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キリスト復活による救いの宣言

  

「キリスト復活による救いの宣言」

      
2012年4月8日(復活祭)
テキスト ローマの信徒への手紙 第4章24~25節  

「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

実に、私どもの主イエス・キリストは死者の中からお甦りになられました。ご自身の十字架の死をもって、私どもの死を滅ぼして下さいました。あのゴルゴタの丘の上の十字架において、私どもの霊的な死、永遠の滅びとしての死を、木っ端みじんに吹き飛ばしてくださいました。今や、主イエスを信じ、主イエスに結ばれた人は誰でも、永遠の命を今、受けることができます。もはや、この肉体の死を死んでも、恐ろしいところに行きません。天の故郷へと、迎えられます。天の国へと、言わば、生れ出ることができます。そればかりではありません。やがてイエスさまがこの地上に来られる時には、新しい肉体へと復活させられて、永遠に主とともに、兄弟姉妹と共に生きることができます。

主の御名を心から賛美します。そして、今朝、この祝福が、ここに招かれたおひとりお一人の上に、成就しますように。

今朝は、この短い御言葉を読んで復活の祝いの礼拝式を捧げます。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」私は、今朝は、もう、この御言葉を朗読して、アーメンと言って終わってもよいのではないか。そのように思うほど圧倒的な、すばらしい救いの宣言がなされています。

私どもは2004年から2008年まで、ローマの信徒への手紙を講解説教で学びました。そこで、冒頭の第1章16節の御言葉が全体をひもとく鍵の言葉になると学びました。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

ここに、「福音」という言葉が登場します。福音とは、喜びの知らせという意味です。すばらしい知らせという意味です。聖書を通して神が告げて下さる知らせは、まさに、良い知らせなのです。

例えば、「今日は、皆様によいお知らせがあります。」先生が教室で、このように言われたとき、一瞬にして、わくわくしてしまった記憶があるかと思います。それなら、聖書のいう、善い知らせとは何のことなのでしょうか。人生にはさまざまな嬉しい知らせがあるでしょう。自分の願いがかなったときには、飛び上がるような喜びもあるでしょう。聖書に記されている神の福音、キリストの福音とは、実に、ありとあらゆる嬉しいこと、楽しいこととは比べ物にならないほどの決定的で、究極のよき知らせなのです。

それなら、聖書がいう福音とは、何のことなのでしょうか。パウロはこう言いました。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

つまり、信じる者すべてを救うということです。福音とは、救いなのです。それなら、その救いとは、何かです。それが、今朝の短い宣言に凝縮されています。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

先々週、私どもはマタイによる福音書の説教に於きまして、「山を動かす」ほどの信仰について学びました。そこで言われていた山とは何を意味するのでしょうか。改めて、思い起こしたいと思います。それは、人類の前に究極に立ちはだかる「山」のことを意味しています。たとえば、「この世の中に、絶対と言えることはないのだ」と言う方もいらっしゃいます。しかし、少なくとも、これだけは、絶対と言えるのは、人は死ぬということでしょう。例外がない事実です。その山を昇って、降りて帰ってくることを許さない山です。まさに、「死」こそは、山です。人類の究極の敵であると言っても過言ではありません。

パウロは言います。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」福音には、力がある、いへ、福音とは、力そのものなのだと宣言するのです。ギリシャ語で、この力のことを「デュナミス」と言います。19世紀、ノーベルが自分のつくったダイナマイトの威力を見て、「デュナミス」から取ったことは有名です。

福音の力の一つに、この破壊力があるということも、言えると思います。それは、山を崩して平地にしてしまうというイメージでしょうか。死という山、巨大な、究極の山を、吹き飛ばしてしまうわけです。人類の敵である死は、もはや、跡形もなくなったということです。

何故なら、人類にとって、死という究極の敵は、何故、敵となるかと申しますと、その中に、刺があるからです。肉体の死のその後が問題なのです。死とは、単なる肉体の死だけが問題になるのではありません。正真正銘の死こそが、問題なのです。それは、神の裁きとしての永遠の死です。滅びと申します。

しかし、この死という巨大な山は、今や、海の中に移し入れられ、沈められてしまったのです。いったい誰が、どのようにして死と言う山を乗り越えて行かれたのでしょうか。いうまでもなくそれは、主イエス・キリストご自身です。主イエスが私どもの身代わりになって苦難を受け、死んでくださった救いの出来事です。主イエスの十字架とご復活の御業のゆえに、山は動かされてしまったのです。あるいは、こうも言えます。死に含まれている刺は抜かれてしまいました。そこに含まれている猛毒は抜き取られてしまいました。

つまり、もはや、私どもの究極のこの「山」が既に海の中に動かされてしまったのですから、あるいは、平地になってしまったわけですから、わたしども、ひとり一人に今、立ちはだかる様々な小さな山、つまり、家庭の問題、会社の課題、試練などもまた、乗り越えて進み行くことが許されるのです。主イエスの勝利は、信じる私どもの勝利なのです。信じる私どもにも、ただ信じるだけで与えられる勝利なのです。だから、福音と言うわけです。

それなら、そもそも救いとは何でしょうか。キリスト教の言う救い、人間にとっての真の救いとは何でしょうか。それをきちんとわきまえることがなければ、信仰や宗教はおかしなところに行ってしまうでしょう。基本的に重要な、大前提です。いったい、救いとは何でしょうか。まさに今朝のテキストは、それを正面から答え、明らかにしているわけです。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

福音とは、救いとは、二つの出来事のことだというのです。主イエス・キリストの十字架とご復活の二つの御業によってなされたというのです。つまり、わたしたちの主イエス・キリストが、父なる神さまの力強い御手によって、私たちの罪の為に、十字架へと、死へと引き渡された歴史的な事実そのものです。そして同時に、父なる御神が、私たちを義とするために、その力強い御手によって、御子イエスさまを死者の中から、墓の中からご復活させられた歴史的な事実そのものです。十字架の死とお甦りの事実が、福音、良き知らせなのです。この二つの出来事こそが、キリスト教、教会のすべての根拠、土台です。これが、くずれれば、すべては空虚になるほど、十字架と復活こそ、私どもの救いの根拠です。

そして、この二つの出来事、十字架と復活による救いとは、何かです。この二つの短い言葉の中に、共通して出て来た言葉は、何でしょうか。最初の文章は、こうです。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」

次に、こう続きます。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

「わたしたちも義と認められる」「わたしたちが義とされる」二つの御言葉に共通して出てきたのは、「義」です。たしかに、義ということばは、我々の生活では、あまり聞かない言葉だと思います。しかし、聖書における救いを明らかにする言葉なのです。

イエスさまの十字架と復活は、すべて神さまの、天の父なる神さまのご意思、ご計画に基づくものであって、その目的はただ一つのことを目指してなされたのです。それこそ、私どもが義とされるため。私どもを義と認めるためなのです。

それなら、私どもの救いである義とは何でしょうか。それは、父なる神さまと私どもの間、その関係が正常化することです。本来のふさわしい姿に取り戻されることです。神と私どもとの正しい関係が回復されることです。つまり、義とは、神と私どもとの正しい関係のことです。それまでは、神を信じないで、自分を中心にして、自分を神にしていたのです。そのようにして、神の敵になっていたのです。ところが、神さまは、神さまの方から一方的に、敵となってしまった私どもとその罪を赦すために、御子イエスさまを、人とならせ、十字架につけて、私どもの代わりに罪を罰せられ、死をもって、御子を裁かれたのです。そして、死者の中から、墓のなかから甦らせられたのです。誰でも、どのような罪でも、そして、罪の本体、罪そのものであるのは、ひとつ一つの行為であるより、神を信じないこと、神に従わないことそのことに他なりません。神の敵になっていることです。父なる神を父として認めず、反抗して、このお方から遠くへ離れることです。しかし、神は、そのような罪人である私どもを、一方的に赦して下さったのです。それが、義とされるということです。神は、私どもを神の法廷の前で、あなたは、無罪ですと宣言してくださったのです。それが義とされることです。無罪だけではなく、神の子と認めるとさえ、宣告してくださったのです。

こして、私どもは、今や、神との間に罪のわだかまりが消し去られました。神さまとの間に、和解がなりたちました。今や、すがすがしい、喜びの関係、愛の関係、平和が打ち立てられたのです。これこそが、まことの救いです。

今朝、父なる神は、御子イエス・キリストを通して、聖霊によってこのパウロの言葉によって、私どもにも宣言されたのです。「あなたがたは、救われた。」「あなたは、もう死んでも大丈夫だ。肉体の死は、あなたを滅ぼすことはない。何故なら、あなたの罪はすべてイエスによって贖われたから。赦されたから。だから、あなたは神の子なのだ。あなたは、救われた。」これが、この御言葉を通して、神が高らかに約束された内容です。

本日、洗礼を受けた○○兄弟は、洗礼という「目に見える神の言葉」によって、今朝、この赦しの宣言、救いの宣言を見ました。今朝は、ご本人だけ、身体ごと味わったわけです。

洗礼の礼典とは、主イエスの十字架の死に結ばれることです。つまり、古い自分が死ぬと言う意味です。洗礼を受けた人は、主イエスによって一度死んでしまったということです。言わば、お葬式なのです。このお葬式を経た人は、もはや、肉体の死を迎えても、恐れることはまったくありません。それは、新しい神の国への旅立ちになるからです。天国へと生まれ出て行くわけです。洗礼とはまた、主イエスのご復活と結ばれることだからです。

そして、それを見ていました、私どももまた、既に洗礼を受けた者たちです。そして、自分が洗礼を受けたことを、もう一度、思い起こし、救いにあずかっている幸いをかみしめることが許されました。その意味で、まさに、洗礼という礼典もまた、教会の礼典、教会共同体を建てあげる恵みの手段であることを思います。彼だけが祝福を受けたというよりも、ここに共にあずかった私どももまた、自分自身に与えられた洗礼の恵みを新しくさせられ、深められたのです。

そして、○○兄弟は、この後、ただちに、私どもと共に、聖餐の礼典にあずかります。これからは、毎週の主の日の礼拝式のたびに説教とさらに聖餐の礼典にあずかることができます。そして、そこで、繰り返し、毎回、父なる神の宣言を聞き続けることが許されるのです。「あなたのすべての罪は赦された。あなたは、わたしの前に義とされている。あなたは、救われている。あなたはわたしの愛する子どもだ。あなたは、わたしの宝物だ。」

祈祷

天の父よ、あなたは、御子主イエス・キリストを死者の中から甦らせてくださり、私どもに罪の赦し、あなたとの間に何のわだかまりもない、正しい、良い関係を築いてくださいました。心から感謝いたします。どうぞ、洗礼を受けた私どもが常に、この福音の恵みに感謝し、確信をもって、大胆に、いかなる山をも、乗り越えて進むことを得させて下さい。その歩みが、私どもの隣人の救いとなるために、教会を建てあげるために、どうぞ、用いて下さい。アーメン。