立場にいないはずです。天使は、天上において、神に仕えます。しかし、サタンは、自ら神に反抗し、天に居場所はありません。サタンの答は、こうです。「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」

サタンは、地上で、また、空中で地球を巡回しているというイメージです。あちこちと歩き回るということです。しかし、それは、神のご意思に服従して、巡回しているのではありません。神に反抗し、神に敵対し、一生けん命に働いているというイメージです。しかし、それは、本来的に、積極的に、神に許可されたものでは決してありません。勝手にやっているのです。

さて、その次のこの御言葉、ここにこそ、決定的に重要なことばが語られます。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」何故、決定的なのでしょうか。ここにヨブ記をひもとく鍵の言葉があるからです。それは、一言で言えば、神のヨブへの信頼です。ひいては、神の信仰者への信頼です。神の人間への信頼の言葉です。

そして、これに対し、まさにサタンの本質が見事に表わされる言葉が続きます。サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

つまり、サタンの主張は、「ヨブは、あなたの祝福を溢れるほど受けているから、あなたを信じ、敬い、従うだけである。利益もないのに、信じ、敬うはずはない。」ということです。「利益もないのに」とは、他の翻訳では、「いたずらに」と訳されています。「意味がなく」とか、「下ごころなく」とも訳されます。サタンの主張、人間理解とは、「人は、ご利益なしに神を信じ、敬うはずはないと」言うものです。これが、サタンの人間理解なのです。サタンは、神をも、人間の真実をも決して信じていません。

そこでサタンは、神に対抗して、勝負を挑むのです。そこで、ヨブの苦難が始まります。もとより、これを、そのようなことで、ヨブに対する攻撃を許可される神は、正義なのかどうか、それを問うことは、今回は控えます。しかし、そこでも明らかに示されるのは、サタンは、このようにして、神の許可なしには、何もできないということです。つまり、サタンは、この世界の勝利者ではないということです。支配者ではないということです。また、この世界で起こる悲劇の作者は、神ではなく、それは、人間の罪とサタンの仕業だということです。私どもは、決して騙されてはならないということがここで分かります。

そして、この冒頭のヨブの言葉は、圧倒的です。ヨブ記の本質を明らかに示す言葉となっています。

「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

第二章では、さらにひどい目に遭うヨブが描かれます。ついには、彼の妻も、神を呪うように、諭します。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

ヨブは、自分の命が神の所有であることを認めます。神からの授かりものであって、自分のものではないと認めます。いのちの源なる主が命を与えて下さるという告白です。さらに、それ以上に、主は奪う権威をも、お持ちであって、その時を受け入れるのです。それは、第二章で、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」において、徹底しています。いのちを奪い、不幸も受ける、神は神でいらっしゃる故に、それを受け入れるのです。いったいどうして、このような信仰が可能なのでしょうか。まさに、究極の信仰者、信仰者の模範です。そのようなヨブとなるためには、おそらくヨブ記は、第3章からの壮絶な信仰の格闘が背後にあることを暗示しているのだと思います。

しかし、今朝、皆さんと確認したいことがあります。最も大切なメッセージは、ヨブの壮絶なまでの信仰の格闘の物語にあるのではありません。むしろ、大変、あっさりとして、それだけに、余りにも浅いと、思慮深い人からは笑われるかもしれませんが、単純にして素朴なメッセージがあります。それは、神が人間を、ヨブを信じておられるということです。*「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」*神は、徹底的にヨブとその信仰を、つまりは、人間を徹底的に肯定しておられるという驚くべきメッセージです。

ご利益欲しさに信じるのではない、ただ神が神でいらっしゃる故に神を敬い従い、愛する信仰者が存在する、これが、神の人間への信頼なのです。神は、ヨブのことを最初から信じておられました。そして、ヨブもまた、この神の信頼に支えられてこそ、ただそれゆえにのみ、信仰を貫くことができたのです。先週の洗礼入会志願者の試問の折、あらためて確認したこともまた、そのような真理でした。神に捉えていただいたという恵みの選びの事実です。この神の信頼によって、人間もまた、神をいたずらに信じる、ご利益なくして信じることができるのです。これこそが、不条理な世界の現実、歴史の現実を乗り越えるものです。大震災で、すべてのものを根こそぎ奪い取られる現実があります。あまりにも過酷な現実です。しかし、その過酷な現実を乗り越える信仰者が存在しています。

皆さんにできれば、毎日読んで下さることを期待しますが、リジョイスに、ひとりの若者が登場しています。筋ジストロフィーを病んでいる保田広輝君、二十歳です。福岡の長丘の教会員です。彼は、13歳のとき、信仰告白をしたそうです。約7年の月日のなかで、現在の信仰の確信に導かれたようです。「今振り返れば、神さまから離れて信仰生活を辞めるのではなく、祈りの中で、神さまに疑問や怒りや恨みもぶつけたことがよかったのだと思います。」これは、ヨブの第3章以下のことと同じです。その次にこう語られます。「そして、今年になって(2011年)、次のようなことを神さまから示されました。僕は、神さまからの任命を受けて、難病の体で生まれて来た、神さまが僕を難病の体に選んでくださったのだ、と。僕はこの世界に生まれて来たことが、神さまからの召命だと思います。生まれつきの難病の人生も神様からの召命なのです。」

たった一人、この若者がいるだけで、世界のいかなる不条理も、サタンも歯が立ちません。『だから自分や他人が不幸だと思えることのなかからも、意味を見いだすことはできるのだと思います。不幸だと思われる者に神さまの御心と御業が現れるとき、それはすべての者の救いのしるしやきっかけになるのだと思います。』

最後に、不条理を乗り越える神の人間信頼、人間の神への信仰、それは、すでにヨブ記において示されています。しかし、私どもキリスト者にとって、それよりはるかに巨大な福音の真理を知っているはずです。それこそが、罪のない神の御子イエス・キリストが、人となられ、十字架につけられ、神の怒りを受けられたと言うことです。十字架の上で、このイエスさまは、叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「我が神、私の神、何故、わたしをお見捨てになられるのですか。」罪のないお方が、私どもに代わって神の刑罰を受けてくださったのです。すべての不条理の悲しみ、怒りは、この十字架のイエスさまの前では、包み込まれ、吸い取られ、軽くなります。

主イエスのこの叫びは、絶望の叫びなどでは、まったくありません。神への不信仰、怒りを叫んでおられるのでもありません。これは、詩編第22編の引用です。究極の神賛美と信頼の歌として理解される詩編です。だからこそ、私どももまた勝利できるのです。この勝利を与えられるのです。

私どもの救い主、人となられたイエスさまが、あの十字架の上で、最後の最後まで、神への賛美、信頼を貫かれたとき、決してヨブひとりだけではなく、いかなるキリスト者であっても、確実に生きる場所が与えられています。癒される場所が与えられています。人生のいかなる苦難にも勝利する道が、確保されてあります。

私どもは、ヨブとははるかに比べられないほどの信仰の弱い小さな者です。あの保田君とも比べられないかもしれません。しかし、それにもかかわらず、神は、私どものことをも同じように信じておられるのです。利益なくして信じる人間、信仰者として見ておられるのです。だから、私どもは信仰を与えられ、信仰へと招かれ、導かれたのです。神は、サタンの誘惑、ご自身への敵対心にも負けられません。サタンの人間への憎しみ、不信頼、軽蔑にも屈することがありません。信仰の眼を開かれて、この神を仰ぎ見ましょう。

祈祷
何故、自分だけが苦しむのか、そのような問いをあなたに問うことを許してくださる憐れみの父なる御神、私どもも、あなたに真剣に向き合わせて下さい。そして、苦しみの中にある方々の善き隣人とならせて下さい。共に、あなたを賛美できるように、私どもの信仰を富ましめてください。アーメン