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「主イエスの嘆きそして喜び」

主イエスの嘆きそして喜び」
                2012年8月12日
             マタイによる福音書 第23章34~39節
「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

神の裁き、主イエスの裁きの説教を続けて聴いています。このような裁きの説教を聴くことは、私どもにどれほど大切なことなのかを思います。また、幸いをもたらすことになるのかと思います。

ここでマタイによる福音書が、告げている神の真理、神の御心は、怒りであります。そして、そもそも考えてみますと、聖書全体が、神の怒り、神の裁きを告げていることは、明らかのはずです。とりわけ旧約が私どもに告げる真理の大きな部分は、神の怒りであります。

そこでまた考えてみますと、聖書は、他のいかなる書物とも根本的に違うなあと思います。聖書は、私ども罪深い人間にとって、目をそらしたくなる真理、真実、現実をきちんと明らかにしているということです。いったい、聖書以外のどこに、この神の怒りが真剣に記されているでしょうか。聖書がまさに神の言葉だということの一つの証拠であるとすら思います。しかし一方で、どのような小説よりも、赤裸々に、人間的な罪や過ちが記されています。創世記の冒頭の短い部分に、夫婦げんかにはじまり殺人事件までが濃密に記されています。しかしこれは、生身の人間の現実を描写しているだけです。

そしてそのような罪とは、神がもっとも嫌われる行為に他なりません。神と罪、まったく水と油です。聖なるお方と汚れです。罪とは、神と御言葉に違犯することです。まさに、神の世界、神が創造された世界に、本来、あってはならないものです。だからこそ、人間の罪こそ、聖書の主題になっているわけです。そして、だからこそ、聖書の主題は、救いとなるわけです。それなら、そもそも、救いとは何でしょうか。

私ども名古屋岩の上伝道所は、今週、被災地に第7回目になりますが、教会としてチームを派遣します。現地に派遣される者も派遣する者も、一つの名古屋岩の上教会に他なりません。もとより、今回も、別の教会の兄弟姉妹が共に奉仕を担って下さるわけで、本当に嬉しく、感謝です。そして、現地には、のぞみセンターのスタッフの奉仕者とも一つになって奉仕を担います。キリスト者の共同体、言わば、そこに教会のディアコニア、奉仕が捧げられるわけです。そして、被災地の方々にとって、救いとは何かを考えるときに、それは、おそらく、復旧そして復興であり、もとの生活に戻るということになるのだろうと思います。そして、私どもが常に派遣されているこの町に住む人々にとっての救いとは何でしょうか。それは、経済の問題もあり、健康の問題もあり、それらが解決することだろうと思います。そして、もう一歩進めば、充実した人生とか、成功した人生とか、豊かな精神生活とか、になって行くでしょう。しかし、そこでいつも教会とこの世界、特に日本社会とは、大変なギャップを相互に覚えてしまうのです。言わば、かみ合わない状態が続くのです。

どうして、かみ合わないのでしょうか。そこでは、救い、救われるということの理解が違っているからです。神が与えて下さる救いと、人間が求めている救いとのギャップです。

聖書の主題が罪であって、だから当然、聖書の主題は、救いであると申しました。そのことがきちんと分かって頂ければ、その救いとは、これ以外の何ものでもないということは明らかになるはずです。つまり、それは罪の赦しです。そして、その罪の解決方法とは、ただ一つしかありません。罪とは、神の前に犯す行為であり、犯した人の存在のことです。ですから、神さまに赦して頂くということ、それだけです。救いとは、罪の赦しなのです。罪が赦されることなのです。教会は、聖書は、福音は、単に、人に、心の拠り所を与えるとか、心の修養、人格修養の場ではありません。それを、目指して、与える知恵とか知識ではないのです。救いの知恵が記されているのです。救いに至る知識であり、救われた者の知恵、生きる知識が記されているのです。

神に犯した罪を、神に赦して頂くとき、その結果として、実は、心に喜び、心に平安が与えられるのです。もはや、心の拠り所とか、心が軽くなる程度のことではありません。いかなる困難をも乗り越える力、生きる力、生きて行く希望が与えられるのです。

さて、いよいよ、もう一段階、掘り下げて考えたいのです。救いとは、赦しだということは、揺るぎない福音の真理です。それなら、何故、私どもは、赦し、罪の赦しという言葉ではなく、「救い」という言葉を用いるのでしょうか。救われていない状態があるのです。罪を犯している人々は、どのような状態にあるのでしょうか。それは、神の怒りの状態です。神の怒りを受けている状態です。しかも、そのことに本人は、気づいていません。要するに、聖書の言う救いとは、神の怒りからの救いなのです。この福音の真理がよくわからないまま、あるいはぼんやりしたままであれば、キリスト者の信仰生活もまた、ぼんやりしたもの、よくわからないものになってしまいかねません。その意味で、今朝、このテキストを通し、もう一度、確認しておきたいと思います。

私どもは、罪人として、自分の罪によって、神の怒りを受けるべき、神の刑罰を受けるべき者でした。それがどれほどまでに、恐ろしいことなのかは、人類は、まだ誰も知っていません。ただし私どもキリスト者は、少し知らされたはずです。つまり、神を信じないままの状態、神に背中を向けていたときのことです。イエスさまを知らず、神を知らないとき、私どもはまさに闇の中に生きていたのです。闇の中に生きていたことを、どこで知ったかと言えば、いうまでもなく、光の中で知ったのです。つまり、イエスさまとの交わり、主イエス・キリストに救われた初めて知ったのです。救われる前までは、自分が神の怒りの下にあったことも知らなかったのです。神の怒りから救われ、神の愛と赦しの中に自分を発見し、それを確信したとき、私どもの心に真の安らぎ、喜び、平和、勝利を味わうことができたのです。

その意味で、この説教を直に聴いていた律法学者もファリサイ派の人々も、主イエスの説教はまったく分からなかったはずです。そして、この説教をマタイによる福音書を通して聴き続ける教会は、どうなのでしょうか。それこそが、今朝も問われています。私どもは今朝、あらためて、主イエスの裁きの説教、その警告を通して、主イエスの嘆きとそして喜びを見つめたいと思います。

さて、いよいよ、主イエスのこの御言葉から学びます。「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。」注意して聴きましょう。ここで、主イエスご自身が「わたしは」と宣言されています。父なる神がではありません。主イエスご自身が、神として、預言者、知者、学者をイスラエルの人々に遣わしたということです。旧約における何人もの預言者たちは、実に、イエスさまによって派遣されたという自己理解です。もとより、父なる神が派遣されたことを、否定なさったわけではないはずです。むしろ、この表現において、ご自身が、永遠の神でいらっしゃることが、ひょういと顔を出しているということです。そして、遂に、今このとき、預言者の中の預言者、知者の中の知者、学者の中の学者としてこの地上に、イスラエルに来られたのです。

それは、既に、学びました第21章の「ぶどう園と農夫のたとえ」で明らかにされた真理です。ぶどう園の主人は、農夫に貸しておいた畑からの収穫を得るために、自分のしもべを何人も送ります。しかし、農夫は、そのしもべたちを「捕まえ、一人を袋だたきにし、ひとりを殺し、ひとりを石で打ち殺し」てしまいます。ついに、主人は、息子を派遣します。すると、なんと、農夫たちは、「これは、跡取りだ。さあ、殺そう。そして、相続財産を我々のものとして、奪い取ってしまおう。」と相談して、殺害してしまうのです。この譬えは、まさに、主イエスがご自身になされようとする近未来の予告です。しかも、ここでは、譬えではなく、遂に、ストレートに語られたのです。ここでは、これまでのように弟子たちだけにではなく、敵対者自身、殺す側の相手に向けて、はっきりとご自身の十字架の死を予告なさったわけです。

もう一つ、注意しておきたいのは、「預言者、知者、学者」という表現です。これは、自己紹介とも言えます。中でも、主イエスがご自身のことを知者、学者と表現なさったことは、意味が深いと思います。当時の人々は、イエスさまのことをひとりの預言者としては、認めていたはずです。しかし知者、学者とは思わなかったと思います。何故なら、知者とか学者とは、世間で言えば、まさにこの説教の直接の聴き手のことを意味していたからです。律法学者たちこそ、この世界の知者、学者と認められ、他ならない本人たちがそう主張していたからです。彼らには、いわゆる学歴があるからです。公認された研究者、学者の道を歩んでいるからです。その意味で、私どもは、表面的、外面的な権威に惑わされてはならないということになるはずです。福音書に記された主イエスの教えは、なんと、単純素朴であろうかと思います。他の歴史的宗教、たとえば、釈迦やその弟子たちと比べてみれば、すぐに分かります。実に、深淵、高邁な哲学であり、世界観です。イエスさまの教えと釈迦の教えを比較すれば、明らかに、釈迦の方が難しく、込み入っています。理解するには、それこそ、よほどの能力がなければならないはずです。(純粋な釈迦の教えそのものは、広まらなかった理由はそこにあると思います。)しかし、主イエスが、神を愛し、隣人を自分のように愛しなさいと教えられたこと、そのようにして神の国がこの地上に姿を現わして行くことを、ただ教えられただけではなく、そのことを極みまで実践されたからこそ、まことの預言者、知者、学者なのです。まことの知恵のある者、学者とは、イエスさまのことです。主イエスこそ、神の知恵そのものであり、御言葉のまことの教師でいらっしゃるのです。学者や専門家と言われる人たちが、そして政治家たちが、停止していた原発を再稼働させました。先週、新聞でひとりの小学生が、人間の能力で制御できない原子力をつくって、それを平和利用することは、おかしいと思うと投書が載りました。彼女は、知恵が欲しいと書いていました。9歳の女の子と学者たちの知恵とどちらに人間の知恵があるのでしょうか。今月の月報にある兄弟が心に留めている御言葉は、「主を畏れることは知恵のはじまり」箴言第1章を挙げていました。多くのキリスト教主義の大学で、この御言葉が大切にされています。私どもは、誰に聞き従うのでもなく、この預言者、この知者の中の知者、学者の中のまことの学者イエスの権威のみに服し、イエスさまにのみ聴き従います。

主イエスは、ここで、こう仰います。「あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。」そうであれば、私どもは、ここで強調なさった真理をしっかりと把握しておきましょう。主イエスは、旧約の歴史において神の御心をはっきりと告げた預言者たちがどれほど、迫害され、当時の人々にそっぽを向かれたのかという歴史的事実を強調されます。そうであれば、私どもは、ここで、神の言葉の「運命」について、やはりきちんと考えておくことが重要です。今、わたしは、あえて運命という言葉を使いました。神の言葉をまっすぐに語るそのとき、私どもは、相手に喜ばれるよりはむしろ嫌われることになるということを、わきまえておく必要があると思います。御言葉の説教が、まさに神の言葉として正しく語られたとき、もし、それが、受け入れられるなら、喜ばれるなら、まさに、それは、聖霊のお働きがあると言うこと以外の何ものでもありません。聖霊によらなければ、誰も、神の言葉を受け入れられない。理解できない、喜べない。つまり、従わないのです。その意味で、教会とは、まさに、天の窓が開かれ、神の霊が豊かに注がれているのです。

次に進みます。主イエスは、ここで、「正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。」と仰せになられた。正しい人の血が、迫害者たちに降りかかってくると、まさに、主の裁きの言葉、神の怒りがはっきりと告知されます。「血が降りかかってくる」あらためて、これは、すごい表現だと思わされます。人殺しが、「返り血」を浴びるというようなイメージをもってしまいます。

しかも、ここでの人殺しとは、我々のまわりで、報道される殺人事件ではありません。神が遣わされた預言者を殺すのです。これは、歴代誌下第24章20節以下に記された記事に基づく発言です。これは、後で、ご自分で読んでくださればと思います。

ただ、一点、やはりここでは、当時の聖書についての言わば豆知識がなければ、よく分からなくなると思いますので、触れておきます。実は、私どもが旧約と呼ぶ聖書と、もともとのヘブル語聖書の書物の配列は、異なっているのです。私どもの旧約には、初めに創世記があって出、レビ、民、申命記と続いて、中を飛ばしますが、マラキ書で終わります。しかし、当時の人々の聖書は、それぞれの書物を、トーラー(律法の書)、ネビーム(預言者)、ケスビーム(諸書)と三分類して、私どもでは、歴代誌は、歴史書の中に収められ、配列されていますが、ヘブル語聖書を最後に置いたわけです。それぞれに、神学的な意図があるわけです。

聖書によれば、血はいのちを意味します。そして律法の書には、何度も、人を殺した者は死罪に当たる。殺されなければならないと言われます。そうすると、アベルから始まってゼカルヤに至るまで、神の前に正しい人たちを殺した罪の刑罰、その責任を支払わなければならないということです。「正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。」

創世記第4章に、カインとアベルの物語が記されています。そこにこのような御言葉があります。「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」「土の中から血が叫ぶ」という表現です。もしそうであれば、殺人事件の犯人はすぐに分かると思う人もいるかもしれません。しかし、土の中から血が叫ぶのは、神に向かってなのです。つまり、信仰の故に殺された人の血、あるいは理由なくして殺された人の血、無辜の人の血のことです。つまり、神は覚えておられるのです。

このことを掘り下げて行けば、実に大きな学びが出来るはずです。人間は、人間のいのちを粗末にします。しかし、神は、人間ひとりの死を決して、軽んじられないと言うことです。戦争や紛争でお亡くなりになられた方々、災害で亡くなられた方々の、そのひとりの死をも、神はお忘れにはならないということです。今なお、先の戦争において遺骨の収集作業がなされていますが、なお半数の120万の人々の遺骨は、戦地にあって、日本に戻ることができていないということです。その血の叫びをどのように聞くのか、それによって、私どもの今日の生活は変わるはずです。「復讐してください」と叫んでいるのか、「二度と戦争を、政府の過ち、国家国民の過ちでしてはならない」と言う叫びなのか。どちらでしょうか。

さて、主イエスは、ここで、警告されます。それは、神とその言葉を破る者、具体的には、神の言葉を告げた預言者たちに耳をかさず、かえって迫害し、ついに殺してしまった人々は、神の怒りを受けるということです。そして、それは、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」これは、明らかに、エルサレム神殿が破壊されること、そして、イスラエルの土地を奪い取られるという紀元70年に起こった出来事をさしています。

主イエスは、ここで、心底、嘆いておられます。号泣なさったのではないかとすら思います。エルサレム、エルサレム!と叫ばれます。ローマ帝国の徹底的な侵攻と略奪によって、彼らは、土地を奪われた民となるのです。明らかにそれは、ユダヤ人への神の怒りと裁きと理解すべきでしょう。主イエスは、仰いました。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」一度だけではありません。何度も何度も、神の御翼の下に集めようと呼びかけたのです。しかし、ユダヤ人はそっぽを向いたのです。当時の律法学者は、もう、二度とそのようなことはしないと決意して、自分たちの宗教改革を断行した先達の子孫を自負していたと思います。しかし、結局、神の言葉すら、自分勝手な解釈のなかで、捻じ曲げてしまったのです。

さて、最後に、わたしは、この神の怒りと裁きの御言葉から、新しい、福音に基づく解釈をしたいと思います。実は、先週の夜の祈祷会で、少し、学びました。わたしの貧しい書斎では、きちんと調べたことにはなりませんが、このような解釈をしてみせてくれた注解書がありませんでした。しかし、ローマ・カトリック教会から出された公文書があります。「人間のいのちの価値と不可侵性について 司教、司祭と助祭、修道者、信徒、そしてすべての善意の皆さんへ」通称、「いのちの福音」という文書です。それを、先週、読んで、私と同じ解釈を発見しました。力を得て、説教で語ることができます。ヘブライの信徒への手紙第12章にこのような御言葉があります。「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」

ヘブライの信徒への手紙は、主イエスさまを新しい契約の仲介者と言います。そして、このイエスの流された尊い御血こそ、「アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」と言うわけです。アベルの血が何を語るのか、それは、今朝、触れなくともよいと思います。たとい、復讐の叫びだという解釈をする人がいても、それでもかまいません。しかし、主イエスが十字架で流された御血は、どのような叫び、どのような言葉でしょうか。明らかです。

先取りをしてしまいますが、マタイによる福音書第26章の最後の晩餐の物語における主の言葉を聴きましょう。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」 私どもが先週、ここでお祝いした聖餐の食卓における制定語です。主イエスの御血は、罪の赦しを得させるのです。神の怒りから救いださせる約束の血なのです。私どもは、それを振りかけられず、かわりにおいしいぶどうジュース、ぶどう酒を頂いたのです。それによって、罪の赦しが与えられ、保証されたのです。

 主イエスのお悲しみは、この救いを拒否することです。必要ないと拒む人のことです。逆に、主イエスの御喜びは、この血を感謝して信じること、信じる人です。今朝、私どもは、この神の怒り、裁きにもう一度、真剣に向き合いましょう。そして、同時に、その怒りから、十字架のイエスさまの流された御血とそれを信じる信仰を与えられたおかげで、救いだされたことを、喜びましょう。それが、キリスト教の、教会の礼拝式の目的なのです。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、アベルの血の叫びを聞いておられます。そして、何よりも、御子であり人となられたイエスさまの流された御血の叫びを聴きあげて下さいます。そうです。それだからこそ、私どもはあなたの怒りから救いだされ、あなたの愛と恵みを注がれ、平和が与えられ、希望が与えられました。今や、私どもは神の子とされています。どうぞ、これからも、あなたの御言葉を信じ、これに従う信仰を強めて下さい。信仰の眼、耳を開き、まっすぐに、あなたを仰がせて下さい。そして、救いの恵み、罪の赦しの福音を、全存在で証させて下さい。アーメン。