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命をかけた主イエスの説教

  

「命をかけた主イエスの説教」

       

2012年4月22日
マタイによる福音書 第21章33~46節

「もう一つのたとえを聞きなさい。
ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」

今朝もまた、私は、本当に不思議な思いが致します。この小さな礼拝堂、小さな教会に、いつもは別々の場所で、ある意味では、バラバラになって過ごしていた者たちが、一つに集まっているからです。

先週の週報に、ひとりの仲間のことを記しました。福島県浪江町の方とこの名古屋市緑区の、しかも私どもの教会で、出会うことが許されています。私には、まさに奇跡のように思えます。そうであれば、今、私は、ここに集まったと申しましたが、それは、間違いでしょう。むしろ、父なる神が、まさに、私どもの名前を呼んで、ここに来なさいとお招き下さったからに他なりません。集められたと言うべきです。

4月8日の復活祭での説教で、私どもはご復活された主イエスが、心を込めて宣言された御言葉、「おはよう」の挨拶を学びました。今朝も、わたしもまた、皆様にこの主イエス・キリストからの宣言を、心を込めてお伝えできるようにと願っています。「おはよう」とは、「安心しなさい。あなたの罪は赦され、あなたは神の子どもとされました。あなたは、わたしの愛する子どもです。」このような救いの宣言に他なりません。お一人おひとりに主の平和がありますように。

さて、今朝、与えられた御言葉は、実に厳しい御言葉です。主イエスと祭司長たちと民の長老たち、ファリサイ派の人々とが、まさに、激突という言葉がふさわしいほど、向かい合っています。宗教指導者たちは、何としてもイエスさまを、殺してしまおうとの決意を固めるのです。そして、主イエスは、彼らのその憎しみ、その殺意を知りながらも、決して、逃げられません。当然のことですが、問題をはぐらかしたり、先送りしてしまったり、うまく取り入ってしまおうなどとは決してなさいません。まさに、主イエスは、彼らの思いを見抜かれて、その彼らと真実に向き合っておられるのです。つまり、ここで何度でも確認しておきたいことがあります。それは、この対決、この激突とは、主イエスの深い愛に基づいているということです。主イエスの激しい愛、憐れみの御心から生じているということ以外のなにものでもないのです。

それは、先週のおさらいでもあります。主イエスは、何としても、宗教指導者たちに、「後で考え直して」もらいたいからです。それは、自分を殺すことを考えなおしてもらいたいと言うこと以上のことです。後で考え直すとは、自分の信仰の心の向きを神さまに向き直すということです。悔い改めるという事なのです。正しく信じるということです。要するに彼らは、神を正しく信じていないと、主イエスがご指摘なさったのです。正しく信じていないということは、信じていないということです。もとより、彼らはれっきとした宗教家であり、指導者です。神とその御言葉を重んじていることを自負しています。しかし、肝心の神の御子イエスさまからみれば、ご自身の父なる神、ご自身の言葉をまったく理解していないのです。誤解しているのです。従っていないのです。だから、主イエスは、ここで、本来の神の言葉に従順になって欲しい、なりなさいと呼びかけていらっしゃるのです。自分を中心に神や宗教をあれこれと議論し、主張するのではなく、まさに神を中心にして、神ご自身を真正面にして、生きること、これが、悔い改めるということです。信じるということなのです。

そのために今、主イエスは、先週に引き続いて、ものすごい譬え話を始められます。ほんとうに、ものすごいと思います。もはや、これは譬え話ではないと思います。誰が聞いても、つまり、信仰がなくても、このお話が意味していることは、明らかだと思うからです。

話は、このように始まります。「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。」先週に続いて、ここでもぶどう園が出てまいります。ぶどう園とは、神が主としての権威、支配なさっているすべての場所、つまりこの世界のすべてを含んでいます。そして、このぶどう園を主人から貸していただいた農夫たちとは、誰のことでしょうか。それこそ、イスラエルという民族、神の民です。少し長い引用になりますが、旧約聖書イザヤ書第5章1節から7節にこうあります。 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 ~ イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。」つまり、良いブドウが実るのをまっていたのに、実ったのは、酸っぱいブドウだったというのです。神の民イスラエルは、主イエスが語られる700年以上も前に、このような神の御言葉を預言者イザヤを通して聞かされていたわけです。

それなら、「収穫」とは何でしょうか。それは、信仰です。御言葉に従って生きる結果のことであり、結実のことです。祝福されたすばらしい人生と言ってもよいのです。信仰によって豊かな人間となって、天国を目指して喜びに満たされて歩む生涯のことです。しかもその収穫とは、自分たちじしんのものとされ、同時に、神ご自身への感謝として、神に受け入れられさへするのです。こんなにありがたい恵み、幸いがあるでしょうか。

神は、その収穫を求めてこそ、神が選ばれ、立てられた僕たちを、イスラエル、つまり神の民に派遣されました。分かりやすく言ってしまえば、旧約聖書に登場する数々の預言者たちのことを指し示しています。彼らは、神からの言葉を預かって、その折々に、神の民が御言葉に立ち帰り、御言葉に従って生きるように御言葉を語り告げました。

しかし、主イエスのお話はこう続きます。*「だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。」*つまり、何人もの神さまの僕たちを恐ろしい目に合わせて、追い出してしまった、つまり殺してしまったのです。旧約聖書の預言書を読めば分かる通り、イザヤもエレミヤもエゼキエルも、農夫たち、イスラエルの人々に歓迎されることはなかったのです。

さて、いつものように申します。ここで問題なのは、昔のお話なのではありません。今の時代、主イエスがこれを語られたその今こそ、農夫たちは同じことをしているのです。つまり、主イエスの弟子たちを、彼らは、受け入れません。「田舎者の集団だ。教養のない集団だ。マタイのような徴税人という犯罪者、熱心党員と言われる過激な政治団体の一員であったシモンというような危険人物も加わっている。あんなイエスの弟子たちの言うことなどに、自分たちのような指導者、エリートが、耳をかすような相手ではない。」彼らは、嘲笑い、拒否しました。

お話はなお続きます。「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」

もう、誰が読んでも明らかではないでしょうか。息子とは誰のことでしょうか。主人の息子、つまり、神の息子です。それは、御子なる神でいらっしゃる主イエス・キリストに他なりません。彼らは、今、このイエスを殺そうとしているのです。しかも、主イエスは、その事実を見抜いておられます。そして、はっきりと、彼らがすぐにしようとしている企ての意味を、暴かれるのです。そして、事実、主イエスは、このわずか数日の後、エルサレムの外に放り出されます。ゴルゴタ、骸骨の丘と呼ばれる処刑場で十字架につけられて殺されるわけです。

そのような主イエスが、彼らじしんに答えさせなさいます。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」彼らは、無邪気に、自分の気持ちを語ります。「そんな悪い農夫など、農園主であれば、もっとひどい目に遭わせて殺してしまうだろう。そうするのが当然だ。」さらに言います。「そのぶどう園は、*季節ごとに収穫を納めるほかの農夫*つまり、当たり前の農夫に貸すに違いない。」彼らもまた、そのような農夫の振る舞いがどれほどあくどいものであるのか、分かっています。しかし、彼らは、自分たちは、そんなことをしていないと、考えているのです。そこが問題です。そこが根本的な間違いです。自分のことなのに、気づかないのです。こんなにはっきりしたお話を聞きながら、自分たちが愚かな、悪い農夫であることを否定するのです。
「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」つまり、まったく悔い改めようとしません。もう、この場で逮捕してしまおうと考えているのです。ただし、群衆の反発が恐ろしかったのです。ただそれだけが、逮捕しなかった理由です。つまり、彼らは、後で、群衆を扇動します。それさへ、できれば、たちまち殺してしまおうと考えたのです。

さて、最初の問いに戻ります。いったい、主イエスは、何故、このお話をなさったのでしょうか。一言で言えば、それは、彼らを愛しているからです。何としても、本来あるべき信仰へと導こうとするためです。彼らは、聞く耳を持ちません。目がつぶっています。神の真理、聖書の真理、霊的な真理を悟りません。ですから、根本的な間違いを犯しながら、自分たちこそが、正しいと考えるのです。なんという愚かさ、恐ろしさでしょうか。

それなら私どもは、この物語をどのように読むのでしょうか。読むべきでしょうか。私どもはこの物語を単なる昔の物語として読むことは許されません。むしろ、自分たちの物語として、読むべきです。それこそが、聖書を読むということの意味です。それなら、今日のぶどう園とは、何を意味するのでしょうか。それは、先ず、この世界そのものです。

主イエスは、マタイによる福音書で何度もぶどう園の譬え話をなさいます。そして、そのぶどう園のオーナーについてお話されます。農場主です。そして、それは、明らかに、神さまのたとえです。父なる神が、この世界を創造されました。それが、聖書の根本的な主張です。私どもが毎週唱えるニカヤ信条もまた、その冒頭で、このように告白し、神を賛美しています。「我らは、天と地と、すべての見えるものと見えざるものとの創造者にして、すべての主権を持ちたもう父なる、唯一の神を信ず。」これは、まさに聖書の信仰の土台です。すべてのキリストの教会がこのように聖書の信仰を告白します。しかし、問題は、それを告白するなら、その教会とその会員、キリスト者たちはどのようにこの世界において生きるべきかということです。そこまで問わなければ、ほとんど意味がなくなってしまうかもしれません。創造者なる神を信じるとは、キリスト者をして、どのような生活、生き方へと導くのでしょうか。世界の主権者は、父なる唯一の神さまにあるのだと信じ、告白する人々は、どのようにこの世界に向き合うのでしょうか。

現代のまさに一分一秒を争わなければならない問題がここにあるのではないでしょうか。先週、久しぶりに朝の祈祷会で、祈りの分団に入りました。そこで、祈祷課題として挙げられている世界の平和・正義・環境・福祉のための祈りを執り成し祈られる方の祈りを聴きました。それは、福島第一原発の収束のための祈りでした。活断層が縦横にめぐらしているようなこの地震の国に、原子力発電所が存在していることの恐ろしさを思います。そこで問題になるのは、この世界の主権者、もっと言えば、所有者は誰なのかという問題です。先週のトップニュースにもなった尖閣諸島の所有者は誰なのかという問題にもまったく通じます。聖書が明らかにする真理、答えは明白、明瞭です。この世界は、神の所有なのです。神さまのものなのです。神さまのものなのに、神が目に見えないということで、人間がその支配権を略奪している、奪っているこれが、我々の世界なのです。福島も沖縄も、そこに住む人々のものだということは、当然のことです。しかし、私どもはそこで留まっているなら、おそらく力のある人々、経済力、政治力、影響力の強い人々に負けてしまうはずです。沖縄も福島も、力のある人々、国家権力の物とされてしまうのです。聖書は、言います。この国もどの国も、神のものなのです。この地球は、神の作品であり、神のものです。宇宙は、神の作品であり、神のものなのです。それを管理させていただいているのが、他ならない農夫である私どもなのです。農夫は、主人からあずかっているだけです。しかも、この主人は、農夫から無謀な実りを求めているわけではありません。ただ、信仰を求めておられるのです。しかも、その信仰こそ、農夫たちを祝福し、幸いにし、健康にするためのものに他なりません。農夫たちに喜びと自由、感謝と平和をもたらすパイプに他ならないのです。決して、無謀な利益や収益を求めておられるのではありません。

天の父なる神は、この地上に、人間が生きるためにすばらしい実りを豊かに与えていて下さいます。テモテへの手紙Ⅰ第6章17節にこうあります。*「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」*神は、まことに豊かなブドウ園を、私どもにお造りくださり、その実りを豊かに与えて楽しませて下さるお方なのです。決して、資本主義経済のように、主人が農夫の実りを奪い取るのではないのです。しかし今、悪い農夫たちは、思いあがり、傲慢になり、自分たちの利益を得るために、大地を汚し、海を汚し、空気を汚しています。政府は、それを、とどめる決断も下せないのです。わたし自身は、震災前にこの罪を、指摘することもなく、やり過ごした罪人であります。

ぶどう園はまた、キリストの教会に他なりません。教会自らの罪についても、悔い改めなければなりません。教会こそ、キリストの教会のはずです。神の教会です。しかし、私どもは、どれほど、それを真剣に考えているのでしょうか。結局のところ、この世界と同じ論理、考え方に流されて行くことはないでしょうか。つまり、教会を、教会に生きている、言い方を換えれば、住民となっているキリスト者を主人公にする考え方です。これも根本的な間違いです。教会を自分たちに合わせようとするのです。それは結局のところ、教会を世界にしてしまうことです。神の教会を、この世に戻そうとすることです。もとより、キリスト教的な雰囲気だけなら何も問題はないのです。しかし、それが、聖書の御言葉、神の御言葉への従順、服従となるときに、問題になるわけです。御言葉を何とか自分に引き寄せ、自分が変わるのではなく、相手が変わること、教会が変わることを求めるわけです。それもまた、悪い農夫の実例です。

しかも、この農夫を代表するのは、指導者たちです。私どもで言えば、牧師、長老、執事、教会役員のことでしょう。彼らこそ、悪い農夫となる危険性が極めて高いのです。ここで主イエスが戦ってくださった宗教指導者たちと同じ考え方、論理に流れやすいからです。キリストの教会の指導者たちは、僕でしかないのです。第20章28節で主イエスが、語られた、この極めて重要な御言葉をここでこそ、思い起こしたいと思います。「あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、つまりイエスさまが、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
主イエスは、今、ここで、まさにごじぶんの命をかけて説教してくださっています。「あなたがたは、わたしを殺そうとしている、しかし、わたしは、だからと言って、あなたがたから逃げない。逃げないのは、あなた方を打ち倒すためではない。ただ、あなた方を悔い改めさせ、まことの信仰へ、救いの道へと導きたいからだ。」これが、主イエスの真心です。

今朝は、もう、時間もありません、祈祷会で触れたいと思います。42節では、イザヤ書の預言が語られました。そして、神の裁きが語られます。しかし、それは、単なる裁きや怒りではありません。彼らへの呪いであるはずもありません。主イエスは、命をかけて彼らを愛しておられるのです。ご自身の命を狙う究極の敵をも愛しておられるのです。

最後に、主イエスのこの警告の言葉を読みます。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

恐るべき裁きの予告です。しかし、この裁きを徹底的にお受けになられたのは、いったどなたであったのでしょうか。その方こそ、他ならないイエスさまです。主イエス・キリストこそが、十字架で、不信仰の罪の故ではなく、彼らの、つまり、私どもの罪の身代わりになって、打ち砕かれ、押しつぶされてしまわれたのです。このキリストの死、キリストの十字架の故に、私どもの罪が贖われ、償われ、赦されたのです。

主イエスの説教は、実はそのすべてが命がけなのです。ヘブライの信徒への手紙第9章に、このような御言葉があります。「遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。」つまり、主イエスの説教はすべて遺言なのです。いのちがかかっていたのです。そして、このお方が死なれたこと、まさに十字架によって、主イエスの説教は効力を発揮したのです。

今、私どもは、この主イエスの愛の対決を私どもも体験しているのです。もっともっと深く、味わいたいのです。私どもは今ここで、主イエスに向き合って頂いています。そうであれば、私どもも心を開いて、主イエスに向き合いましょう。そして、私どもの心を主イエスへと、父なる神へと転回させていただきましょう。方向をかえさせて頂きましょう。不従順ではなく、従順にしていただきましょう。そのとき、私どもは今週もまた、神のつくられ、支配しておられる世界の中で、家庭で、職場で、教会で、神を「あるじ」と信じ、その信仰の理解に立って、健やかで謙遜な信仰者の歩みを進めることができるのです。

祈祷

天と地の創造者でいらっしゃり、すべてを所有し、御手の内に治めておられる全能の父なる御神、私どもを、あなたのよいもので楽しませて下さる恵みの神よ。私どもは、与えられたもので満足せずに、あなたのものを自分のものであるかのように思いあがり、文明を誇ってまいりました。しかし、そのおごりによって、私どもは裁かれています。主よ、憐れんで下さい。そして、私どものおごり、傲慢をくじき、よい農夫とならせて下さい。教会こそ、御子イエス・キリストを頭として、神の教会としなければなりません。主イエスよ、私どもの教会を、わがままや罪と戦い、キリストだけを主と告白する堅固で、やわらなか教会として形成し続けて下さい。そして、あなたの恵みと愛に満ち溢れる教会として、聖霊の力溢れる教会として建て上げて下さい。アーメン。