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神に返しなさい

  「神に返しなさい」 

 
                
2012年5月20日
マタイによる福音書 第22章15~22節

「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。
「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。
「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、
「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。
「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。」

先週は、大会教育委員会で、「子どもカテキズム」の作成のために共に知恵を絞り合いました。わたし自身が、最初にこのようなカテキズム、信仰問答に触れたのは、大学生のときに読んだ「ハイデルベルク信仰問答」でした。その問い一は、大変、有名です。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」「あなたの唯一の慰めとは、何か。」慰めとは、日本語にしてしまいますと、例えば「憐れみ」と言う言葉と同じように、そのニュアンスがだいぶ違ってしまいます。聖書の慰めとは、日本語で言えば、むしろ励ましに近いようにも思います。いえ、やはり、励ましでも、間にあわないのだと思います。やはり、最後には、慰めとして訳す以外にないのだと思います。いずれにしろ、人間が人間として、どんなに困難で、苦しみの極みにおとされても、そのどん底で、しかし、なお、明るく、喜びと希望に溢れて立ち上がって生きて行ける力のことを、慰めと言います。人間にとって、この慰めはどこから来るのでしょうか。

そもそも、求道者でいらっしゃれば、そのような慰めなど、はたしてこの世に存在するのか。と言う問いもあり得ます。ハイデルベルク信仰問答は、これを問いの第一に据えるのです。その意味では、現実の私どもが最も問いたい問いを、真正面に掲げる、それだけでも優れたカテキズムと言ってよいと思います。

さて、何と答えるのでしょうか。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」「わたしがわたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」キリスト者でない方にとっては、なお、いったいそれがどうして慰めになるのだろうか、人生の苦しみ、壁にぶつかって、そんなことだけで、乗り越えられるとは思えない・・・、そのように御考えになられても、当然と思います。しかし、まさに、どうしたら、この慰めに生きることができるのか、この慰めに生かされることができるのかについて、このハイデルベルク信仰問答は、諄々と聖書の教え、福音の真理を語って行くのです。

求道中の方でいらっしゃれば、先ず、「わたしがわたし自身のものではない」ということが、どうして、慰めになるのか、それが先ず、大きな壁になると思います。躓きになると思います。何故なら、私たちは、自分は自分のものだと、少なくともこの自分自身は自分のものだと、それを何の疑いもなく、大前提にして生き、考えていると思うからです。

そして、主イエスは、今朝の説教で、まさに、そこに光を照らして下さいます。その根本的な思い違いを、質して下さいます。主イエスは、今朝、「神さまにあなた自身をお返しなさい。」こうお招きくださるのです。そして、「あなたは、わたしのものなのだから」と宣言してくださるのです。それがどんなに嬉しいことであるのか、どんなにありがたいことであるのか。そして、それを知ったなら、その人は、まさにキリスト者になってしまうのです。

さて、今朝、この物語に登場する人物は、ファリサイ派とヘロデ派の人々です。実は、この人々が、同時に登場することじたいが、驚くべきことです。何故なら、彼らは、いつも、対立しあっていたからです。ファリサイ派とは、自分たちのことを神に選ばれた救いの民として、その純粋を守り、深めようとしていた人々です。つまり、ユダヤの社会は、異教の国、ローマの政治、文化の影響や支配を少なくしたいと願っています。

一方で、ヘロデ派というグループは、マタイによる福音書では、ここだけしかでません。当時、ローマ帝国から、ユダヤを支配するために派遣されていた総督は、ヘロデ・アンティパスという人物でした。彼らは、自分勝手な振る舞いをするユダヤ社会をなんとか懐柔して、支配のなかに取り込みたいと考え、実行する、言わば、ヘロデの手下です。

当時のユダヤは、このヘロデを通して、有名な「ローマの平和」と言われるような絶対的な武力と経済力を背景に持つ、ローマ帝国の安全保障の中に組み込まれていたわけです。

実は、当時のユダヤ社会の神殿の祭司を始め、体制側、権力の側に近い人々であればあるほど、実は、この安保体制の中で、自分たちの利益を追求し、特権を享受していたわけです。

さて、今、その本来対立する両者が、会いまみえます。お互いの共通の敵であるイエスを、なんとかして合法的に殺してしまいたいと考えているからです。「どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談」するのです。彼らは、ただ主イエスを殺すだけのために、手を組んだのです。マタイによる福音書は、主イエスご自身はすでにはっきりと彼らの悪意を見抜いておられことを明らかにしています。

彼らが主イエスに会って、最初に語ったこの言葉に注目しましょう。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」本来、人を褒めることは、すばらしいことであり、素敵なことです。しかしなぜ素晴らしいのかと言えば、心からの思いを告げているからです。しかし、このイエスさまへの語りかけは、まさに、偽善的です。お世辞を言うわけです。お世辞とは、自分を守るだけの言葉です。相手のことなど、本当には大切に思っているわけではありません。

しかしここで、丁寧に考えてみたいと思います。このときの彼らの言葉は、単なるお世辞、社交辞令だったのでしょうか。わたしは、違うのではないかと思います。彼らもまた、イエスさまを知れば知るほど、その本心からこう言わざるを得なくなっていたのです。それほどの価値をイエスさまに認めざるを得なかったと思うのです。

先ずこれです。「あなたは真実な方」これは、ひとりの人間として、自分じしんに対して真実と言う意味です。自分に真実でいられる、これは、私どもの理想の姿ではないでしょうか。自分を偽らないで、あるがままの姿、あり方で生きておられるということです。すばらしいことです。そして、それこそ、イエスさまの生き方と言えます。

次に、「真理に基づいて神の道を教え」これは、信仰者として、ユダヤ人として、さらには神の預言者として、最高の栄誉、褒め言葉だと思います。神に対してどのように生きているのかという意味です。真理に基づいて教えている、正しい教えを語っておられるということです。しかも、決定的なことは、神の道、つまり教えを自ら生きているということです。まことにイエスさまの生き方そのものです。

最後に、「人々を分け隔てなさらないからです。」とあります。これは、どんな人とも平等に接するということでしょう。もとの意味は、人の顔色を伺わないという意味です。つまり、どんな権力者にもへつらわないということです。まさに、口先だけの社交辞令など使わないということです。

さて、そこに最大の問題が示されています。彼らはこう言いながらも、既に、このイエスさまを絶対に殺すのだと、決めてしまっているということです。つまり、自分の言葉に真実ではないとうことです。どれほど、イエスさまが素晴らしいお方であっても、自分にとっては、敵でしかないのです。ここに、人間の罪があります。主イエスがすばらしいお方でいらっしゃることは、聖書を読めば、誰が否定できるでしょうか。しかし、それでも、このお方を拒否する人、関係を持とうとしない人が大勢いらっしゃるのです。それは、自分にとって、不都合になるからです。自分の考え方、生活のあり方を換えなければならなくなるからです。そこに、人間の罪深さ、自己中心、わがままさがあります。

いへ、これは、単に未信者の方々の問題に留まらないはずです。むしろ、キリスト者である私ども自身の姿を顧みざるを得ません。私どもは今朝も、いつものように神を賛美する歌を歌いました。主イエスを「真実な人」として賛美するのです。しかし、もしも、これが単なる歌で終わらせるだけなら、それは、本当の意味での賛美になるのでしょうか。

さて、何よりも彼らが、ここで、このように語ったのには、ある決定的な狙いがあります。それは、主イエスを追い込むためです。イエスさまに、自分たちの質問に正面から答える以外にないように、逃げ道をふさぐためです。彼らは、言わば、黙秘できないようにたくらむのです。絶対に答えさせるために、このような伏線をはっていたのです。本当に、いやらしいまでの彼らの罠です。

彼らは、このような前置きを告げて、ただちに、質問します。「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」皇帝に税金を納めることは、律法に適っているのか、つまり合法であるのか、ないのかです。

これは、合法ですと言っても、非合法ですと言ってもどちらの答えも、主イエスを不利に落とし込む問いとなります。いったい、ここでの何が、主イエスを死刑判決へと追い込む問題になるのでしょうか。

ユダヤ人であれば誰であっても、憎い敵でしかないローマ皇帝とその帝国のために税金を納めることを喜ぶ人はいません。それを公然と喜ぶのは、ただヘロデ派の人々だけです。本来、ユダヤ人にとって、「税金に納めるお金」それをデナリ銀貨と言いまが、その銀貨にただ触るだけであっても、心に抵抗があるものなのです。何故なら、その銀貨には、皇帝の肖像と言葉が刻まれているからです。どんな言葉かと言えば、「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カエサル」つまり、「皇帝カエサルは神なり」と記されているのです。私どもが先ほど唱えた十戒の第一戒、「あなたはわたしの他になにものをも神としてはならない。」さらに第二戒、「あなたは刻んだ像をつくってはならない。」を破るような思いがするのです。たとい世界を支配する権力者のローマ皇帝であっても人間にしかすぎない人を、神と呼ぶなどということは、ユダヤ人にとって、その良心が痛みます。信仰を裏切る行為になるからです。ちなみに、神殿に納める税金は、絶対に、ローマの貨幣を用いません。わざわざ、ユダヤ貨幣に換金したのです。だから、神殿には、両替商が店を出していたわけです。

問題はここです。もしも、イエスさまが税金を納めることが合法的だと言えば、それは、確かにローマの国法においては、合法的です。何の問題もありません。ヘロデ派の人々は、大喜びです。しかしもし、税金を納めてはならないと言えば、ローマの法律を根本的に破る言論として、まさに処刑されてしまいます。だからと言って、税金を納めて良いと言えば、こんどは、ユダヤの法、つまり神の御言葉には、違反することになります。ファリサイ派の人々から、つるしあげられます。つまり、どちらにどのように答えようと、主イエスの応答は、法律違反となって、決定的に追い込まれることになるのです。

さて、このところで、丁寧に考えると、本来相容れないはずの二つの立場は、実は、根本のところでは共通していることがわかります。それは、彼らの関心は、ただ法律にかなっているかいないか、つまり、人間的な尺度で、正しいか正しくないかにこだわっているということです。社会生活を営む上で合法的かそれとも法律を破っているのか、それだけが彼らの関心なのです。問題の本質は、そこにあります。つまり、自分の社会的立場が保たれる、そのことだけが決定的に大切なのです。

そこで、主イエスが答えられます。結びの言葉です。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」

ここでの「偽善者」とは、何でしょうか。それは、神を大切にすると言いながら、結局は、神を大切にしていると言う自分を大切にしている人、つまりファリサイ派の人々のことです。同時に、自分の社会的立場が悪くなるのであれば、神であろうが真理であろうが、義理人情であろうが、とにかく、それを後回しにする人のこと、つまりサドカイ派の人々のことでしょう。

さて、ここで一言、申しますと、主イエスご自身は、ローマ皇帝に納めるべき税金、ローマの貨幣を少なくとも、その場所では、お持ちではありませんでした。そこに、あるメッセージを読み取ることもできるだろうと思います。つまり、主イエスご自身は、単に、ユダヤの権力者だけではなく、ローマの権力とも根本のところで対決しておられるということです。これはしかし、これ以上にここで扱う必要はないと思います。

続けて読みます。「彼らがデナリオン銀貨を持って来ると」私は、ここで思います。もし、この彼らの中に、ファリサイ派の人々も含んでいるとすれば、これは、スゴイことです。つまり、まさに、主イエスを試した本人が、敵国のデナリオン銀貨を持っているからです。つまり、自分自身は、社会生活の上で困ることのないように、権力者たちの顔色をうかがいながら、うまくふるまっていたということが暴露されるからです。

さて、続けます。「イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。まさに結論の言葉、最も大切なメッセージが語られます。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」私どもが、暗唱すべき言葉の一つと思います。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

この御言葉は、しかし、既にさまざまな解釈が施されてまいりました。かつて、皆様と、先週の委員会でも主題となりましたが、大会教育委員会から発行予定の「信徒の手引き」のわたしの担当の文章を前もって学びました。そこで、わたしは、この個所を正面から取り上げました。何故なら、この個所を、ときどき、間違って解釈されることがあるからです。この御言葉は、政教分離の原則を言っているとそう解釈する場合があります。しかも、そこで言われる政教分離と言うのは、本来の政教分離原則ではないのです。つまり、「宗教は政治に深入りしてはならないし、政治もまた宗教に深入りしてはならない、別個にすみ分けることが正しいのだ」という議論です。これは、間違った理解です。本来の「政教分離の原則」とは、政治や国家権力は、国民の信教の自由を尊重しなくてはならないのですし、その意味で、決して宗教の是非などに、口をだしてはならないということです。決して、宗教団体の政治的な発言を禁じるということではありません。

さて、主イエスが、ここで語られたことを、一言で言えば、神の絶対的な主権についてです。主イエスは、国家と宗教、聖書に即して言えば神の国とを、二つにすみわけさせてなどおられません。言わば、皇帝は、ローマ帝国を、イエスさまは、神の国、言い換えれば教会を統括する、二つの別々の世界の王であるということではないのです。イエスさまは、言わば宗教の世界の権威であられると同時に、「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カエサル」皇帝は、国家における権威でいらっしゃるのです。

主イエスは、ここで高らかに、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と宣言して、実にその皇帝じしんもまた、本来、神のものであり、神に返さなければならないのだと宣言なさったのです。つまり、まことの神のみが唯一の神だと、唯一の主権者なのだと高らかに宣言なさったのです。主イエスが信じ、そして従われるのは、この神のみ、ご自身の父なる神のみだと証されたのです。そしてこの神こそが、天と地と見えるもの見えないものの創造者にして、すべての主権をもっておられるのです。主イエスは、このお方にのみ服従することを宣言なさるのです。

ただしそれは、主イエスが、税金を納めることを否定したというわけでもないということも明らかです。しかし誤解のないように言わなければなりません。これは、主イエスが妥協なさっておられるわけでも、媚へつらっていらっしゃるわけでもありません。主イエスは、この罪の世界の中で、法律を否定してはおられないということです。これは、使徒パウロがローマの信徒への手紙において明らかにしていることではありますが、神は、国家為政者をお立てになっておられるのです。

さて、私どもは、今朝の御言葉において、主イエスが「返しなさい」とお命じになられたみ言葉に特別に注目したいと思います。私どもキリスト者にとっては、やはり、ここで献金ということが考えられだろうと思います。献金とは、お金を「献げる」と書きます。しかしこれは、うっかりすると大変な間違いを犯しやすいと思います。それは、献金が、もともと自分のものを、神にささげるというカンチガイです。つまり、自分は、自分自身の力で生活を整え、生業を営んで、そこから、神のためにささげているのだと、誤解をするのです。

わたしは、もはや、うろ覚えなのですが、ある有名なキリスト者のご婦人が、家計を考えるとき、献金のことも考えるべきだが、それは、家計全体の一部分なのだという意味のことを仰った文章を読んだことがあります。これは、明らかな間違いと言わなければなりません。どこが間違いなのでしょうか。それは、自分の生活があって、その上で、教会生活があるという、二段構えの信仰の理解になっているからです。

それを、このテキストに当てはめれば、このようになるでしょう。社会生活の安定を優先しながら、つまり、国家の法律やこの世の常識を守りながら、その上で、あるいはそれに反しない限りで、自分の信じる宗教の掟をも守るというあり方です。その際、結局、どちらがより根本か、大切になるのかと言えば、そこでは、明らかにこの世、社会、会社、家庭、大きく言えば国家になってしまうはずです。家庭生活が根本にあって、その上で、教会生活があるという理解です。

そのような考えに基づいて社会生活を営む方は、おそらく、上手に社会で生きているかもしれません。常識があって、精神的にいつも安定していて、まじめで、人柄もよい、そのような、キリスト者像を抱きます。しかし、はたして本当にそれは、聖書が明らかにするキリスト者の生活、信徒の生活、信徒像なのでしょうか。

しかし、主イエスは、ここで、高らかに、「わたしに返しなさい」と要求なさいます。「神に返す」とは、何を意味するのでしょうか。こう命じていらっしゃる主イエスご自身が神でいらっしゃいます。ですから、主イエスご自身に返しなさいとの要求であり、宣言でもあるのです。圧倒的な主張です。

讃美歌に、「この世のすべては神のもの」という歌があります。これが、聖書の信仰、信仰理解なのです。決してこの世の十分の一とか、ある部分だけが神のものなのではないのです。

説教の冒頭で、ハイデルベルク信仰問答の問い一に触れました。「生きているときも死ぬ時もあなたの唯一の慰めは何ですか。」「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実の救い主イエス・キリストのものであることです。」つまり、私どものすべては、時間もお金も能力も、家族も仕事もなにかも、本来、キリストのものなのです。主イエス・キリストから与えられたギフト、贈り物なのです。私どもは、管理者にすぎません。すべての所有権は、本来、唯一の神にあります。キリストにあります。自分じしんがキリストに所有されているのです。

キリスト者にとって、何故、それが救いとなり、慰めとなるのでしょうか。それは、そのようにして、自分が神の宝物とされていることを、信じることができるからです。私という人間、ここに集められた一人ひとりが、神の宝物なのです。申命記には、繰り返して、このような神の宣言が記されています。14章2節、「あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。」

私どもは、神の宝の民とされているのです。いったい神は、どれほど、私どもを大切にしてくださるでしょうか。その大切さぶりがどれほどのものであるかを、知っているのがキリスト者です。それは、神の御子、宝の中の宝なるイエスさまを、十字架に犠牲として捧げるほどでした。それほどまでに、父なる神の目には、私どもに価値があるということです。まさに驚くべきことです。神の宝物だから、神さまが愛の思いを込めて、大切にしていてくださるのです。それが、神の子たちです。キリスト者なのです。だから、私どもは、この神を主と認めることが嬉しいのです。主に従うことが嬉しくなっているのです。そして、自分自身がこの主のもの、主の所有とされていることをこそ、唯一の慰め、そして誇りとして生きているのです。

今朝、あらためて、自分を神に返しましょう。今朝は、聖餐を祝いませんが、そうであれば、献金においてこそ、それを確認したいと思います。

祈祷

私どもを贖うために主イエス・キリストをお与えくださいました父なる御神、私どもは今や、御子のいのちに贖われて、あなたのものとされました。御子イエス・キリストのものとされました。心から感謝致します。それにもかかわらず、私どもは、なおも、自分にこだわります。自分に執着しています。私どものこのこびりついている罪とその思いを、心から告白し、懺悔いたします。どうぞ、赦して下さい。今朝、あらためて、御子のいのちによってあなたのものとされた喜びと誇り、自由と感謝に気づくことができました。どうぞ、私どもをあなたのものとして、認めます。そして、あなたに私どもを、そして私どもの者だと思いこんでいるすべてを、あなたにお返しします。どうぞ、あなたの栄光のために、用いて下さい。アーメン。