過去の投稿2012年5月23日

5月20日

 

 ―牧 会 通 信― 

☆  「改革派教会」とは、基本的には長老主義政治をもってキリストの主権を明確にすると共にこれに服し、改革派神学(信仰・教理)にもとづいて、徹底的に聖書に即した教会を建て上げようとする教会のことです。16世紀、ローマ教会を改革する運動の中から新しく誕生した教会(教派)です。最初に改革の声を挙げたのは、有名なマルティン・ルターです。彼の指導を受けた教会は、彼の名を冠して、ルター派教会として今日に至っています。彼らは、改革「された」教会としての自己理解を保持しておられます。その意味では、「改革教会」とは、いわゆるすべてのプロテスタント教会(私どもの自己理解にふさわしい名称は、【福音主義教会】、福音によってのみ立つ教会という意味です。)を包み込む呼称です。それに対し、私どもの自己理解は、「改革された教会」は、その改革を継続することなしには、「もとのもくあみ」になってしまうと考えて、「改革された教会は絶えず御言葉によって改革されるべきなのだ」としています。それが、私どもの教会の名称、改革(派)教会になっているわけです。

★  そもそも、地上の教会は、まさにすべて例外なしに、「途上」の教会、つまり未完成で、不完全でしかありません。それを、忘れることはできません。ただし同時に、地上の教会は、御言葉の約束通り、天上にいらっしゃるキリストがその聖霊において教会に臨在しておられ、正真正銘、神の教会とされています。天上の主キリストは、私どもキリスト者の交わり、共同体である教会をご自身の体とされています。私どもひとり一人は、実に、主イエス・キリストのみ体の一部分とされています。

☆  それは、私どもが、キリストの体である教会に洗礼によって加えられたからです。つまり、私どもキリスト者の存在とは、地上にある現実の○○教会の会員であることと離れては、事実上、何よりも聖書の理解の上からあり得ません。これは、ローマ教会はもとより、およそ聖書に即して教会を考える歴史的キリストの教会であれば、基本中の基本の理解です。ただし、いわゆるプロテスタント教会の中には、この基本からも「飛び出して」(!)わけがわからなくなっている(=方向性を見失っている)教会も少なくありません。ここに、古い言葉ですが、「プロテスタント病」(キリスト教信仰を個人の内心の問題にしてしまうこと)と批判され、軽蔑される悲しい現実があります。素直に反省しなければならないと思います。聖書の信仰は、旧約においても新約においても、神の民としての信仰に他なりません。「民」の交わりから離れたところでの信仰なるものは、聖書によっては、想定されていないはずです。

★  確かに民と「共に生きる」ことは、苦労が多いことです。自分が良ければ、あるいは、自分の信仰の事柄だけを一生懸命に励んでいればよいわけではないからです。常に、教会の仲間、兄弟姉妹が私どもの祈りの対象となります。はっきりと発音(発言)した方がよいかもしれません。私がキリスト者でいるためには、もうひとりのキリスト者(教会員)が必要なのです。不可欠なのです。こうして、私どもは、父なる神によって教会共同体(神の民)として、形成されて行くわけです。そこに、神の救済のご計画があります。私どもの存在と奉仕が、神にとって必須となり、用いられる光栄と喜びに招かれているわけです。

☆  今朝の説教題は、「神に返しなさい」です。わたし自身は、ここに記載している段階では、まだ、どのような説教になるのか、分かりません。しかし、最大級の課題は、教会の問題になるはずです。それは、開拓伝道のまさに原点を問い続けることです。「ここに神の教会を、ここに(聖餐を囲み、)キリストだけを主と告白する慰めの共同体を形成させてください」の祈りに明らかです。冒頭に、「神の教会」とあります。余りにも当たり前すぎて、きちんと考えない恐れがあるかもしれません。しかし、これこそ、すべてのすべてに優先しなければならない目標であり課題なのです。つまり、名古屋岩の上教会もまた、放っておけば、人間の、「牧師であるわたし」か、「信徒であるみなさん(特に影響力の大きい、声の大きい会員)」が「運営」する宗教団体になり下がる危険性があるということです。私どものいのちをかけた戦いは、まさにそこにあったのです。