過去の投稿2012年4月26日

「あなたひとりのために」


「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」  マタイによる福音書第18章12節~14節

 久しぶりに朝のチャペルにお招きいただき、皆さまと共に、神の御言葉を聴いて、礼拝を捧げることができますことを感謝します。1年生の皆さんが多いと思いますが、神さまは、キリスト教主義の金城学院大学入学の道を開いてくださいました。積極的に、聖書を学び、体験していただきたいと心から願っています。
 皆さんは、キリスト教学が必修です。すばらしいチャンスが与えられています。聖書を正しく、深く学ぶこと、それを神学と言います。キリスト教学では、自分じしんについて、生きる場所であるこの世界の本質について根本的な学びを提供してくれるはずです。聖書、神学を学ぶなら、必ず、皆さん自身とその人生はすばらしいものへと変容させられて行きます。これこそ、皆さんの特権と言っても言い過ぎではありません。

 さて、ある日、イエスさまは、弟子たちに、さらりと、こう語られ、また問いかけられました。「わたしの弟子たちよ、ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出たその一匹を何としても捜しに行かないだろうか。あなたたちは、どう思いますか。必ず捜しに行きますね。」
 しかし、考えてみますととても不思議な問いかけではないでしょうか。そもそも、主イエスが断言なさった99匹を野原に残して、迷い出た一匹を捜しに出かけて行くということは、わたしたちにとって常識的なことでしょうか。常識から言えば、こうなるだろうと思います。「残念だけれど、1匹は諦めるしかありません。むしろ、99匹を守るために、ここにとどまるべきです。」

 確かに私たちの社会は、ますます、経済や効率、力の論理がすべてに優先されています。ですから、主イエスのこの譬えについて行けなくなるのです。近代そして現代人は、「目に見える世界」だけが現実の世界であり、それしか認められない、考えられないという、まさにおかしな世界観にとらわれ続けています。そのような間違った考え方が、はびこっています。その結果、人間性は、どんどん劣化しているのではないでしょうか。

 さて、皆さんは、自分のことを、どちらの側に立っていると考えていますか。もしかすると、99匹の側にいる者だと、考えていらっしゃるかもしれません。実は、聖書が分かってくるか、分からないままになるか、その鍵になるのが、聖書の登場人物の中に、自分を正しく発見できるかどうかにかかっています。そのような読み方ができるかどうかにかかっています。実は、主イエスは、あなたのことを、迷い出た一匹、その一人と見ておられるのです。つまり、わたしたちは、自分のことを迷い出た一匹、ひとりとして考えるのかどうか、それによって、聖書のメッセージが分かるか、分からないかが、くっきりと差がついてしまいます。

 いったい何故、イエスさまは、このたった一匹にこだわるのでしょうか。それは、この一匹とは、神さまにとってかけがえがない人間一人を意味しているからです。確かに人は、言うかもしれません。「たった一匹を失っても、99匹があるではないか。99匹の方が大切ではないか。」しかし、主イエスは、この1匹を、99分の1とは考えられないのです。今や、世界人口は70億人ですが、主イエスは、あなたのことを、70億分の1とは、決してお考えになられないのです。ご自身にとって、絶対になくてならない1匹、つまりご自分のかけがえのない子どもだと評価しておられるのです。

 私どもの名古屋岩の上教会は、東日本大震災後、チームを組んで、三度、被災地の方々をお訪ねしました。来週もまた、8名のチームを組んでお訪ねします。それは、たった一人の被災者にでも、なんとか寄り添わせていただきたいと願ってのことです。そして、やがて、この神の愛の事実を知って頂き、この筆舌に尽くしがたい苦難で傷つき、悲しみ、痛んでいらっしゃる方々に、希望をもって立ちあがって頂きたいと願うからです。
 しかし、私は思います。希望を失って倒れているのは、何も被災地だけではありません。皆さんの中にも、この世の価値観にとらわれ、自分が心の底の底から求めているものが何であるのかが分からず、本物の幸福とは何なのかすら見失って、心の深いところで倒れている方がいらっしゃるのではないでしょうか。

 しかし、大丈夫です。既に、皆様の隣に、イエスさまは座っていらっしゃいます。何故、そう断言できるのでしょうか。この譬え話は、主イエスという人間において、出来事となったからです。つまり、クリスマスの出来事が起こったからです。クリスマス、それは、物資とか品物がプレゼントされた日ではありません。あなたを捜す神の愛が、この地上にイエス・キリストというお方において結晶となって現れた出来事なのです。このイエスさまのいのちは、あなたにプレゼントされています。

 主イエスは、今も聖書を通し、教会の説教を通して、父なる神の御心を、私どもの心にそっと語りかけてくださいます。「あなたは、わたしのかけがえのない羊、愛する子どもです。どんな犠牲を払ってでも、迷い出たあなたを捜したい。わたしのもとに連れ帰りたい。それこそ、わたしの喜びなのです。」この主イエスの声を、心を静めて、心の耳で聴くことができたら、そのとき、わたしたちは、どんな悲しみと不安に落ち込み、倒れてしまったとしても、立ち上がることができます。今の自分よりはるかに強く、またはるかに優しい自分じしんと出会えます。自分の力で立ち上がるのではありません。このイエスさまが、現実に、手をつかんで立ちあがらせて下さるのです。どうぞ、教会の日曜礼拝に出席して、神の御言葉を聴いて下さい。