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「終わりまで耐え忍び、愛する者となれ」

「終わりまで耐え忍び、愛する者となれ」
                2012年8月26日
             マタイによる福音書 第24章1~14節
「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

主イエスは、エルサレム、エルサレムと嘆かれました。どれほど深くエルサレムの町、そこに住む神の民を愛されたことかを、今朝のテキストを味わうために、改めて思い起こしたいと思います。主なる神は、神の民イスラエルを、めんどりが雛を羽の下に集めるように、愛の守りの中にとどめようと、何度も招かれました。しかし、彼らは、神が遣わした預言者たちの声に聴き従わず、むしろ、彼らを迫害しました。そこで、主イエスは、38節で、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」という予言をなさいました。

 さて、今朝与えられたテキストによれば、主イエスは、エルサレム神殿におられたようです。主イエスは、神殿を出て行かれると、あらためて弟子たちが近寄って来て、壮麗な神殿を指差しました。紀元前20年ごろからつくられ始めたと言われるこの神殿は、厳密にはまだ完成していなかったと言われます。それほど、時間をかけ、お金をかけてつくられた壮麗な神殿なのです。装飾も見事なものだったと思います。弟子たちは、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」と警告された主イエスに向かって、おそらくは、心の中で、「この壮麗なエルサレムの神殿が荒れ果てるなどということが起こってしまうのですか」という問いを込めて、神殿を指差したのであろうと思います。

すると、主イエスは念を押されるかのように、仰ったわけです。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」これは、紀元70年のローマ帝国の軍隊によるエルサレム制圧による神殿崩壊の歴史的事実の予告であることは、疑う余地がありません。

しかし、そんなことが本当に、起こりうるのかと疑い半分であったであろう弟子たちは、声をひそめて尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」弟子たちは、ここで、二つのことを尋ねています。エルサレム神殿の崩壊はいつ起こるのかということと、イエスさまがもう一度、来られてこの世界が終わるときには、どのような徴、前兆、前触れが起こるのかということです。

最初に、確認しておくべきことがあります。ここでは、世の終わりそのものについて、語られてはいないということです。つまり、主イエスの再臨の徴、前兆、前触れについてだけ語られているということです。

しかも、神殿崩壊にしても再臨にしても、その時の問題について、主イエスは一切、語られていないということです。これは、決定的に大切なことです。なぜなら、キリスト教の異端、また、キリスト教からの影響を受けたさまざまな宗教、新興宗教は、しばしば、いつ世の終わり、キリスト再臨の時を予告するからです。その意味では、異端か正統かを判定するのに、とても分かりやすいものです。終末の時を予告する宗教は、一切、キリスト教とは関係がないと断定してよいのです。

いったいなぜ、おかしな終末を語る宗教が多いのでしょうか。それは、人間にとって、それが分かれば、その時、その日の秘密を知ってしまえば、それに合わせて、生き方を整えられるという身勝手な欲望があるからです。ここで見逃せないのは、弟子たちもまた、「ひそかに」尋ねたのです。「そのことはいつ起こるのですか。」自分たちだけには、こっそり教えてもらいたいという、身勝手な願いを含んでいたのだと思います。異端とは、その神の秘密を自分たちは知っているという高揚感をもって、熱狂するわけです。

そして、もう一つ、この説教を解釈する上で、心したいことがあります。それは、この説教の第一の聴き手は誰であったのかということです。明らかに弟子たちでした。そして、そのことは、何を意味するのでしょうか。

信仰者であるなしにかかわらず、世界の終わり、破滅について、だれでも興味があると思います。かつて、ノストラダムスの大予言が一世を風靡しました。アルマゲドンというような映画もありました。もとより、キリストの再臨の教えを未信者にお話しても、悪いことではないでしょう。しかし、注意する必要があります。興味本位であれば、何の役にもたたないということです。世の終わりの破滅的な出来事が起こることについて、確かに、天変地異のような事象が起こることも予告されています。それはらすべて、この世が完成するための通らねばならないことです。しかし、世の終わりが目標とすることは、そこにはありません。聖書が言う、終末とは、一言で言えば、世界が完成される救いの日のことです。不完全なものが仕上げられる、完璧にしていただけるということです。
ここでも主イエスは、教会に、弟子たちにこそこの予告、警告を与えて下さったのです。そうであれば、一般の方々に、世の終わりはこうなりますということを告げることを否定する必要はありません。しかし、むしろ、教会自身が、キリスト者こそが、この警告を真剣に聴かなければならないことが分かると思います。

さて、終末の前兆で、まず、挙げられたのは、偽キリストの出現です。これは、次回に集中すると思います。
次に、戦争の騒ぎや噂です。「民は民に」とは、民族紛争のことです。「国は国に」とは、国家どうしの戦のことです。そして、世界のあちこちで飢饉や地震が起こります。これらは、すべて産みの苦しみの始まり、陣痛の始まりということです。そして、ここに記されたことは、歴史をみれば、主イエスの時代にすでに始まっていると、当てはめることもできるだろうと思います。そして、私どものこの世界、時代をまじめに、落ち着いて考えれば、まさに、現代に他ならないと言いきっても良いはずです。先週もシリアの内紛で、ひとりのすばらしいジャーナリストが銃撃戦の巻き添えでなくなりました。世界各地で紛争があります。戦争があります。

次に、9節です。何より、私どもが聴かなければならないことでしょう。「また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。」キリスト者が、主イエスの御名の故に、憎まれることが起こるのです。迫害の予告です。そして、それは、弟子たち自身、この福音書の第一の読者たちは、十二分に味わっていたはずです。
主イエスは、教会の将来を慮っておられます。主イエスの御名のために、主の弟子であるキリスト者は、どこでも憎まれる、快く思われないのです。何故でしょうか。それは、神の真理、神の主権に生きようとするからです。人間の、この世の損得、利潤、価値観に染まらないからです。ですから、彼らには、目ざわりになるわけです。自分たちの仲間に加わらないで、イエスさまの仲間になったままだと、自分たちが否定されていることに、いやおうなく気づかされるからです。闇の中に、光を照らされてしまうからです。闇を好む彼らにとって、光は、恐怖なのです。だから、光を憎むのです。

ただし、ここでの最大の問題は、この世のことよりむしろ、それが教会の分断を引き起こすということにこそあります。これこそ、主イエスが警告される第一のことなのです。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。」ここでの多くの人とは、主イエスを知らない人々のことではありません。キリスト者のことです。つまり、教会員どうしが互いに裏切り、憎み合うようになると、主は予告なさったのです。いったい何故、そのようなことが起こるのでしょうか。前後の文脈から明らかです。「また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。」とある通りです。確かに、非キリスト者から憎まれるのは、すぐに分かる事柄だと思います。しかし、それによって何故、キリスト者どうしが互いに裏切り、憎み合うようになるのでしょうか。それは、外部からどのようにして憎まれないようにしたらよいのかということ心奪われる人が出て来るからでしょう。教会の社会における発言や活動を、さしさわりのないようにしようとする動きが生じるからだと思います。さしさわりがないと言うだけではなく、むしろこの世に同調する方向で、教会の発言をいわば自己規制しようという動きになるのだと思います。日本の教会は戦前、戦中、まさに、この誘惑に嵌ってしまったわけです。実に、教会が、天皇を中心とする神国日本という神話を受け入れ、その神話を基礎にして、聖書を語ってしまったのです。今から見れば、とてつもなく非聖書的、反聖書的な教えが公然と教会内外で語られていました。同調圧力です。教会の外から、外国の宗教を信じるなど非国民だという言葉、批判を受けて、自分たちこそ、天皇を現人神とする国体を擁護し、戦争を肯定している態度を表明すべきだという空気がありました。多くの指導者、信徒は、それに流されて行ったのです。

その最大の決定的な原因は、誰に、どこにあったのでしょうか。主イエスがまさにそのことを予告なさったのです。それが、この御言葉です。「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。」ここでの偽預言者とは、現代の教会の言葉でいえば、偽の説教者のことです。私どもで言えば、牧師のことです。偽牧師が、神の言葉をまっすぐに語らないのです。神の言葉に自分の考えを読みこんで、結局、自分の考えを聖書によって裏付けさせて語っているわけです。ここで私どもが、誤解してはならないのは、この偽牧師とは、結婚式場などで現れてくる外国人などに代表される結婚産業に従事する一般人のことではありません。異端、異端的教会を起こした自称牧師のことは、含まれるでしょう。しかし、もっとも多くの人を惑わすのは、むしろ、正規の手続きを踏んで、牧師として任職された牧師であろうと思います。みわけがつきにくいからです。

それなら、その偽預言者とは、どんなことを語ると主イエスは予告なさったのでしょうか。「不法がはびこる」とあります。「不法」とは、国家の法律を破るということではありません。法治国家は、権力をも持っていますから、正面から法律を破ると言うことは、なかなか、できません。むしろ、権力は、自分たちに都合のよい法律を制定して、これを民に強いるということが、起こるわけです。つまり、ここでの「不法」とは、神の掟を破ると言うこと、神の律法をないがしろにするということです。ここでも、何度でもおさらいすべき御言葉があります。第5章17節です。「わたし(主イエス)が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」「不法」とは、律法や預言者、つまり旧約をないがしろにすることです。偽預言者とは、神の律法を無視する語り手なのです。しかも、自分こそ、イエスさまの福音に忠実に語っている、自分こそ、福音のよい知らせを語っていると言うのです。その福音は、たいてい、悔い改めを説かない教えです。イエスさまを信じたらこんなに祝福がある。経済的、肉体的、精神的に豊かになりますという福音です。まさに、人間の欲望をみたすよい知らせでしょう。しかし、神の福音、キリストの福音では、ありません。

しかし、多くの人たちがその語りに、満足します。彼らは、それをも、自分たちの正統性の証にします。神の掟をないがしろにする結果、そこで、何が起こるのでしょうか。主は、語られます。「多くの人の愛が冷える。」教会の中で、キリスト者の中で、愛が冷えてしまうのです。冷たい心になるのです。

あらためて、確認いたしましょう。主イエスが、あらゆる律法の中でもっとも重要な掟として数えられたのは何であったでしょうか。第22章です。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」つまり、神を愛し、隣人を自分のように愛すること、愛の掟です。「愛が冷える」という警告は、まさにこの二つのことが言われていると解釈すべきです。これは、単に、終わりのときには、人間相互の愛、家族の愛、人類全体の愛が冷え、おもいやりが失われ、自己本位になるということではありません。むしろ、第一に冷えるのは、もっとも深刻で、すべての原因になるのは、神である主への愛が冷えるということです。この神への愛が冷えるとき、それにともなって隣人愛も冷えるのです。愛の掟は、神と人への二つで一つの愛ですが、第一になるものは、神への愛に他なりません。なぜなら、神から注がれた愛を受けて、神を愛する愛によって、隣人愛は与えられるものだからです。

多くの人がつまずき」とあります。これは、主イエスに従う志を失うということです。主イエスについて行くことが信仰生活ですが、もう、イエスさまについて行くのではなく、自分のこと、この世のこと、自分を中心にして、自分のことを第一にして行くのです。

さて、私ども改革派の伝統を自覚している教会であればこそ、ここできちんとわきまえるべきことがあります。確かに、私どもは教理、聖書の教えの純粋さ、正しさにとことんこだわろうとするすばらしい伝統を受け継いでいます。これを、継承する使命があります。ただし、その正しい教えが、もしも、正しい実践を伴わないものであれば、それは、空しいということです。その真理がここで、主イエスによって示されているのです。

確かに、日本キリスト改革派教会の牧師は、わたしを別にして、決して低いとはいえない神学校での教育を受けていると思います。しかし、問題は、そこです。愛の掟が語られなくなるから愛が冷えると警告されているわけですが、、もしも、きちんと教理を語っていながら、その実践において、愛が冷えるのであれば、それも結局、偽者になってしまうのではないでしょうか。もとより、これは、預言者、説教者だけの課題ではありません。説教者は、神の民が御言葉に聴いて従うものとなるように語るのですから、肝心かなめになるのは、神の民、キリスト者、教会員の信仰生活そのものです。愛の掟を真正面に据えて、わたしどもは天国を目指して歩むのです。それ以外に、キリスト者の生活というものはないということをわきまえるべきです。

さて、主イエスは、約束されます。励まして下さいます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」最後までとは、世の終わりまでのことです。あるいは、自分の地上におけるいのちの最後、つまり、死に至るまでという意味も含みます。最後まで、忍耐することが求められ、その人が救われるというのです。ここでの忍耐とは、単に我慢するという、消極的なことではありません。愛することです。愛することを止めないことです。言葉を換えれば、主イエスに従うことをやめないことです。死に至るまで、主に忠実であり続けることです。自分の利益、利得を求め、あるいは、この世における安定を第一にしないということです。

主イエスは、弟子たちに、神と人を愛する掟に生き抜いて欲しい、愛することをやめるなと励ましておられるのです。神を愛することとは、神の掟を守ることなのです。愛することを止めない限り、私たちは、勝利者であり続けるのです。つまり救われるのです。ヨハネの手紙Ⅰ第5章にこうあります。「わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」

最後にこの結びの言葉を聴きましょう。「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

最後まで耐え忍ぶということが、何もしないでじっとしていることではないと申しました。耐え忍ぶとは、信じること、従うこと、愛することをやめないということです。そして、その具体的な行為、活動が最後に明らかに示されたのです。それが、この御言葉です。「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。」つまり、福音の伝道です。教会は、時が良くても悪くても福音を語り続け、キリストを証し続けるのです。しかも、全世界にまで宣べ伝えるのです。福音伝道とは、主イエスによれば、愛そのもの、愛の行いそのものと言いきってもよいはずです。福音を語ることは、神を愛し、隣人を自分のように愛する行為なのです。それは、決して、自分を喜ばせることではありません。自分たちの勢力を拡大して行くことでもありません。

ここでも誤解してはならないことがあります。世の終わりには、福音が全世界で言わば主流となって、キリスト教が最大の宗教人口になるということが言われているわけではありません。誰にでも、神の愛が証されなければならないということです。

そして、そのために、教会が忍耐をもって、担い続けるところで、「終わりが来る。」ことが約束されるのです。それは、繰り返しますが、世界のすべての人々がキリスト者になるということではありません。すべての人に福音が証されればよいのです。そして、最後に、神が終わらせて下さるのです。ここでの終わりとは、完成ということです。仕上げるということです。

つまり、教会は、この世界を完成させることはできないということが明らかにされているということでもあります。世界を救う、仕上げられるのは、ただ神のみなのです。主イエスの再臨によるのです。この再臨を信じる教会は、勇気をもって、愛の戦いを続けます。憎まれても、憎み返さない戦いを続けるのです。福音を語り続け、キリストの愛を証しつづけるのです。つまり、滅ぼされて当然の罪人であるこのわたしのために、神の御子キリストが身代わりに十字架についてくださったこと、そのようにして、私が、私どもが、赦されたことを告げるのです。神が御子キリストの犠牲を支払って、私どもを神の怒りから救いだし、そればかりか、神の子としてくださった驚くべき幸いの便りを知らせて行く限り、この世界に、希望があるのです。

日本の教会は、本当にわずかの民しか現実にはいません。しかし、わずかであっても大勢であっても大切なことは、ただ一つです。偽者にならず本物になるというこの一点です。愛の掟をめざし、どこまでも主イエスについて行くことです。福音を証し続けることです。そのとき、教会は、世界を救い、しあげてくださる主イエスの花嫁として受け入れられ、喜ばれるのです。

祈祷
終わりまで耐え忍び、愛する者となりなさいとお命じくださる主イエス・キリストの父なる御神、あなたの命令は、あなたの救いの約束によって支えられています。教会には、世界を救う力がありませんが、あなたは、教会をとおし、教会の信仰と服従を通して、世界に希望をあたえ、完成してくださいます。その約束とのぞみを今日、私どもに新しくしてください。死に至るまで忠実なれとの、主の約束と愛に満ちたご命令を、魂の深みで聴きとらせ、福音を証して生きる志を強くしてください。アーメン