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神の自由と権威

「神の自由と権威」

                    
2012年4月1日(受難週)
マタイによる福音書 第21章22~27節

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

今朝の説教の題は、「神の自由と権威」としました。キリスト教にとって、そして私どもの信仰生活にとって、権威の問題は、まさにその本質そのものを問うことに他なりません。この500年余りのさまざまな教会じしんの議論の中で、最大の議論は、この権威の問題でした。つまり、私どもの救いにとって何が権威となるのか、神の権威は、どこに根拠を置くのかという議論です。もとよりこの議論は、丁寧にしなければなりません。しかし、時間の関係もありますから、ざっと申します。それは、私どもの救いと信仰にとっての権威は、教会にあるのか、それとも聖書にあるのかということです。乱暴な言い方なのですが、教会に権威があると主張するのが、ローマ教会、いわゆるローマ・カトリック教会です。そして、聖書に権威があると主張するのが、いわゆる宗教改革によって新しく生まれた諸教会、私ども改革された諸教会です。

ただし、この二つの教会にとっても絶対的に一致しているのは、その権威の源泉は、どこにあるのかということです。言うまでもなく、主イエス・キリストにあります。そして、主イエスにこそ、神の権威があると理解するのが、要するにキリスト教なのです。そして、地上の全てのキリスト教会は、この根本において、ニカヤ信条において完全に一致していると言って良いのです。

何故、私どもにとって権威の問題があやふやであってはならないのでしょうか。それは、私どもの救いそのものがあやふやになってしまうからです。もしも、誰かが、「そんなことはどうでもよいではないか。救われている実感があるかないかの方が重要です」と仰るなら、なるほど、救われている実感は、あるいは、救われている喜びは、実に大切で、その通りです。私どもは、毎日、救いの喜びに溢れ、感謝に溢れ、平和に溢れて生活したいと願っています。しかしもしも、「権威」について、不確かなままであれば、どうでしょうか。実は、他の宗教の信者の方でも、同じような実感に溢れていらっしゃる方もいらっしゃるかと思います。あるいは、私どもの目からみると、彼らの方が、熱心で活動的で、本物のキリスト教の自分たちの方が、偽物であるかのように気おくれさせられるということもあると思います。つまり、権威の問題を、二番目に置くとき、私どものキリスト教信仰はしだいに崩れてしまうのです。

さて、主イエスはエルサレム神殿の境内で聖書を教えておられます。これは、大変、注目すべき行いだと思うのです。主イエスは、まさに命をかけて、神殿の中から商売人を追い出されました。しかし、その主イエスは、神殿そのものを軽んじてはいらっしゃらないようです。何よりも、ここで私どもがまっすぐに見つめたいのは、主イエスが神殿で、何をしておられるのかということです。

主イエスは、聖書の真理、神の御言葉を教えておられます。私どもは、すでに、マタイによる福音書第7章で学びました。主イエスが、山の上で説教を語り終えられたとき、マタイは、このように結んでいます。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」権威ある者としてお教えになられたのです。わざわざ、律法学者のようにではなく、と指摘しています。律法学者のようにではなくということの意味は、何でしょうか。その直前に、岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた人とが比較されています。つまり、御言葉を聴いて行う人と聞くだけで行わない人との比較でした。つまり、律法学者のようにとは、ただ神の言葉を語るだけで、行わない人という含みがあるわけです。

何よりここで明らかにされることがあります。主イエスは、いかなる聖書の学者、説教者ともまったく違うということです。説教者は、自分じしんを語る者であってはなりません。しかし、主イエスは、神であり、神の言葉そのものでいらっしゃいますから、ご自身のことを御語りになられるのです。そこに、権威の差があります。説教者は、神の言葉の権威に基づいて、語ります。それ故に、彼にも権威が与えられます。しかし、主イエスは、ご自身が権威そのものなのです。ですから、マタイが、「権威ある者として語られた」という表現が、まったくふさわしいのです。その通りなのです。

さて、物語はそこで動き始めます。神殿に、祭司長や民の長老たちが近寄ってきます。彼らは、イスラエルの指導者です。おそらくは、イスラエルの政治と法律の執行する70人議会、サンヘドリンを構成する権力者たちです。まさに、この世の権力者であり、権威に他なりません。彼らは、地方出身者のイエスが、エルサレム神殿を我が物顔をして使用していることに、怒り心頭です。実に、今朝のこの個所から、主イエスとこの世の権力者、ユダヤ社会の権威とが真っ向からぶつかります。最後の対決です。まさに激突という言葉がふさわしいかと思います。

地上の権力者たちは、自分たち以外の権威を認めません。従って、主イエスを問い詰めようと致します。それに対して、むしろ主イエスご自身の方から、問い返されます。それは、彼ら地上の権力者の正体を暴きだすための質問でした。具体的に挙げられたのは、洗礼者ヨハネが施した洗礼の権威についての質問でした。

主イエスは、このように問われます。「ヨハネの洗礼運動は、神の権威を帯びているものなのか、それとも、自分勝手に洗礼を施していたものなのか」確かに、洗礼を自分勝手な思いで施すことは、ゆゆしきことです。もしも洗礼者ヨハネが、そのような自己流の思いで、つまり、神からの承認なしにしているのであれば、むしろ、神への冒涜になるでしょう。主イエスが、彼らに問われるのは、まさにそこでした。彼の洗礼運動、その働きが、もし神の権威を帯びているのであれば、祭司長たち民の長老たちは、ヨハネを信じ、彼の悔い改めへの招きに応答すべきです。しかし、彼らは、ヨハネを重んじませんでした。ところが、彼の洗礼運動そのものを阻むことはしませんでした。なぜなら、群衆の大変な支持があったからです。群衆は、洗礼者ヨハネを神からの預言者と考えていたからです。そして、その群衆は、イエスさまのことをも同じように神からの預言者と考えていたわけです。

さて、彼らは主イエスに、答えます。「分からない」。なんと、不誠実な答えでしょうか。いへ、答えになっていません。偽りです。都合が悪いので、言い逃れているだけです。わたしはすぐに国会の答弁を思いだします。大臣や官僚たちが、都合の悪いときには、「記憶にございません」とか、「善処しているところです」「善処します。」とか、自分の立場を守るただそれだけのための答弁を重ねることは、しょっちゅうあるように思います。まさに、そこにこの世の権威の本質が見え隠れします。つまり、この世の権力は、常に、自己保身、自分の利権を守ることを追及していると思います。

主イエスは、第10章で、このように仰せになられました。「人々を恐れてはならない。~体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」もとより祭司長も長老たちも信仰者です。信仰者のはずです。ところが、彼らは神を畏れるのではなく、むしろ群衆を恐れているのです。

戦後、日本人の精神的な特徴を「恥の文化」と指摘したアメリカの学者がおりました。つまり、多くの日本人は、「人の目を気にする」という、あるはっきりとした特徴を持っているという指摘でした。しかし、最近は、「恥の文化」と言われるなら、何故、これほどまでに公衆のマナーが低下してしまったのかという課題があるかもしれません。しかしそれでもなお、我々の間には、「世間体」という言葉が、まだ生きていると思います。世間体を気にするということが、なお力をもっていると思います。いったい世間体とは、何でしょうか。それは、自分じしんの価値観にもとづくものではありません。自分で自分を律するのではなく、他人から、世間様からの無言の規制を受けるわけです。自分が、人にどのように思われているのだろうか。これは、大人だけではなく、むしろ、子どもたち、学生たちにも強く働きかけるプレッシャーだと思います。

そして、人の目を気にすることは、単に、日本人だけの特徴ではないことが分かります。まことに生ける唯一の神を信じ、畏れ敬うことがなければ、人間は、自立すること、自分でひとり立つことができないのだと思います。自分で自分を律する、自律することもできないのだと思います。

そもそもキリスト教信仰とは、神を畏れることにあります。それは、恐怖ではありません。畏怖することです。畏れ敬うことです。そしてまさにそのとき、信仰者はこの世にあって、自由に生きることができるようになります。実は、神の権威に服従し、神の主権を畏れ敬う人こそが、この世にあって、平和の内に、確信をもって、大胆に生きることができるのです。何故でしょうか。この世の権威、権力から自由になれるからです。解放されるからです。キリスト者の生活ぶり、それを大胆な生き方と言えると思います。そして、お互いにその大胆な生き方を身につけてまいりたいと心から願います。その大前提は、牧師じしんが大胆に説教することができるか否か、そこにかかっていることを、わたしは深く自覚したいと思います。

さて、この世の権力者たちは、確かに、群衆を支配することができます。圧倒することもできるだろうと思います。しかし同時に、彼らが最も怖れているのは、その群衆であり民衆なのです。だからこそ、彼らは、多数派工作、民衆の心を動かそうとするわけです。彼らイスラエルの指導者たちがもしも、真実に信仰に生きているのなら、つまり、神の御顔の前で生きているなら、彼らは、洗礼者ヨハネを、否定するべきでした。はっきりと、ヨハネは、自分勝手に、人間的な力や考えで、信仰運動をしているのに過ぎないのだと言ってよいし、言うべきでした。ところがそれを言いませんでした。言えませんでした。何故なら、彼らにとって究極に大切にしているのは、神さまの権威と真理ではなかったからです。自分じしんの立場だったからです。自分の生活が第一だったのです。まさに、彼らの信仰生活とは、そのまま職業生活でした。職業としての宗教なのです。

しかし、これを単に、宗教家批判として、解釈するだけであれば、私どももまた不誠実だと思います。信徒としても、自ら問うべきでしょう。もとより、信徒は、キリスト教を言わば職業にしていません。しかしもし、一番大切にしているものが、自分じしんの職業生活、自分の家庭生活であるなら、職業的宗教家と、ほとんど同じことになるのではないでしょうか。

そうであれば、いざ、自分の地上における生活が、信仰を理由にして、不利になるとき、困難が生じたりするような、あれかこれかを迫られるたりするとき、とっさに「分からない」と答えてしまうことがあるのではないでしょうか。もちろん、本当は、分かっているのです。信仰的に考えれば、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」頭では分かっているはずなのです。

祭司長たちは、主イエスの問いに「分からない」と答えます。つまり、その場をしのいで、主イエスと向き合わないようにするのです。そして、それに対して、主イエスは、どのように彼らと向き合われるのでしょうか。この御言葉は、極めて重要です。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」これは、すべての者が厳かに聴くべき主イエスの宣言です。主イエスに敵対する人のことだけではありません。未信者の方のことだけでもありません。キリスト者こそ、はっきりと聴かなければなりません。主イエスは、事柄をあいまいになさったのではありません。

先週、久しぶりに説教の分かち合いのグループの中に入らせて頂きました。説教で与えられたじぶんじしんの恵みを、分かち合うための集い、これは、キリスト者としてまさに幸いな時だと思います。御言葉をひとりで聴いているわけではなく、兄弟姉妹と共に聴くとき、それぞれがどのように教えられ、励まされ、慰められ、そして戒められ、悔い改めに導かれたのか、それを分かち合うことが許されますと、まさに、説教の恵みは、まさに何倍にもなります。そのようにして教会の交わりは何倍にも豊かなものとなります。

さて、先週のわたしのグループで、ひとりの方が、聖書の読み方について、あらためて学び、確認させられたということを仰いました。聖書を正しく解釈するためには、読んだ個所をその全体から読む、解釈しなければならないと言うことの大切さをあらためて教えられたとおっしゃいました。

先週のイエスさまの行動と説教とを思いだしてください。まさに、読者を困惑させてしまうものだったと思います。こんなわがままで、自己中心な人がいたら、周りはどれほど迷惑するかと思う、そのように誤解されかねない主イエスの振る舞いと説教でした。しかし、今朝、繰り返しませんが、そのような解釈はまったく的外れなものです。

さてしかし、先週の説教と聖書のテキストを思い起こすとき、あらためて考えさせられることがあるだろうと思います。それは、なぜ、マタイによる福音書は、他にもマルコによる福音書は、わざわざこのような解釈の難しい記事を載せるのかということです。つくづく聖書という書物は、不思議な書物だと思います。

先ほどの方は、聖書は教会に来て、牧師の説教を聴かなければならないということが改めてよく分かったと、仰いました。それは、まったくその通りだと思います。ただし今朝、私どもはその考察をさらに深めたいと思うのです。つまり、牧師の説教とは、ただ単に難しい聖書の解釈を、いわゆる「分かりやすく」聴衆に示すことなのだろうかという問いです。これもまた、教会人として、きちんとわきまえて置くことは、基本的に大切なことだと思います。

主イエスご自身も、そして聖書も、そのすごいところは、単に、誰でも信者にしようというような節がないところだと思います。信者を増やそう、信者を獲得しようとする運動ではないのです。キリスト教は、その意味では、そのような宗教団体ではないし、なってはならないのです。職業宗教家であれば、信者の増加は、基本的に悪いことではないように思います。しかし、聖書は、単にキリスト教の信者を増やそうとして記されているのではないのです。もしそうであれば、聖書は失敗ではないでしょうか。マタイによる福音書などは、冒頭から、興味本位でのぞく人を拒否してしまう、読みたくなければ、読まなくてもよろしいとさえ言っているかのように、私は思ってしまうのです。

しかし、今朝、この基本中の基本をあらためて確認しましょう。神さまは、主イエスは、主なのです。主権者です。権威者です。この神の権威こそ、真の権威です。それゆえに、真の神、創造者なる神は、拒絶する自由をお持ちでいらっしゃるのです。不誠実な対応をする祭司長や指導者たちに、主イエスは、それでも、「どうでもよいのだよ。わたしは、何でも、どんなことでも赦してあげるよ。分からせてあげますよ」とは仰いません。主イエスは、彼らに、真実をお答えになられることを拒絶なさるのです。ただし、繰り返しますが、もはやすでに主イエスが神の権威にもとづいてお語りになられ、奇跡をおこなわれたことは明らかなはずです。

主イエスが、答えることを拒絶なさる。そこに、まさに、彼らへのメッセージがあります。主イエスは、自己保身の思いから、曖昧になさるのではありません。主イエスが神の権威を与えられていることは、自明のことです。しかし、ここで明らかにされたことは、真剣に真理を求めるのでなければ、主イエスは、拒否なさるのです。ここに神の自由があります。この自由こそ、神の権威です。この自由こそ、神の主権なのです。神の主権とは、言い換えれば、神の自由なのです。神の主権と神の自由とは、同じものです。

そして、神の自由とは、人間にとって、まさに神さまの領域なのです。つまり、人間は、神に、あれこれ指示を出すことはできませんし、許されません。御賽銭を投げたからと言って、人間が神を自由に動かすことなどできません。そのような宗教的行為こそ、まさに不信仰、不信仰の行為に他なりません。

キリスト教信仰とは、このイエスの主としての権威を認めることです。それこそが、信仰なのです。イエスさまは、主なのです。世間では、イエス・キリストという呼び名が違和感なく用いられています。本当は、イエス・キリストとお呼びするだけでも、イエスさまはキリスト、メシア救い主ですという信仰告白のハズなのです。しかし、ほとんどの方は、固有名詞のように、イエス・キリストと言います。名字と名前のように思っているわけです。しかし、イエス・キリストとは言いますが、主イエス・キリストとはお呼びしないはずです。まさに、信仰者でしかこのようにお呼びすることはできないからです。

しかし、本当に問題にすべきなのは、そのように、お呼びしている私ども自身です。つまり、イエスさまを真実に主としているのか、権威としているのかと言う問いです。私どもがどこか、生き方が定まらず、不安定で、世間を気にするとき、主イエスを見失っているのです。主イエスから目を離しているのです。私どもが、人の目、世間の評価から自由に生きることができる秘訣、それは、神の自由に服従することです。神の主権に従うことです。そのとき、私どもは、いよいよ、神の御心を知らされるのです。主イエスは、「わたしも言うまい」ではなく、聖書を通し、説教を通し、わたしの御心を明らかにします。わたしの本心をあなたに知らせます。そう仰います。そして、その本心こそ、今朝の鍵の言葉です。神の権威です。神の自由です。

わたしはつくづく思わされます。私こそ、イエスさまから、「わたしも言うまい。」と、拒絶されてもまったく仕方のない、不誠実な対応を繰り返して来たはずの人間です。聖書のヨブ記に鼻をかんで聖書を捨ててしまった時点で、「わたしも言うまい」と拒否されても、当然だったはずです。しかし、そのような私のために、主イエスが、なおも、御心を開き、憐れみ続け、説得し続け、遂に信仰へと導いて下さいました。何と言う忍耐でしょうか。憐れみであったでしょうか。キリスト者とは、この主イエスの恵みを受けた者たちに他なりません。だから、もう、イエスさまに不誠実な対応をしたくないのです。そう思って信仰の道を歩み始めているのです。しかし、なお、私どもは、自己中心であり、自己保身の者であることを知っています。だからこそ、今朝もここで、「主よ、憐れんで下さい」と祈るのです。

最後に確認しましょう。主イエスの権威とは、どのようなものなのでしょうか。主イエスの権威、神の権威、神からの権威とは、この世の権威と正反対です。この世の権威の方向性は、自己保身であり自分の利益を守ることです。しかし、主イエスの権威と自由は、その反対です。ひたすら人々の救いのために自らの命をお捨てになられる、犠牲にするという方向性です。主イエスは、確かに、祭司長たちに言葉では、「わたしも言うまい。」と仰せになられました。しかし、主イエスは、他ならない彼らのためにも、十字架について下さったのです。いったい、こんなに深い、広い、真実の愛が他のどこにあるでしょうか。

主の権威とは、私ども罪人を救うために発揮されるものなのです。神の権威と自由とは、私どもの救いへと向かう権威であり自由なのです。だからこそ、主イエスに敵対し、こんな罪深い私どもが救われたのです。そして、私どもは今朝、あらためて確認させられます。この主イエスの権威と自由に従うときだけ、私どももまた大胆な生き方、自由な生き方へと解き放たれるのです。

祈祷

主なる御神、私どもの信仰が、どれほど自分の先入観、価値観にとらわれ、そこから自由になれないものかと思います。そのようにして、自分に分からせてもらおうとする罪、分からせられなければ、あなたに責任があるかのようにふんぞり返る心の姿勢があります。主よ、赦して下さい。憐れんでください。あなたの主権と自由を畏れかしこむ謙虚な者としてください。そして、あなたの権威を畏れ、あなたの自由を喜ぶ者としてください。そのとき、私どもは、大胆に、自由に生きることができるからです。アーメン。