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考え直す幸い

  

「考え直す幸い」

                    
2012年4月15日
マタイによる福音書 第21章28~32節

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

先週は、まことに幸いな復活祭を祝うことができました。洗礼入会式、伝道所委員就任式、そして聖餐の礼典の恵みにみんなであずかりました。

そして、復活の主イエス・キリストから、「おはよう」の挨拶を聴くことができました。つまり、「あなたの罪は赦された。あなたは、神の子どもです。あなたは、神の御顔の前に義とされました」この救いの宣言を聴くこともできました。本当に幸いでした。そして、それは、先週だけではありません。今朝もまた、私どもは、御言葉を通して、その福音の言葉を聴くことが許されています。

さて、先週の復活祭から、教会の暦から申しますと、復活節が始まりました。しかし、今朝、与えられている聖書の個所は、主イエス・キリストの最後の日々、いわゆる受難週の歩みについての物語です。

先回の説教で、このようなことを申しました。お相撲さんが体と体とをぶつけあうときに、すごい音がでるのですが、主イエスは、宗教指導者たちと、まさにここで、激突しています。その激突が始まっています。今朝もまた、そのような強烈な説教がなされています。譬え話が用いられていますが、そこで、語られていることは、痛烈な宗教指導者たちへの批判であります。

さて、ここで語られている譬え話は、とても単純です。読めばまさにその通りのことです。誰にもお分かりになると思うのです。

あるぶどう園の農場主に二人の息子がいました。父親は、先ず兄のところに行き、「息子よ、今日、今からわたしのぶどう園に行って働きなさい」と命じられました。兄は、なんと最初「いやです。」と答えます。しかし、彼は、後になって考え直します。どのようなことを考えたのかは、記されていません。しかし、ぶどう園に行くのです。

父親は、兄に断られたからなのか、最初から決めていたのかは、記されていませんが、弟のところにも行きます。そして、同じように、「息子よ、今日、今からわたしのぶどう園に行って働きなさい」と命じられます。すると、弟は、「お父さん、承知しました。」と答えます。とても恭しく、「お父さま、かしこまりました」という感じです。ところが、なんと、彼は、言ったようにはしなかったのです。

これは、天国の譬え話に他なりません。ぶどう園とは、天国の譬えに他なりません。主イエスが、この天国の説教を、誰にしたのでしょうか。これこそ、決定的に大切です。祭司長、民の長老たちです。主イエスは、ここで、彼らに質問します。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らに問うのです。答えさせるのです。これこそが、マタイによる福音書によれば、主イエスのご目的なのです。宗教指導者は、当然のことながら、「兄の方です」と答えます。考えるまでもないことです。

そして、主イエスは、この返事を待って、ものすごいことを宣言なさったのです。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」徴税人も娼婦も、ユダヤ社会では、犯罪者です。極悪人と言っても言い過ぎではないほど、人々から蔑まれていた人たちなのです。そのような人々の方が、ユダヤ社会の権力者、指導者たちより、先に「神の国に入る」。あまりにも、過激な宣言と言わざるを得ないと思います。当時の社会常識をひっくり返す宣言です。

それなら、何故、徴税人や娼婦たちの方が、宗教家たちより先に神の国に入ることができるのでしょうか。これも、明快です。徴税人や娼婦たちが、最初は、「いやです。」「そんな必要ありません」「間にあっています。」「今は、それどころではありません。」いろいろな理由をつけて、拒否したわけです。しかし、彼らは、後で考え直します。この「後で考え直す」という言葉が、ここでの主イエスの説教の鍵です。二度ほどでてきます。「後で考え直す」という御言葉は、聖書の救いの教え、救いの教理の中で、もっとも重要な言葉の一つです。つまり、「悔い改める」(メタノイア・メタメレセーテ)という言葉が用いられているのです。最初は、神さまの救いへの招きに対して、拒否し、拒絶していた人々、つまり、それは、どこからどうみても、神の国とは縁遠い生き方、あり方、人生を送っていた人々が、その生き方を後から悔い改め、つまり、神へと方向を転換したということです。そして、悔い改めるということは、具体的な行動を起こすことに通じるとここで明らかにされます。神の前に悔い改めるということは、単に、心の中の事柄ではないということが示されています。「いやです。行きません」と言ったのを撤回して、「行きます。」と行動を起こすことです。

しかし、彼らは、その反対に、「お父さん、承知しました。」と恭しく答えました。つまり、神さまを敬虔な思いで信じ、その御言葉に従順に従うそぶりを見せていたのです。誰が、見ても、そのような敬虔な、信心深い評価を下されるような、信仰者です。彼らは、信仰の指導者を自認していたわけです。

ここで、聖書が明らかにすることは、信じることと従うこととは、一つの事だと言う理解です。あるいは、信じることと行うこととは、一つのことであるという聖書のメッセージです。口先で、「はい」と言っても、それを実行しなければ、意味がないわけです。神の御心に即す、御心に従うということは、口先でどれほど恭しく、「お父さん、承知しました。はい」と返事をしても、それを実行しなければ意味がないのです。

ただし、とても分かりやすい、本当に誰でもうなずける譬え話だけに、丁寧に考えたいと思います。ここでは、父なる神さまのご命令を受けて、ぶどう園に行って働くというこの譬え話です。働くには、力が必要です。健康な肉体でなければ、やはり難しいと思います。そうなると、もしかすると誤解が生じるかもしれません。信仰というのは、やっぱり力がいるのか、やはりそこにはある程度の労働力とか能力とか、収穫を挙げられる力と奉仕が必要なのかということです。「ああそうか、なるほど、信仰とは、口先だけではだめで、行いが伴わなければならない、確かにその通りだ。けれども、自分を反省すると、立派な行いなど、自分には、程遠い。ぶどう園でバリバリ働くような力は、自分にはない。」

しかし、ここでの説教は、あくまでもたとえです。ここでこそ、じっくりと丁寧に考えたいのです。天の父なる神さまは、私どもの心を、ただ心だけをご覧になられます。それを評価なさるのです。神は、私どもの心をご覧になられるのです。それは、どれほど深いことでしょうか。

この心とは、実は、私ども自身も、自分のことですが、よく分からないことがあります。言葉と思いとが、結びつかないこともよくあることです。思っていることと、まったく反対のことを言ってしまった。そのような経験を、誰しもお持ちではないでしょうか。

あるいは、心にも、ある深さがあります。自分でも気づかない自分の本心があるのです。言わば、心のうわべと本当の真心の違いがあると思います。何で、あんなことを言ってしまったのだろう。言っている自分が嫌になる。そのような経験もまた、誰しもお持ちではないでしょうか。

しかし、神さまは、天のお父さまは、そのような私どもの真心を見ておられます。神の御心は、深いのです。天のお父さまの真心、親心は、子どもの心の奥の奥、底の底まで見ておられます。私どもが、自分のある部分が弱くなり、病んでいるとき、決してぶどう園で、元気に、バリバリと仕事はできません。当然のことです。それなら、行きますと言っても、行けないときはどうなるのでしょうか。それは、何も心配いりません。神さまは、ちゃんと、分かって下さいます。キリスト者の幸いは、自分の心を神さまがちゃんと分かっていて下さるのだと言う信頼、愛に生きることができるところにあります。

兄は、それに気づくのです。お父さんの気持ち、心を受けとめて、そして、立ちあがったのです。私どももまた、そのような心において、天のお父さまのお心を知り、尊び、お心を大切にしたいのです。そのような人だけが、神の国に入るのです。まさに、行いによって、神の国に入るのではなく、信仰によって、言葉を換えれば愛によって入るのです。

天の父の御心を行う。それは、どのような行為なのでしょうか。そのことを見事に言い表したのは、他ならない福音を説き明かした使徒パウロのコリントの信徒への手紙Ⅰ第13章にあります。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」

そしてこの愛とは、まさに主イエスの愛であり、主イエス・キリスト御自身のことです。御心を行うとは、結局、神を愛し、隣人を愛することに他なりません。ただ、それだけが、山上の説教の生き方なのです。そして、それは、私どもの内側を振り絞って、絞り出せるようなものではまったくありません。この愛の行いは、奉仕は、伝道は、ディアコニアの力と実践は、主の救い、主イエスの恵みによってのみ与えられるものなのです。

だからこそ、主イエスは呼びかけられました。「求めよ!探せ!叩け!」そのようにして、主の愛を豊かに受けるようにとの招きです。私どもは、御言葉の恵みに与るときだけ、御心を行う者とされるからです。父なる神に、子どもとして愛され、恵まれ、施され、優しくされるとき、そのときだけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもできるようになるのです。

私たち一般の世界では、たとい誰も見ていなくても、自分の良心に恥じないように、行動することこそ、人間性の最高の境地だと言われています。本当に、そうだと思います。

ただしキリスト者としては、そのような境地で生きることはできないし、する必要もありません。むしろ、主イエスが、聖書が何度も語り、約束してくださるのは、神の御前で、それらはなされ、評価されるということであります。キリスト者は、ただ、自分の良心に従って、よき働きを担う、奉仕に励むのではないのです。このこともまた、神のため、そして、神が顧みて下さるからこそ、そっと、誰にも知られずとも、この地上の困難な労苦を担えるのです。だからこそそこで、神の国が重要になります。天国への希望と信頼とに対する重みが決定的に出るのです。

主イエスは、ここで、徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入るだろうと、宣言されました。ここでは、「入るだろう」と訳されています。しかし、これは、本来、現在形なのです。したがって、「もう先に神の国に入っている」という意味なのです。何故、もう神の国に入っていることになるのでしょうか。それは、他ならない、神の国のあるじでいらっしゃる、主イエスがその場にいらっしゃるからです。主イエスと共に生きているからです。つまり、神の国、天国とは、主イエス・キリストによってすでに地上に到来しているということです。そして、それは、主イエスが天に戻られた後では、地上に起こされたキリストの教会において、実現しています。21世紀の今、教会においていよいよ拡大し、展開されているわけです。つまり、教会に生きるということ、そのことこそ、神の国に入ることになるのです。今、それが実現しているのです。将に、現在形、現在進行形なのです。もとより、地上の教会は天上の神の国のように完成されていませんから、常に悩みがあり、戦いがあります。祝福と同時につねに試練を受けます。その意味で、通常の場合、人は、教会を離れて、キリストに仕え、キリストにある兄弟姉妹と共に生きる道はないことになるはずです。

神の国に入れられているこの喜びと安心感があるからこそ、私どもは、神の国で働き始められるのです。ぶどう園でどれだけ、働いて、収穫を得られたのかということは、私どもが心配する必要は、ほとんどありません。それは、いうなれば、お父さんが心配なさる領域です。私どもも、子どもであっても、時に、親の経済のことを心配することはあるでしょう。あんまり苦労をかけてはだめだと思う親孝行な人もいるでしょう。でも、天のお父さまが、本当に、子の世界を完全に救うことができるのだろうか。本当に、この堕落して、汚れ切ってしまった世界は、完成できるのだろうか。それは、余計な心配です。私どもが心配することは、まさに余計です。不信仰です。私どもは、すでにぶどう園に入っているのです。そこが、大切です。このことに対して、どれほど、驚き、喜び、感謝しているのか、それが大切です。あとは、かなり乱暴な言い方ですが、主にお任せしてしまえばよいのです。自分ができることを、無心に、ひたすらにしていれば、よいのです。

最後に、主イエスは、この説教でなければ伝えられない固有のメッセージを語っておられます。そうでなければ、わざわざマタイによる福音書はここに記さなかったと思います。それは、ぶどう園つまり、教会に行きなさい。教会に来なさい、そこで、父なる神と共に、天のお父さまのために、つまりは、主イエスと共に、隣人のために奉仕しなさい、ディアコニアに生きなさいと招かれた人が、たとい、最初は、強く、「いやです」と断ったとしても、神さまの愛を拒絶したとしても、それだけで、神の国から排除されることは、決してないのだということです。つまり、後で考え直す、悔い改めるチャンスがあると言うことです。そのようにして、ぶどう園に行くことができるのです。

主イエスは、決してこのような譬えを語っておられません。天のお父さまが、最初に、「教会なんて、わたしには関係ない。」と拒絶した人には、もう、二度と、チャンスはない。そんなことは、語られていません。「あなたは、わたしがわざわざ、ここに呼んで、働きなさいと招いてあげたのにもかかわらず、いやだ、働きたくない、わたしのところに来たくないと拒否したことを、決して忘れていない。今更、やってきて働かせて下さいと、願っても、もう、遅い。ダメだ。」そのようなことは、決して仰いません。むしろ、正反対です。たとい、いやだと言っても、後で考え直せばよいのです。

むしろ、弟のように、「お父さん、承知しました。」このように恭しく、まさに丁寧に約束しておきながら、実際には、出かけなかった方が、拒否されるのです。つまり、宗教指導者であり、広く言えば、主イエスを十字架につけるように要求したユダヤ人のことでもあります。

わたしは、今朝の譬え話の中の、この一言に注目したいと思います。注目すべきだと思うのです。「先に」という一言です。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」

先にという一字の故に、後で入ると言う可能性が残っているのではないでしょうか。主イエスは、そのようにして、ここで、なお、祭司長や律法学者たちにすら救いの道を開いて、待っておられるのです。

ここで、彼らが裁かれたのは、洗礼者ヨハネとの関わりについてでした。主イエスは仰います。*「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」*つまり、こういうことです。洗礼者ヨハネの時は、考え直さなかったけれども、まだ、チャンスは残っているということです。つまり、洗礼者ヨハネとは比べられない、救い主ご自身でいらっしゃるイエスさまとの関わりが、残っているからです。最後の、まさに最後のチャンスがあるのです。洗礼者ヨハネで失敗しても、まだ、大丈夫なのです。

このような主イエスの説教を通して、分かることがあるだろうと思います。主イエスはここで、宗教指導者たち、権力者たちをただ批判して、対決するだけではないのです。主イエスがなさる対決とは、ただひたすら愛の対決なのです。権力者たちがしている、そして最後にしたのは、単なる憎しみと妬みの対決でした。どんなことをしても、どんな方法でも構わないからとにかく、ナザレのイエスを殺してしまわなければ、この国の安定も、神の正義も成り立たないのだ、あいつは、我々の権威を打ち壊すだけの憎い敵でしかない。それが、彼らの思いです。ところが、主イエスがここで、彼らに対決なさるのは、そのような彼らに、「後で考えなおして、イエスさまを主と信じさせるため」救おうとするためなのです。イエスさまは、徹底的に、彼らを愛し、愛の戦いを挑んでおられるのです。

最後に、私どもキリスト者は、いかがでしょうか。おそらく何度も、弟の経験を繰り返しているのかもしれません。つまり、私どももまた、神と教会の前に、「行きます」と誓約した者たちに他なりません。教会人であるキリスト者は、誰でも必ずその出発のとき、誓約したはずです。先週の洗礼入会式、伝道所委員就任式を思いだして下さい。教会は、誓約を求めます。そして、「神と教会との前に謹んで誓約致します。」と応答して、教会生活は始まったのです。しかし、私どもは、すぐに気づき始めます。いったい、自分は、今日まで、どれほど、あのときの誓約に真実、誠実であったのでしょうか。私どもは、「行きます」と答えながら、行かなかったこともあったのではないでしょうか。

しかし、そのような私どもにとって、決定的に重要な事実があります。それは、今朝、この主イエスの御言葉を聴けたことです。語りかけられた事実です。つまり、今なお、後で考え直すチャンス、悔い改める機会が、新しく与えられたということです。

わたしはここで、教会の改革者マルチン・ルターの改革のための第一声をあらためて思い起こします。95カ条に記されたその第一条は、このような文章でした。

「われわれの主であり師でありたもうイエス・キリストが、『悔い改めよ、云々』と言われたときに、彼は信仰者の全生涯が悔い改めの行為でなければならない、ということを意味されたのである」

これは、ルターだけの主張ではありません。私どももまったく同じです。マタイによる福音書第4章17節を、もう一度、聴きましょう。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これが、主イエスのメッセージの骨格だと学び続けて来ました。主イエスがマタイによる福音書の全体で呼びかけられたのは、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」に尽きるのです。

今朝、私どもは、考え直す幸いを学びました。つまり、悔い改めることです。そしてこの悔い改めるということは、洗礼入会志願者が洗礼の前に一度だけするようなものでは、まったくないのです。キリスト者の全生涯が、絶えず、悔い改めになるのです。主の日のたびに、私どもはここで考え直します。悔い改めます。そして、あたらしい出発をするのです。父なる神の御心を悟り、主イエスの赦しを信じて、今朝もここから新しく始めましょう。

祈祷

天のお父さま、私どもは実にしばしば、兄ではなく、弟のように口で「はい」と言いながら、実行しません。まことに罪人です。主よ、どうぞ憐れんでください。そして、今朝、私どもに考え直す心を新しくつくって下さい。悔い改めの恵みを与えて下さい。そして、ぶどう園において、教会において、あなたのために、あなたと共に、喜んで、感謝をもっていそしむ者とならせて下さい。あなたの赦し、聖霊の力を心から信じ、感謝致します。アーメン。