★ 第6回の被災地ディアコニアに今週末、出発いたします。私どもの被災地ディアコニアは、中部中会と大会との支援金を受けて支えられています。その意味では、私どものディアコニアは、すでに中会的、大会的な支援があって、成り立っています。もとより、名古屋岩の上伝道所の力と奉仕を合わせて、取り組む、まさに教会のディアコニアです。今回もまた、初めての参加者が起こされました。○○兄です。まさに専門家ですが、その専門を生かしてのディアコニアではなく、全体の奉仕の一員として加わって下さいます。まことに心強い限りです。もとより、事情が許さない会員の方が常に多数なわけで、行ける者たちの方が恵まれているとも言えます。
前回は、帰ってからもまさに毎日のようにお便りをしたため、物資送付の手配を重ねました。現地に行かずとも、この地で担える被災地ディアコニアの道を、これからも模索し、被災者の皆さんのニーズにお応えしたいと心から祈り願います。いずれにしろ、これからもまさに教会を挙げて、取り組み続けるべき課題です。お祈り下さい。
☆ ゴールデンウィークです。多くの人々が移動する時期です。もとより交通渋滞は、織り込み済みです。しかし、渋滞に巻き込まれた時の運転手は、なかなか、過酷となるはずです。
★ 先週の読書会では、「執事職」について学びました。読書会は、会員全員の出席を心から願っていますが、読書会の歴史の中で、現住陪餐会員の半数に届くのがやっとです。今回は、18名でした。特に、私どもの教会憲法であります「政治規準」の中の「教会規定」から「執事職」、特に、第56条「執事の職務」そして、第57条「執事の資格」を学びました。
私どもの教会は、「現住陪餐会員全員が執事(的奉仕者)」と言い交してまいりました。出席者のコメント中でも、「執事とは、要するにキリスト者の存在のあり方そのものではないか・・・」という主旨がありました。その通りなのです。キリスト者には、全員、信徒職務が与えられています。この職務から解かれているキリスト者はありません。教会員は、この職務へと召され、洗礼によって「任職」された存在なのです。「職務」に生きないキリスト者は、聖書に示されているキリスト者とは異なってしまうはずです。この信徒職務者のことを、時々、「教会人」と呼びます。教会人としての成熟こそ、聖書が求めているキリスト者の成熟に他なりません。
そうであれば、執事「職」とは、何でしょうか。まさに、職務として信徒(会員)「職」の職を正しく、有効に働かせ、組織だて、力を合わせて奉仕を担えるように、ある意味では、「コーディネーター」のような務めを担っているとも言えます。次回は、まさに第58条の「執事の任務」を学びます。
私は、読書会の結びで、このような主旨の発言をしました。「教会のために命をかけている長老さんがいることを知っている。けれども、長老や執事だけがそうであればよいのではないはず。教会員皆が、自分の【仕える】教会のことを思い、神の教会を守るために存在をかけて発言し、行動する、そのような教会を支える側に立つ信徒になって欲しい。それが、堅固な教会の姿・・・」それこそ、神が使徒パウロを通して明らかにされた御心です。