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「イエスをキリストと告白する」

「イエスをキリストと告白する」
                2012年7月1日
             マタイによる福音書 第22章41~46節
ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」

主イエス・キリストの恵みと平和が皆様にありますように。ひと月ぶりに、いつものようにマタイによる福音書の講解説教に戻ります。

先週は、伝道礼拝式として、すばらしい礼拝式を捧げることができましたことを改めて感謝する者です。そのような特別の伝道説教では、何が説教者そして私ども教会員の祈りの課題になるのでしょうか。それは、はっきりしているだろうと思います。新しい方、求道しておられる仲間に、イエスさまを信じて頂くこと、信仰が与えられることです。これこそ、決定的な祈りであり、目標です。そして、ついに洗礼を受けて、今朝、この礼拝式でお祝いする聖餐の食卓に共にあずかって頂くことです。もとより、今朝も同じ祈りを持つのです。

さて、それなら、私どもが救われるために、いったいどうすればよいのでしょうか。それは、一言で言えることです。一息で言えることです。イエスさまを信じて頂くことです。キリスト教について、たくさんの知識を得て、これを誰かにきちんと伝えられるようになることまで、求められているわけでは、まったくありません。イエスさまをキリストと信じ、告白していただくことです。

したがって、私どもにとりまして、究極の信仰告白、あるいはもっとも短い信仰の告白は、こうなるだろうと思います。「主イエス・キリスト」です。あえてもっと短く、言えば、「イエス・キリスト」です。「イエスさまは、キリストです」と信じ、告白するのが、キリスト者です。そして、このキリストとは、救い主という意味を持っているわけです。イエスさまは、私の救い主でいらっしゃいます。これが、イエス・キリストという告白なのです。

さて、今朝のテキストもまた、ファリサイ派の人たちや律法学者たちとの議論です。しかし、これまでの議論とは、一つはっきりとした違いがあります。それは、これまでの議論は、律法学者やファリサイ派の人々から吹きかけられるようにして始まったものです。しかし、ここでは初めて、主イエスの方から、議論が始められます。主イエスは、このように問われます。「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」

ここでの議論とは、キリスト教の神学的議論のまさに中心と言ってよいものです。つまり「イエスとは誰か。」という議論です。ナザレで生まれて、時いたり、神の国を宣伝して、民衆を引きつけたユダヤ人イエス。しかし、ついには、弟子に裏切られ、ユダヤの権力者に妬まれ、ローマの権力の下に死刑に処せられ、十字架で殺されたイエスとは、誰か。これこそ、キリスト教神学のまさに根本的な主題に他なりません。

「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」実に、イエスさまご自身が、神学の用語でいわゆるキリスト論をここで明瞭になさるのです。何故でしょうか。横道にそれますが、ときどき国会で「不毛な神学議論はやめましょう」などと議員が発言することがあります。これは、無意味な議論と言う意味です。しかし、神学の議論とは、私どもの救いがかかっている議論なのです。確かに、神学者たちだけがする議論もあります。それは、専門家に任せてもまったくかまいません。しかし、私どもの救いをめぐる議論こそ、神学議論の本質です。そしてそれは、罪の赦しを巡る議論に他なりません。罪の赦しを、聖書は救いと言うのです。聖書を通して教会が与えるのは、この罪の赦しとしての救いです。そして、それは、別の言葉で言いますと、永遠のいのちです。つまり、イエスさまが、誰であるのか、キリストとは誰であって、何かがと言う問いは、すべての人間にとって、言葉の正しい意味で、最も重要な議論なのです。イエスさまとは、誰なのか、キリストとは、誰で、何者なのかをきちんと知り、応答すること、告白すること、ここに私どもの永遠がかかっているのです。だから、イエスさまは誰なのかということが、決定的に重要なのです。

さて、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」とあります。主イエスは、このような質問をなさって、いったい何をなさろうとしておられるのでしょうか。主イエスが、ここで試みられるのは、まさに、キリスト、つまり救い主とは、メシアについての当時のユダヤの人々のイメージ、理解、信仰を壊そうという御心です。修正とか、訂正では、言葉が弱いのです。壊すためです。粉砕するためです。それなら、破壊されるべき、間違ったキリスト理解とは、どのようなものなのでしょうか。彼らは、こう応えました。「ダビデの子です」いったい、ダビデの子という理解の何が問題であり、どこが間違いなのでしょうか。

最初に押さえておきたいのは、彼らにとって、キリストがダビデの子孫であるということは、まさに何の疑いも抱くことのない、常識そのものだということです。
それなら、この当時のユダヤ人のもっているメシア理解、キリスト理解の何が問題だったのでしょうか。彼らが抱いていた、ダビデの子のイメージ、理解とは、結局、イスラエルという国を豊かな独立国として成長させた王ダビデの子孫という意味です。ダビデの血筋を引く子孫がメシアなのだという理解です。そしてそれは、単に血統の上でのこだわりが強いからなのではありません。むしろ、そこで、ユダヤ人が待ち望んでいたキリスト、つまり救い主とは、まさに、歴史上のダビデ王が、ユダヤの国家において果たした役割をもう一度担うことのできる人という意味なのです。つまり、地上の王の王、英雄です。ユダヤの歴史、今日のイスラエルを含んで、ダビデの時代にまさって国家の領土を広げた時代はありません。その意味では、空前絶後の国家繁栄の強力なカリスマをもったリーダーがダビデでした。ユダヤ人のキリスト論、ユダヤ人の救い主とは、このダビデ以上に、神からの祝福と権威を受けた、圧倒的な指導者、王のイメージなのです。このような理解の背景には、彼らが、既に長きにわたって圧倒的な軍事力、経済力、高い文化をもったローマ帝国の圧迫によって苦しめられていた歴史的な現実があります。高い税金を納めさせられていたのです。

主イエスは今、彼らのキリスト論、キリスト理解を破壊するために、問われます。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

これは、ダビデが歌った詩編第110編からの引用です。新共同訳聖書は、このように訳しました。「わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」最初に出て来る主は、これは、神ご自身、主なる神の意味です。次に出て来る主こそ、ここでの議論の中心です。この主こそが、キリストを意味しています。主なる神が、ダビデの主キリストに語られたのです。父なる神の右の座に、このキリストはおられるというわけです。つまり、ダビデは、キリストを自分の子孫から生まれる子ども、孫、ひ孫、子孫であるとは言っていないということです。確かに、まだ見たこともない自分の孫やひ孫に向かって、わたしの主と呼ぶことは、おかしなことです。つまり、主イエスは、ここで、キリストとは、単にダビデの子孫、血統上の関わりのある者ではないと言うわけです。少なくとも、血筋のことは、本質的なこと、決定的なことではないと主張されたのです。

さて、しかし、私どもは、このイエスさまの説教だけでは、まったく満足できないと思います。キリストとは、誰ではないのか、それだけ、示されても、困ります。救い主とは、どのような人で、誰なのかが、分からなければ、ほとんど意味がないと思います。なぜなら、それでは、救われないからです。間違いが明らかにされても、最後にきちんと正解を教えてもらわなければ、困ります。問題集に模範解答がついていないと、役に立たないでしょう。

そして、それを明らかにするのが、このマタイによる福音書であり、その全体なのです。福音書は、終わりから読むことが大切になるわけです。全体から読むということは、そのようなことです。それなら、福音書の終わりには、何が書いてあるのでしょうか。それは、イエスが、十字架で殺されたことです。死んでくださったことです。そして、三日目に、墓の中から、ご復活されたことです。つまり、キリストとは、単に英雄ダビデ王を何倍も、何十倍も越える圧倒的に優れたカリスマ、能力をもった人ということではないのです。むしろ、正反対です。まことの救い主、キリストは、最後に、十字架で殺されてしまうこと、ここにこそ、キリストのキリストたるゆえんがあるわけです。キリストとは、ご自身の民のために、彼らの身代わりになって苦しまれるお方なのです。苦しみを受けるお方なのです。そして、そのようなキリスト理解は、実は、聖書が明らかにしていたキリストの姿なのです。そしてそのお方は、ダビデが生まれる前から存在しておられたお方です。父なる神の右に坐しておられるのです。つまり、永遠の存在者。つまり、神ご自身です。神の独り子でいらっしゃるのです。

このことを明らかにしている聖書の個所を、今朝、丁寧に学び直す暇はありません。主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられたとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から声が聞こえました。
主イエスは、ペトロとヤコブとヨハネを連れて、山に登られ、栄光の姿を見せられました。そして、もう一度、そのとき、天からの声を聴かせて頂きます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
つまり、マタイによる福音書は、これまで繰り返し、このイエスが、神の愛する御子、独り子でいらっしゃることを証しているのです。しかも、これこそ、最も大切なことですが、この神の御子でいらっしゃるキリストは、十字架に向かってまっすぐに歩まれるお方でいらっしゃると言うことです。

さて、私どもはこの議論を昔話として読むことはできません。今日の私どもの過ちをも、ここで教えられるはずですし、悟らなければなりません。

先週、私どもは、特別伝道集会を開催いたしました。そこで、まことにすばらしい説教者をお招きして、善き説教を聴くことによって、礼拝式を捧げることがゆるされました。しかし、その感謝の一方で、ある悲しみもまた深められてしまったはずです。それは、祈った方が来てくれなかった。お誘いしながらも、来て頂けなかったということです。特に、今回は、枚数こそ、いつもより、少なかったのですが、1万枚近くのチラシを、一軒一軒、ポストに投函しました。わたしも、お一人くらい、このチラシによって教会を訪ねて下さる方が起こされるのではないかと思いました。期待して祈りました。しかし、ご存知の通りです。祈祷会では、「落胆しない」という、Ⅱコリントの信徒への手紙の御言葉を読みました。確かに、私どもは、落胆することがあります。教会に懸命に奉仕して、御言葉に生きようとするからこそ知る、落胆だと思います。悲しみだと思います。伝道礼拝式は、まことに充実した喜びにあふれた主日でしたが、その反面、この悲しみを知らされるときでもあります。

今もわたしどものまわりの方々は、神を問題にしません。自分の死に、キリストの死に、そしてキリストの復活に向き合おうとしません。チラシには、人間の不幸の現実、自分の悲しみの現実に目をそらさないで、向き合おう、そして、神に向き合いましょうと呼びかけました。これほど危機的な日本の状況にあってもなお、この町の人々が、福音に心を閉ざしたままであることを、私どもは、主とともに悲しまざるを得ません。

しかし、だからと言って私どもは決して、人々が求めているうわべの欲求になびきません。この世の宗教団体が提示するようなものを提供しません。私どもキリスト者は、どこまでも十字架のキリストを宣べ伝えるのです。
現代の日本と日本人にとっての福音、嬉しい関心事、喜びにつながる情報とは、何でしょうか。それは、結局、このときのユダヤ人の問題と同じではないでしょうか。つまり、政治的な、経済的な豊かさと楽しみの追求です。これほどの大災害、原発震災を受けながら、なお、根本的に新しい日本を立て直そうとは、政府も経済界も、なお多くの国民も考え、行動していないのではないでしょうか。

しかし、それなら現実の教会は、どうでしょうか。教会こそが、問われているのです。落胆して、伝道の困難さを嘆いて終わってしまうのか。あるいは、もはやきちんと嘆く事もないまま、自分の生活、くらしを中心に据えて、教会の生活を進めるのか。私どもの眼差しは、いわゆるこの世の価値観に流されて、大きいこと、有名な事、偉いこと、優秀なこと、もうかること、便利なこと、その他の価値観、この世の常識の反対の方向へと向かっているでしょうか。真剣に問うべきこと、向き合うべき課題です。

先週、吉田先生が午後のときに、大変、嬉しい報告をしてくださいました。「今、東北で、教会など要らないという人は、いません。」本当に、すばらしいことです。私どもも、その手ごたえを感じています。それは、教会が偉くなろう、大きくなろう、楽をして楽しもうとしないからではないかと思います。むしろ、共に悲しもう、共に重荷を担おう、共に生きて行こうと志し、その志にわずかでも生きようと励んでいるからだと思います。私どもキリスト者とは、自分がキリストによって小さな人間、弱い人間としていただいていることを知らされています。そして、だからこそ、十字架のキリスト、誰よりも小さな者となられたイエスさまの顧みを受けている者だと知らされています。実際に、私ども小さな者と常に、共にいてくださるのがキリスト、救い主イエスさまです。私どもの教会は、伝道所としてなおなお、様々な点で、欠けがあり、課題があります。しかし、それでもなお、十字架のキリストに顧みられ、この苦難と死を味わわれたイエスさまに従うことが許されています。

この十字架のイエスさまをキリストと告白する、これが、私どもの教会の真髄です。確かに、人々が、罪の問題に、目をそむけたままであれば、イエス・キリストは、人間に不用とされてしまいます。イエスさまの十字架には、その方々には、意味がなくなってしまうかもしれません。しかし、もし、人が、罪からの救い、罪の赦しなしに生きることができないことを知るなら、まさに、天下に、イエス以外に、救いはない、十字架以外に救いはないことを知るのです。私どもは、時が良くても悪くても、このキリストを証するのです。

最後に、長くなりますが、重要な御言葉を引用します。何故なら、主イエスが、引用なさった詩編第110編、『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』。は、コリントの信徒への手紙Ⅰ第15章にも引用されているからです。その個所は、主イエス・キリストのご復活を集中的に語る使徒パウロの言葉です。20節「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。」

もう一つ、今朝も、唱えましたニカヤ信条を思い起こします。「イエス・キリストは、ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目によみがえり、天にのぼり、御父の右にざしたもう。主は生ける者と死にたる者とを裁くために栄光を持って再び来たりたもう。その御国は終わることなし。」

イエス・キリストの王国、御国は、終わらないという勝利宣言です。歴史上のダビデ王国は、その息子のソロモンの代ですでに分裂と崩壊へと進みました。イエスさまの時代に、なおかろうじて独立国家の体裁を保ちましたが、主イエスの予告通り、わずか数10年後、国土を奪われました。いらい、1900年間、国家なき民、国土なき民のままでした。

しかし、イエス・キリストの国は、継続しています。その現れ、基地、証拠は、私どもキリストの教会の存在です。そして、間もなくキリストの王国は、主イエスの再臨によって、完成します。私どもは、忍耐をもって待ち望んでいるわけです。教会は、このキリストを頭としていただいているのです。私どもキリストの教会は、この滅びゆく世界と時代のただ中で、イエスがキリストでいらっしゃることを語り続けるのです。

今、私どもは、聖餐の食卓を祝います。これは、天国の祝宴の地上における投影、前味の祝いです。キリストは、目に見えませんが、神の霊によって、聖霊によってここに臨在しておられます。ここで、私どもは、十字架で死んでご復活されたキリストによって、ごじしんのいのちそのものを受けるのです。いのちがけの愛のもてなしを受けるのです。こうしえ、私どもは、この聖餐の食卓を通して、聖霊を豊かに受けることができるのです。そして、罪の赦しにあずかり、永遠の命を新しく注がれ、神の子、キリスト者として生きるための養いを豊かに受けるのです。

そして、主イエスは、このいのちの食物で養われた私どもに、命じられます。御言葉に従うようにと命じられます。掟が与えられます。それは、この前のテキストにある新しい掟です。つまり、神を愛し、隣人を自分を愛するように愛することです。キリストの律法に生きることです。

私どものために、最も小さくなってくださったイエスさまこそ、私どものキリストです。したがって、キリスト者は、教会は、この世界において、最も小さくされた人々との出会い、彼らの隣人となるべく、私どもは、呼び出されているわけです。ディアコニア、奉仕に生きることへと召し出されたのです。

最後の最後に、確認しておきましょう。ダビデが、キリストを主と呼ぶことができたのは、彼の人間的な知恵ではありません。聖書ははっきりと告げています。神の霊によって、なのです。つまり、聖霊が注がれたからこそ、ダビデも、そして、私どもも、イエスさまをキリストと呼べたのです。ここに、恵みがあります。救いがあります。どうぞ、これからも、この聖霊を祈り求めつつ、イエスさまを救い主として、信じ、このお方の招きに応えて歩みましょう。

祈祷
人間が自分勝手につくりだした、キリスト理解や宗教の故に、私どもの救い主、イエスさまは、十字架で殺されました。私どもの自己中心の、愚かな、頑ななキリスト理解、宗教、生き方が、キリストを殺したのです。しかし、あなたは、それを用いて、私どもの罪を贖い、赦し、かえって私どもに救いの道を開いて下さいました。今、十字架につけられたイエスさまをキリストと告白します。賛美申し上げます。感謝致します。どうぞ、この苦しみ、嘆き、弱く、小さくされたイエスさまを、キリストと告白し続けることができますように。そのために、聖霊を注いで下さい。そして、私どもの自分勝手なキリスト理解を常に、崩して下さい。教会に、そして私どもの日々の暮らしのただ中に、あなたの国が始まっていること、あなたのご支配のなかに私どもが生かされていることを、信じ、勇気を出して、この国の中で、社会の中で、家庭において、あなたに救われ続け、あなたと共に生きる者とならせて下さい。アーメン。