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「聖書ってどんな本?」

聖書ってどんな本?」
             ファミリー礼拝式 2012年6月10日
             ヨハネによる福音書 第5章31~40節
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

今朝は、特別に、ファミリー礼拝式として、礼拝を捧げています。もともと、僕たち私たちの教会は、大人も子どもも、男性も女性も、そして元気な人もそうでない人も、誰でもいっしょに捧げるのが礼拝式です。神さまは、僕たち私たちを大人の人たちも含めて、皆で神さまの家族として、ここに呼び集めて下さいました。ただ、どうしても、子どもたちには、大人のお話は、むつかしいです。だから、子どもの教会を行って、子どもたちのためにお話をしているわけです。神さまは、子どもの教会もまた、まことの礼拝として心から喜んで、受け入れていてくださいます。今朝は、いつもの礼拝式の説教を子どもの教会の説教で行いたいと思います。

天のお父さまは、日曜日のたびに、お墓を打ち破ってお甦りになられたイエスさまを礼拝するようにと、僕たち私たちに教会を与えて下さいました。教会は、キリストの体と言われています。主イエス・キリストが、礼拝式の真ん中に共にいて下さるからです。そして、僕たち私たちもまた、このキリストの体としての教会の一部分、一員だというわけです。ですから、子どもの教会を、これからも大切にして行きましょう。皆で勢ぞろいするとき、イエスさまも天のお父さまも、どれほど、喜んでくださるでしょうか。先生も、本当に嬉しいのです。けれども、それに比べられないほどの喜びが天にあると思います。天のお父さまは、僕たち私たちのひとり一人の名前を呼んで、「ここに来なさい。わたしを礼拝しなさい」とお招きになってくださいます。

それは、天のお父さまが、イエスさまを信じる僕たち私たちの信仰を通して、イエスさまの愛を心にあふれるほど注いで、元気にしてくださるためなのです。こうして、僕たち私たちは、今日から、また、新しい一週間を始めることができます。本当に感謝したいと思います。

さて、世界中の讃美歌の中で、とくに子どもたちのための讃美歌の中で、一番有名で、一番歌われている讃美歌は、どんな歌でしょうか。調べたこともありませんし、調べることもできないと思います。けれども先生は、きっとこの曲だと思うのです。それは、今、皆で捧げた讃美歌484番です。大人の人たちは、「主、我を愛す、主は強ければ」と言う歌詞で歌ってきました。先生たちは、すらすら歌えると思うのです。

今朝、皆で歌ったのは、こうでした。
「愛の主イエスは 小さいものを
いつも愛して 守るかたです。
聖書は言う、イエスさまは
愛されます、このわたしを。」 

繰り返しの部分が特に大切です。「聖書は言う、イエスさまは、愛されます、このわたしを!」
もともとは、英語の歌です。日本語に訳すと、言葉数が多くなってしまって、歌詞にするのが難しいのです。でも、中高生は、ぜひ、英語の歌詞を読んでみてください。

「イエスさまは、わたしを愛しておられます。
わたしはそのことを知っています。
何故って、聖書がそう言っているからです。」

先生は、今日のお話の準備をしながら、こう思いました。結局、皆さんに、心の底から感謝して、喜んでこの讃美歌を歌ってもらえたら、それで最高に幸せです。何故なら、要するに、聖書が言っているのは、こういうことだからです。

「イエスさまは、わたしを愛しておられます。
わたしはそのことを知っています。
たとい、イエスさまを信じ、イエスさまにつながっている僕たち私たちは弱くても、イエスさまは強いのです。
だから、怖がる必要はありません。明日のことを心配しなくても大丈夫。天のお父さまは、イエスさまを十字架で犠牲にしてまで、僕たち私たちを救って下さったのです。いのちがけで、僕たち私たちは、愛されているのです。どうして、それがわかるのか、聖書がそう言っているからです。」

さて、ある安息日のことです。イエスさまは、38年間も病気で苦しんでいた人を癒されました。それに対して、多くのユダヤ人が、この人をいじめ、癒したイエスさまを迫害し始めました。そこで、イエスさまは、このようなお話をされました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ。」

「あなたたち」というのは、聖書によってまことの神さまを信じ、礼拝しているユダヤ人のことです。ところが、肝心のその人たちが、イエスさまのことを救い主だと信じないです。むしろ、イエスさまのお働きの邪魔をするのです。迫害するのです。

中高生の方々なら、もしかすると「論語読みの論語知らず」ということわざを聞いたがことがあるかもしれません。
確かにユダヤ人は、聖書を熱心に読んでいます。しかも、ただパーっと読むだけではなくて、ゆっくりと時間をかけて、丁寧に読んでいます。ユダヤの律法学者さんたちは、辞書を開いたり、注解書を開いたり、聖書の研究をしている人たちの意見を聞いたり、それこそ一文字でもおろそかにしないで調べ上げていました。

そして、さすが、ユダヤ人。さすが律法学者です。彼らは、聖書のなかには、永遠のいのちがあると考えているのです。そして、それは、まったく正しいのです。本当に、僕たち私たちが持っているこの聖書の中には、永遠のいのち、まことのいのち、救いがあるのです。そして、ユダヤ人は、永遠のいのちを熱心に求めているわけです。

ところが、イエスさまは、そのような彼らのことを、喜ばれません。聖書の正しい知識をもって、ただしく理解しているとは、まったく認められません。むしろ、こう仰います。「あなたがたは、的外れな読み方をしていますよ。あなたがたは、聖書のことが、ほんとうは、まったくわかっていないのですよ」。
どうして、そんなことを宣言なさるのでしょうか。答えは単純です。なぜなら、聖書とは、彼らの目の前にいたそのイエスさまのことを、証する書物だからです。「証する」というのは、「指をさす」ということです。きっと、みなさんは、「ねぇねぇ、これを見て、あれを見て」という時、おそらく、声だけではなく、指をさして示すでしょう。聖書は、イエスさまのことをもっともっと強く、はるかに真剣に指さしている書物なのです。「さあさあ、このお方をごらんなさい。イエスさまを見なさい。イエスさまをしっかりと見つめなさい。このイエスさまこそ、救い主です。神さまの御子です。信じて従うことのできるただお一人のお方です。」

イエスさまがこのことをお話されていたときには、まだ新約聖書はありません。旧約聖書しかありませんでした。その旧約聖書の中には、実は、イエスさまのお名前がひとことも記されていません。だったら、ユダヤの人たちが分からないのも、しかたがないのでしょうか。いいえ、違います。もし、真剣に、本当に旧約聖書を読んでいたら、そして、イエスさまを見つめていたら、わかるはずなのです。この聖書には、イエスさまのことが書かれているのだとわかるはずなのです。イエスさまはお叱りになられました。「分からないのは、まことの神さまへの愛がないからです。神さまを愛し、従おうとして聖書を読めば、分かります。聖書は、神さまの御言葉だからです。神さまのお考え、お心が、ご計画がちゃんと語られているからです。だから、神さまを愛して下さい。」

いったい聖書は、誰が書いたのでしょうか。聖書を書いた人たちは、およそ40人くらいだろうと言われています。いろいろな人たちが、さまざまな場所で、時代の中で、書いてきました。それを一冊にまとめたのが、この聖書です。書いた人たちは、皆で集まって、どんなことを書こうか、誰がそのことを書くべきか、相談しませんでした。というよりも、およそ1000年もの長い間に書かれているものを、一冊にまとめたのですから、相談できるはずもありません。ところが、実に、見事に、一冊の聖書として、まとまっているのですから、こんなに不思議な本はありません。つまり、聖書を本当に書いたのは、やっぱり、神さまだということが分かります。だから、聖書を神さまの御言葉と言うのです。神さまがご自身の語られたことやそのお考えを、文字にしてくださったのです。

神さまは、どうして僕たち私たちに聖書を与えて下さったのでしょうか。それは、イエスさまのことを紹介して、イエスさまを信じさせるためです。イエスさまを信じると、汚い心や悪い行い、神さまの前に犯した罪のすべてが赦されて、神さまの子どもとされるからです。永遠のいのち、もっとも大切な命を与えていただけるからです。

それなら、僕たち私たちが、聖書を分かるためには、どうすればよいのでしょうか。それは、今、僕たち私たちがしていることが、もっとも大切です。つまり、みんなで神さまを礼拝することです。日曜日を主の日として、教会に集まり、聖書のお話、説教を聴くことです。神さまは、聖書を通して、僕たち私たちに語りかけておられるからです。そうしていると、だんだん、分かってきます。イエスさまが僕たち私たちをどれほど愛しておられるのかが分かります。つまり、神さまが、どれほど深い愛をもって、僕たち私たちを愛しておられるのかが分かります。イエスさまを、十字架にかけてまでも、僕たち私たちをお救いくださる天のお父さまの親心、イエスさまのはかりしれないほどの愛の御心が分かります。

そして、イエスさまのことが好きになります。イエスさまのことを大切に思います。それを愛と呼びます。イエスさまを愛している人は、既に、神さまの子どもとされています。その人は、神さまに喜ばれることを喜びます。もっともっと、神さまに喜ばれたいなと思い始めます。聖書には、どうしたらもっと神さまに喜ばれる神さまの子どもになれるのかが書いてありますから、もっともっと聖書を読みたくなるのです。そして、聖書をそのように読む人には、ただ頭で分かるというだけではなく、実際に、神さまに喜ばれる行いがしたくなります。そして、天のお父さまは、僕たち私たちに、聖書を通して、聖霊なる神さまの力を与えて下さって、小さくても神さまに喜ばれる行いをさせてくださいます。もう、僕たち私たちは、神さまにもっとも喜ばれる行いを、させていただいています。それが、この礼拝です。

これからも子どもの教会の礼拝で、聖書のお話を聴き続けましょう。神さまを愛し、お友達を自分のように愛して、神さまの子どもとして歩み続けましょう。

説教の後、今日は特別に、先ほどの讃美歌をもう一度歌いましょう。世界中で一番、歌われている歌かもしれません。悲しい時、つらいとき、思いだして歌って下さい。大人にも子どもにも、これが、もっとも大切な真理です。もう一度、最初に言ったことを、お読みします。

「イエスさまは、わたしを愛しておられます。
わたしはそのことを知っています。
たとい、イエスさまを信じ、イエスさまにつながっている僕たち私たちは弱くても、イエスさまは強いのです。
だから、怖がる必要はありません。明日のことを心配しなくても大丈夫。天のお父さまは、イエスさまを十字架で犠牲にしてまで、僕たち私たちを救って下さったのです。いのちがけで、僕たち私たちは、愛されているのです。どうして、それがわかるのか、聖書がそう言っているからです。」

祈祷
天のお父さま、聖書を通して今日もお語り下さって感謝します。私たちは、イエスさまを信じます。愛します。何故なら、あなたが、わたしたちを愛しておられるからです。この信仰と愛を、もっと深く、強くしてください。神さまを愛し、自分を愛するようにお友達を愛して歩む神さまの子どもとならせてください。
アーメン。