過去の投稿2012年4月30日

神の招きへの備え-婚宴にふさわしい礼服-」


「神の招きへの備え-婚宴にふさわしい礼服-」
                    2012年4月29日
             マタイによる福音書 第22章1~14節
「イエスは、また、たとえを用いて語られた。
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。
『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 
しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。
『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

今朝、皆さまとともに、主イエス・キリストがご復活された記念の日、つまり主の日の礼拝式を共に捧げることが許されましたことを心から感謝いたします。今朝、初めてわたしどもの礼拝式に出席された方もいらっしゃいます。私は、いつも思うのです。もしも、皆さまが、教会に、主の日の礼拝式に来ることができた、この事実の意味を知れば、もうこれにまさる喜び、幸いはないということに気づいてくださるだろうということです。

もとより、わたしどもにはさまざまな悩みや課題があります。今週から黄金週間が始まりますが、わたしには、山のように仕事がたまっています。原稿の締め切りもあります。そのことを考えると、何から手をつけて良いのか、そわそわし始めてしまいます。恥ずかしながら、とにかく、その日その日を乗り切るような日々です。
しかし、そんな私ですが、今朝ここに立つことが許されました。私は今、神の御前に生かされ、父なる神と御子イエス・キリストと聖霊なる神との愛の交わり、いのちの交わりに包み込まれ、抱かれています。しかも、ひとりではありません。愛する皆さまと共に、究極の救い、幸いに今、あずかっているのです。それが、主日礼拝式で起こっている出来事、現実なのです。

今朝、この神の祝福におひとりお一人、全員に理解していただきたい、気づいていただきたいと願います。つまり、わたしどもは、地上にあって既に始まっている神の国の真ん中に座っているわけです。私どもは、父と子と聖霊の交わり、主イエス・キリストのご臨在するこの聖なる家に座っているのです。ですから、私は、心から、主イエスからの祝福の言葉、赦しの言葉をお伝えしたいのです。「おはよう。おめでとう、あなたの罪は赦された。あなたの悩みと苦しみは、あなたの益に、善きに変えられて行きます」

さて、わたしどもは先週に引き続いて、大変、厳しい個所を読み続けながら礼拝を捧げています。主イエスは、この譬え話を宗教指導者たちに語られたとき、ご自身がついに十字架につけられる時が、目前に迫っていることをご理解しておられます。それゆえに、ご自身の方から神の都、イスラエルの首都であるエルサレムに入って来られます。首都のまさに中心地であるエルサレム神殿へとまっすぐ向かって行かれます。そして、神殿から商売人を追い出してしまわれます。遂に、宗教指導者たちと決定的に対立なさるのです。私どもは、この数週間、説教では何度も「激突」という言葉で言い表してまいりました。先週もまた、厳しい譬え話をもって権力者たちと火花が散るように激突される主イエスのお姿をみました。今朝は、その言わば、クライマックスの譬え話です。

譬えとはすべて天国の説明に他なりません。しかし実に、厳しい内容です。はっきりと神の裁き、神の審判が語られています。主イエスは仰いました。 「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」この御言葉だけではありません。さらに、こう続きます。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』

今朝の譬え話を解釈する上でも、常に確認しておきたいことがあります。それは、これは、天国の話だということです。天国とは、最初に申しました通り、喜びに満ち満ちた場所です。平和と安らぎが支配する心地よい場所です。主イエス・キリストがそこにいらっしゃる場所だからです。もし、それが、きちんと理解されないままだと、おそらく、ここで主イエスが描き出される譬えの意味、その真意を正しく解釈することはできないだろうと思います。
聖書は、天国を、しばしば結婚披露宴にたとえています。それは、まさに喜びのうたげです。主イエスは、この個所だけではなく、マタイによる福音書25章においても、天国を結婚披露宴にたとえられます。もとより、それは、単に飲食の喜びや楽しみではありません。ローマの信徒への手紙第14章17節で、使徒パウロはこう言いました。「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」神の義、それは、神さまからいただける完全な赦しのことです。平和とは、神との間に固く樹立されたまことの平和、平安のことです。なによりも神の国とは、聖霊なる神さまご自身との交わり、神との交わりそのものから注がれ、わき溢れて来るつきない喜びです。

さて、譬え話そのものを見てまいりましょう。私どもは、今朝の個所で、おそらく、旧約聖書の救いの歴史と新約聖書の救いの歴史について、全部を読まなくても、凝縮して学ぶことができるだろうと思います。今朝は、丁寧にお話する暇がありません。ざっくりと申しますと、神は、先ず、アブラハムというまさに旅人、地上に確固として基盤を持たない寄留者、弱く小さな一人の男性を選ばれました。そして彼の子孫を、イスラエル、つまり神の民とされます。その後、ご自身の救いのご計画、全人類を救うご計画をお立てになられ、モーセやダビデなどを通して、実行されて行きます。それが、旧約聖書の歴史です。

そもそも、今朝の主イエスの物語をきちんと理解するためには、どうしても旧約聖書の知識が必要です。新約は、旧約を土台にして、編まれています。その意味では、新約だけ読んでも、その深い、正しい理解を持つことはできません。その意味でも、説教を聴くことは大切です。説教者は、旧約聖書全体をもとに、さらに言えば聖書全体の教えをもとにこの譬え話を解釈しているからです。

さて、なお、ざっくりと申します。主イエスがこの譬え話の前半でおっしゃった御言葉、「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」これは、旧約の歴史の終わりに対する言及です。実は、先週の譬え話が、そっくりそのままこのお話の前提になっているわけです。先週の譬え話にこうありました。「だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。」

つまり、旧約において、神は、多くの神の僕、つまり預言者たちを、イスラエルの人々のために派遣なさいました。彼らの信仰の姿勢を正し、神へと向きなおらせるため、悔い改めに導くためです。神の愛のあらわれです。ところが、イスラエルの人々は、むしろ、彼らを迫害し、その御言葉に聴き従いませんでした。時いたり、父なる神は、主イエスの12人の弟子たちをも派遣します。ところがそれでも、彼らは、神へと向きなおりませんでした。
主イエスの結びの言葉を読みます。「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」
これは、明らかに、父なる神のひとり息子つまり、イエスさまご自身のことです。イスラエルの人々は、このひとり息子に他ならないイエスさまをぶどう園の外、エルサレムの外の骸骨の丘に放り出して十字架につけて殺したのです。主イエスはご自身の十字架の死をこのように予告なさったのです。

その意味で、今朝の譬え話も、内容は、まったく同じだと言っても言い過ぎではないように思います。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」父なる神は、旧約聖書において、イスラエルの民をご自身の結婚披露宴、その喜び、愛の喜びの宴へと招き続けられました。しかし、イスラエルの民は、それを無視したのです。ついには、乱暴し、殺したのです。
主イエスは、こう予告されました。「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」ある聖書の学者たちは、「これは、後代の人々が書き加えたのであろう」と言います。それもそのはずです。紀元70年、このエルサレムの町は、ローマ帝国、皇帝によって、完全に破壊されたからです。これは、予告ではなく、事実を書き加えたのだと、合理的に説明するのです。しかし、わたしどもは、予告、警告と受け止めます。こうして、神の民イスラエル、ユダヤの人々は国を失い、世界を放浪することとなったのです。それは、20世紀まで続いたのです。

次の譬え話しは、新約の歴史についての要約となるだろうと思います。『 婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

父なる神さまは、天国の祝福へ、神の国の幸いのために、すべてをおひとりで、まさに準備万端を整えて下さいました。なんと、恵み深いお父さまでしょうか。しかし、招いておいたイスラエルの人々は、拒絶しました。「ふさわしさ」を備えていなかったわけです。すると、王は、こう命じられます。町の大通りに出かけて行きなさい。出会った人、行き交う人なら、だれでもこの婚宴につれて来なさいとお命じになられます。これは、何の譬えでしょうか。それは、まさに、今日の私たちのたとえです。新約聖書において、神の救いは、イスラエル民族の枠を突破しています。イスラエル以外の人々を異邦人と呼びますが、異邦人のすべてが、天国に、神の国、救いに招かれたのです。それは、ある意味で、ごったがえすような賑わいであったかと思います。まさに、今、世界人口の三分の一がキリスト教を自分の宗教だと考えていると言われています。

さて、譬えばなしはここで終わりません。むしろ、ここからが最も大切なメッセージが語られているのだと、キリスト者であるわたしどもは読まなければなりません。こう続きます。「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 これは、今地上にある教会のたとえなのか、あるいは世の終わりに起こる出来事を意味しているのか、はっきりとは分かりません。あるいはそのどちらをもカバーしているのかもしれません。

いずれにしろ、明らかなことは、せっかく、太っ腹な王の招きを受け、新しく大勢の異邦人が招かれたのです。しかし、「礼服」を来ていないというその一点だけで、ある意味で、ただそれだけの理由によって、外に放り出されるのです。そこは、暗闇なのです。光のない場所です。

さて、この譬え話の中で、おそらく、もっとも大切なメッセージは、この「礼服」の譬えです。内容から言ってもそうですが、この礼服の譬えは、ここしか出てまいりません。つまり、マタイによる福音書だけが伝えるメッセージなのです。

実は、キリスト者の姿を衣を着ることとして譬えるのは、使徒パウロによって多く用いられています。一つだけ、ご紹介します。ガラテヤの信徒への手紙第3章27節です。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」ここにキリストを着るという表現が出て来ます。そして、それは、キリスト・イエスに結ばれたということです。洗礼を受けた人は、キリスト・イエスに結ばれたと言うのです。洗礼を受けた私どもは、まさに、キリストに包まれ、キリストという新しい人を着る、上に着る、かぶせられるというわけです。そのようにしてだけ、私どもは、神の御前にまさに
礼服を着せて頂いて、立つことができるわけです。

 ただし、今朝の譬えを読みますと、これは、洗礼を受けた人と受けていない人との違いと解釈することは、無理があるように思います。いへ、できないはずです。

 そもそも教会は、誰かがその会員になろうとするとき、必ず洗礼を施します。その意味では、洗礼を受けたのか受けていないのか、これはもう、はっきりと線が引かれる、決定的な行為であり、明らかなしるしとなります。ですから、天国の地上における現れである教会の中に入るには、少なくともまっとうな教会であれば、洗礼を施すはずです。今朝は、ここでどなたが洗礼をお受けになっていらっしゃるのか、新しい方には、分からないはずです。しかし、来週は、分かってしまいます。聖餐の礼典をお祝いするからです。そのときは、パンとぶどうジュースを飲む人と飲めない人とが、はっきりと分けられます。まっとうな教会であれば、洗礼を受けた人にだけ、あずかって頂くことになるからです。したがって、ここで主イエスが仰った礼服を、単に、洗礼を受けているかいないかということで解釈することはできません。

それなら、この礼服とは何を意味しているのでしょうか。それは、マタイによる福音書が強調してきた全体のメッセージから解釈すべきです。しかも、わたしどもにとって幸いなのは、この譬え話の正しい解釈を導く決定的な御言葉が他の個所にあることです。それは、ヨハネの黙示録第19章5節から10節です。そこには、小羊の婚礼の物語が記されています。一部分を読みます。

「また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。」わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。」 すべてを丁寧に解説する暇がありません。ここでの花嫁とは、教会のことです。キリスト者のことです。「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。」
教会は、「輝く清い麻の衣」を着せられているわけです。そして、ヨハネは、はっきりとこう告げます。「この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」そこでは、洗礼のしるしであるとは、言っていません。主イエスが、ここで語られたこともまた、はっきりしていると思います。それは、洗礼を受けた人と受けていない人とが、教会にいるということではないはずです。むしろ、洗礼を受けて客観的には、教会に入った人たちが、礼服を着ていないというのです。そんなばかなことがあるだろうかと、素朴に思います。しかし、ヨハネの黙示録が明らかにしています。聖なる者たちの正しい行いなのです。そして、そのことは、これまでマタイによる福音書において、主イエスから何度も学んだことです。それは山の上での説教を思い起こすだけで十分です。第5章です。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを
見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

もはや、この御言葉のおさらいをする暇がありません。主イエスは、信仰を単なる知的な理解だとか、単なる承認としては考えておられません。口先だけのことではなく、御言葉によって生かされること、御言葉を生きること、それを信仰と呼ばれます。誤解のないように、聞いて下さい。その限りにおいて、私どもは、たとい洗礼の礼典であっても、それが、救いにとって絶対的なこととはみなせないのです。見なしてはなりません。もしもどなたかが、このようなことを発言されたらいかがでしょうか。「わたしは、洗礼を受けたのだから、もう、何をやっても天国に行ける。私は、天国に入る礼服を手に入れたのだ」。はっきりと申します。そんなことは、ありません。

さらに、申しあげます。真実にキリスト・イエスに結ばれる洗礼を受けた人であれば、そのように考えることはしないのです。いへ、できないのです。おかしな想像ですが、もしも誰でも、ただ洗礼を受けるだけで、自動的に天国に入り、神の祝福を受けることができるのであれば、教会は、道行く人の誰も彼もにホースを向けて、水を放つかもしれません。

今朝、洗礼を受けた私どもこそ、この御言葉を聴きたいのです。聴くべきです。私どもは、何故、洗礼を受けることが赦されたのでしょうか。それは、わたしどもが罪人だからでした。自分が、神の前にもっとも小さな者、人間でしかないことを、認めたからです。そして、だからこそ、招かれたのだと信じたのです。教会に、つまり天国に、つまり、神の救いに招かれたのは、わたしどもが立派な人間、立派な行いができる人間だからでは、ありませんでした。その正反対です。だからこそ、主の憐れみを受けて、わたしどもも「主イエスよ、憐れんで下さい」と素直に願い出たのです。それが洗礼入会の志願の意味、志でした。むしろ、立派な行いなど何もできない、罪にまみれた弱い私どもだからこそ、洗礼を受けた、受けることが許されたのです。

しかし、その洗礼とは、キリスト・イエスに結ばれるための手段でした。つまり、この洗礼を通して、わたしどもは、自分が、何ができるのか、できないのか、もはや、そのようなことに、こだわらなくなったのです。ただ、主とその御言葉に従うだけを志す者として、新しくされたのです。神は、わたしどもを、人の前にではなく、この憐れみと恵みの神の御前に、正しい行いができる人に造り変えられたのです。丁寧に言わなければなりません。自分が、自分の力で、努力で、変わったわけではまったくありません。キリストによって、キリストの力で、キリストの十字架と復活の恵みの故に、変えられたのです。

私どもはそれ以上でもそれ以下の者でもありません。私どもの幸いは、ただこのキリストにのみかかっています。ただ、キリストの恵みのみにかかっているのです。そのことが分かったとき、わたしどもは、立ち上がります。王の婚宴にふさわしい人間になりたいと、強く願い始めるのです。そして、祈り始めるのです。そしてそのときこそ、わたしどもは、王なる神が、まさに悪人でしかないこのわたしを、教会に招き入れ、選んでくださったことを悟るのです。それが、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」の意味です。

したがって、自分は選ばれているのだろうか、そのようなことを考える必要はありません。何故なら、事実今、招かれているのです。皆様は、ここにいらっしゃいます。

ただし、どうぞ、そこで終わらせないでください。「こんなわたし、悪人でしかない私を、お招き下さいましたことを感謝します」と告白して欲しいのです。そのとき、その人には、自分じしんにも、この神さまが準備万端、丹精込めて整えて下さったすばらしい礼服をまとわせて頂いていることに気づくことができるのです。神の子どもとされた喜びと感謝、それに生きる生活、応答する生活、それこそ、神がくださる礼服、神がまとわせて下さる礼服なのです。そのときこそ、悪人でしかないこの私ども、罪人であるこの私どもが、実に、神の救いの内に、選ばれている者であることを認め、悟ることができるのです。

祈祷

天のお父さま、あなたは今や遂に、あなたの独り子主イエス・キリストによって、私どもを神の国、この教会へと招いてくださいました。罪の赦しを与え、神の子とする、救いの喜びへと選んで下さいました。どうぞ、選ばれた喜びと感謝の内に、私どももまた、御言葉に聴き従う者として、あなたが作り変え続けて下さいますように。招かれ選ばれた者らしく、いつも、あなたを選び返せる者、洗礼の恵みにいよいよ生きる者とならせて下さい。アーメン。