過去の投稿2012年9月4日

「再び来られるキリスト」

「再び来られるキリスト」
                2012年9月2日
             マタイによる福音書 第24章15~31節
「「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」
「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

先週、朝刊を手にとって、その見出しに、いささか驚かされました。南海トラフの巨大地震の想定被害の発表のことです。死者は、最悪32万人を越えると言います。東日本大震災が1万8千人の死者ということですから、20倍近くの被害が想定されました。おそらくこの被害は、日本の有史以来、最悪の大災害であると言っても決して言い過ぎではないと思います。しかも、原発震災もまぬかれないでしょうから、日本どころか、東アジア全体が、人類の歴史いらい空前絶後になるような規模の大災害となる危険性があると思います。

何故、説教の冒頭でそのようなことを申し上げるかと言えば、今朝の主イエスの御言葉に、こうあるからです。「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。」

有史以来、最初で最後の苦難について、ここで、主イエスは予告なさっておられます。しかも、マタイによる福音書は、ここで、思わずということはないはずですが、しかし、自分の気持ちを前面に出すかのような記述をしていることに、やはり、注目しておきたいと思います。「読者は悟れ」の部分です。もとより、今までのマタイによる福音書のすべての言葉についても、著者じしんは、「読者は悟れ」という思いを持って記したはずです。悟るということは、正しく理解すると言う意味です。

ただし、この個所の解釈は、それほど簡単なことではないようにも思います。一つの理解は、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」という状況を、当時の読者の方々にとっては、紀元70年のエルサレム神殿の破壊という歴史的事件として受けとめるということだろうと思います。

しかし、その解釈だけで終わることは、できないとわたしは思います。それだけであれば、今朝、私どもが、丁寧に読み、何より礼拝式で朗読する必要はないと思います。単なる昔話となってしまうからです。つまり、私どもにとって、この御言葉は、過去であると同時にしかし何よりも、将来のことであると受け止めるべきはずです。そして、この有史いらい空前絶後の破滅的な事件が起こるのは、実に、主イエスが再び来られるという出来事、その日、その時の前兆についてということです。

さらに、これにもう一つの解釈を付け加えるべきだとも思います。それは、過去でも将来でもなく、現在の事だと言う理解です。

その前に、そもそも、神の預言者、まことの預言者ダニエルが、語った預言とは何であったのかを押さえておきましょう。第9章27節にこうあります。

また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。
第11章31節「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。」

これは、セレウコス王朝のアンティオコス王にエルサレムが征服されたときに起こった出来事です。既に、それは、起こったのです。まことの神の神殿に、異教の偶像が飾られてしまったのです。

さて、ダニエルの預言は、すでに成就していて、そのことは、とても分かりやすいことです。しかしここで、私どもが知るべきこと、悟るべきことががあるはずです。それは、今日もまた、神の教会の中で、そのような荒廃が起こっているということです。私どもの教会で言えば、祭壇とは、説教卓のことに通じるでしょう。そこで、偽の説教者が、キリストの福音、十字架の言葉を自己流にひんまげて語るということです。異端の問題です。しかし、はっきりとした異端は、まだまだ分かりやすいので対処は、簡単と言えるかもしれません。まさに、難しいのは教会と自称する団体のことです。

さて、次に進みましょう。主イエスが、来られるときには、29節のようになると予告されました。「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。」この御言葉は、たとえばイザヤ書の預言の引用として理解できます。13章10節「天のもろもろの星とその聖座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を放たない。」13節、「わたしは天を震わせる。大地はその基から揺れる。万軍の主の怒りの故に その憤りの日に。」何よりもヨエル書をここで読みたいと思います。本日の招詞でも読みましたが、3章です。「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。」

主の日とは、主なる神、つまりイエス・キリストの再臨される日です。その大いなる日がくる前に、その前兆として、まさに天変地異の現象を見るのです。ここで、預言者たちが語っているのは、地の上に立たれる主、私どもの主イエスは、まさに、天地の創造者でいらっしゃるということです。創造者であられ、今、その被造物は、この主のご支配にあるということです。その創造者が被造の世界に来られる故に、大地は、その基から揺り動かされるということでしょう。それは、イエスさまが来られたとき、大地震が起こり、天変地異が同時に起こると言う風に、文字通り解釈することもできるでしょうが、断定する必要もないと思います。なぜなら、まさに黙示文学的な表現だからです。

大切なことは、最初に主イエスが来られた時は、まさに、二人しか知りませんでした。ヨセフとマリアです。そして夜に働く羊飼いたちでした。さらに、東方から来た三人、つまり、わずかの人々しか認められませんでした。徴は、わずかだったのです。わずかの星の動きを頼りにしていました。しかし、もう一度来られるイエスさまは、違います。誰の目にも明らかなのです。すべての人が知るのです。ただし、それは、なお、私どもの想像を絶することなのだと思います。その日が来るまでは、まさに神秘であり続けるはずです。もし、それを、鮮やかに解説して見せる人がいれば、むしろ、危険人物でしょう。

その大いなる苦難の日には、「見よ、荒れ野にいる。」「見よ、奥の部屋にいる」と言いだす人が出るということが言われます。しかし、これらは、考えてみれば、本来、ありえないことです。主イエスの再臨は、誰もが、認めることができるからです。実に、信仰のない人でも認めることができるのです。目撃してしまうからです。

それなら、人々が、救い主でいらっしゃる主イエス・キリストを目撃するとき、どれほど、喜ぶことになるでしょうか。ところが、主イエスは、仰いました。「そのとき、地上のすべての民族は悲し」む。いったい、何故、救い主を目撃するとき、地上のすべての民族は悲しまなければならないのでしょうか。一言で言えば、自分が神に赦されるのぞみを失ってしまうからです。信じるチャンス、機会を決定的に失ってしまうからです。

なぜなら、神であり王の王、主の主であられるイエスさまのそのご本質を目撃するということは、もはや、人となられたイエスさま、十字架について死なれたイエスさまの中に、神よりの神、光よりの光を見ることが信仰ですが、そこで目撃するのは、まさに神よりの神、光よりの光としてのご威光、栄光に満ち満ちておられる主イエスのお姿に他ならないからです。さらに、救いとは、イエスが復活されたという聖書の知らせを信じることが求められているわけですが、もはや、見てしまうのです、認めるしかないのです。つまり、もはや、信じることができないのです。だからこそ、悲しみをもたらすしかないのです。そのとき、信じることがなかった自分の過ちを気づくのではないでしょうか。その悲しみです。

ただし、もしかするとそれを、イエスさまを十字架につけてしまった自分たちの罪を悲しむ悲しみ、つまり、滅びに至らない悔い改めの悲しみと理解する人もいらっしゃいます。しかし、それは、やはり無理があるだろうと思います。自分が間違っていることをかたくなに認めなかった人々、民族、大勢の人々が一瞬のうちに、自分の罪、過ち、愚かさを悔い、悲しみの涙をながすことはできないはずです。それは、絶望と恐怖の悲しみのはずです。

信仰においては、「手遅れ」ということは、基本的にはないはずです。いつでも、主イエスの御前に、自分の罪、自己中心、自己正当化、わがままを悔い改めることが許され、招かれていると思います。十字架の上にイエスさまの左右にはりつけられた強盗のひとりは、まさに死の直前に、悔い改めの恵みを受けました。ただし、まさにそこまでです。私どもの救いには、「手遅れ」ということが現実にあるのです。それは、再臨のときです。だから、使徒パウロは、Ⅱコリントの信徒への手紙第6章でこう言ったのです。「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、/「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、/救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」今この瞬間が、恵みの時、今この瞬間が救いの日と、今この瞬間、神の恵みをいたずらに受けることなく、つまり、神の恵みを軽んじることなく、本当に謙虚に、恐れかしこみつつ、悔い改めと信仰への招きを強調するのです。私どもには、「明日、信じる」ということは、できないからです。

さて、元に戻りますが、キリストが「見よ、荒れ野にいる。」「見よ、奥の部屋にいる」というような状況は、まだ、主イエスのご再臨の前兆でしかありません。本当に主イエスがご再臨なさるときには、私どもがあちらこちらと、主イエスを捜しに行く必要などまったくありません。「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」この夏、山元町からの帰路、稲光を見ました。稲光、稲妻とは、まさに東から西へ一瞬にして、「ひらめき渡る」ものです。つまり、日本にいようがヨーロッパにいようが、日本にいようがオーストラリアにいようが、どこにいてもそれを目撃できるということなのでしょう。

主イエスは、28節で、ぼそりとこうつぶやかれます。「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」この死体とは、「偽メシアや偽預言者」のことと思います。キリストに反抗する偽メシアと偽預言者には、キリストに反抗する人々が集まるということです。そして、実に、厳しい批判の言葉ですが、彼らを「死体」と呼びます。集まる人々を「はげ鷹」と呼びます。死体という表現に込められた思いは、偽メシアだろうが偽預言者だろうが、彼らは、既に霊的に死んでいるということでしょう。確かに表面上は、ものすごく精力的に活動しているのです。しかし、神の目の前では、死体でしなかいのです、死んでいるのです。つまり、認められません。確かに、彼らは、じぶん自身の信仰や正しさを自分で認めています。さらには、他人にも認めさせています。集まってくる人は、少なくないのです。しかし、肝心要のそれを審判なさる唯一の主イエス・キリストに認められないのであれば、何になるでしょうか。いへ、そもそも偽メシアは、まさに、自分を救い主として、だまそうとする人々でしょう。最初から、意図しています。確信犯ということでしょう。

偽預言者は、そこまでの思いは、なかったかもしれません。意図的に、だますつもりはなかったと言えるかもしれません。しかし、神の栄光、キリストの栄光を第一に貫かず、自分の栄光をそれにくっつけてしまう、それが、偽預言者なのでしょう。

さて、そこで問わなければならないと思います。私どもの責任、課題についてです。つまり、私どもは、偽物と本物とを、見分けなければならないと言うことです。同時にまた、彼らに負けてはならないということも求められているはずです。

かなり昔の説教になりますが、私どもは、第10章16-23節で切々と弟子たちに予告しておられた主イエスのみ言葉を学びました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。~
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る
。」
この御言葉は、先週学んだ御言葉と驚くほど、そっくりです。私どもは、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と学んだばかりです。それは、すでに第10章でも、語られていたのです。

さらに、「迫害されたら逃げなさい」とも命じられています。今朝の個所でも、まさに、「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのをみたら」つまり、エルサレム神殿を破壊する者であり、あるいは、教会と認められたり、主張するそのところに偽メシア、偽預言者が立つのを見たら、いちもくさんに逃げることが命じられます。自分の服とか必要を満たそうと、部屋に取りに戻ってはいけないのです。部屋に戻るということは、これから先の生活のために必要なものを取りに行くということでしょう。つまり、もっとも大切な永遠のいのちを二の次にして、地上の生命を優先してはならないということでしょう。つまりは、これからのことすべてを主にゆだね、振り返らないで進むということです。しかもそこで、単に逃げるだけではないことが、先週、教えられました。逃げながら、福音を宣教するのです。

主イエスは、このようにも語られました。「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。」私どもは、蛇のように賢くなる必要性があります。聖書で言えば、蛇とは、通常、サタンのことを意味するのですから、この表現は、ドキッとします。蛇のようにということは、賢さを求められているということでしょう。もとより、悪賢さではありません。信仰の知恵です。そして、決定的に大切なことは、素直さです。そして、ここでの素直さとは、信仰の素直さのことです。神との関係において素直であるということです。素直さがなければ、そもそも、信仰ははじまりません。そしてなにより、成長しません。つまりは、神への従順なしには、一切は、空しいのです。

しかし、おそらく私どもキリスト者は、しばしば、蛇のような賢さについては、あまり真剣にならないことが多いのではないでしょうか。そもそも、蛇と形容されることに、お互いにかなりの抵抗感を持つのではないでしょうか。

おそらく、少なくないキリスト者は、再臨の主と父なる神の裁きに一切をゆだねています故に、自分のことで弁明したり、弁解することに対して積極的ではないと思います。しかし、実は、まさにそこを悪魔、蛇に狙われることが多いのも事実です。神さまが見ておられるのだから、なんと言われようと、コツコツ信じ従うのみだと私どもはおそらく考えると思います。しかし、偽メシアや偽預言者にそこで負けてはならないということも事実であり必要なのです。そして実は、キリスト教という言わば形態は、歴史をひもとけば、まさに、その戦いの中で、自己形成してきたのです。聖書を正典化し、信条を整え、教会の職務制度を確立させようとの努力です。そして、ここで最も重要な点があります。これは、決して教会じしんの自己正当化とか、キリスト者個人の名誉を守ろうという力が優先していたのではないということです。これは、決定的にこの世の団体との違いとなるはずです。教会は、ただ神の栄光のために、存在するからです。自分の利益、祝福、つまり、自分ごのみの教会につくって行くために、偽メシアや偽預言者と戦ってきたのではないのです。

最後に、「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」との約束の御言葉を聴きましょう。

主イエスは、天使たちを派遣して、地球上のすべての人々から、ご自身の選びの民を東から西から、北から南から呼び集めるのです。大切な点は、「選ばれた人」です。ここで大切なことが、分かります。キリスト教信仰の言わば、真髄です。この世の宗教は、国家安定とか人々の精神的な慰めとか安定の道具として、利用されます。何よりも、そのために、宗教が求められ、つくられるわけです。つまり、宗教は、人間がつくるのです。したがって人間が、宗教を選ぶのです。そのために、イエスさまを選ぶ人もいるでしょう。しかし、呼び集められるのは、選ばれた人だけです。ここに、キリスト教信仰と救いの真髄があります。つまり、神の恵みによってのみ救われるということです。

先週の祈祷会で、ひとりの兄妹から、学生会の集まりで、「有効召命」を学んだという報告を受けました。それは、つまり、神の主権の下に、私どもは置かれている、だから、自分のあれこれに頼ることをやめて、神に信頼し、神の恵みによる選びを信じて、進み行くことが大切だということです。そして、教会のことを、ギリシャ語では、エクレーシアと呼びます。その意味は、「呼び集められた人たち」に他なりません。

今、その神に呼び集められた私どもは、主イエスの食卓へと招かれています。ここで、真実に聖餐の礼典にあずかるとき、まさにその今、今その瞬間に、自分自身のことを、神に呼び集められた者と新しく認めなおすことができるのです。ここで、再臨の主イエスにお会いしませんが、十字架についておよみがえりになられ、今、天に昇られたイエスさまが、聖霊によって臨在しておられます。このイエスさまの前に、罪の赦しを新しく受け、神の子としての祝福を新しく注がれます。この聖餐を正しく祝う私どもにとって、主イエスの再臨こそ、救いの完成の日であり、待ち焦がれるその日なのです。

祈祷
近い将来、大災害に襲われるとの警告を受けた私どもです。しかし、その前から、私どもは、主イエスの御言葉で、地球上の自然災害を越えた、宇宙的な広がりを持つ苦難の日として予告されています。しかし、あなたは選びの民の故に、その日を短くし、そしてついには、選びの民をあなたのもとへ呼び集めて下さいます。どうぞ、そのことを信じる私どもは、今自分のしていることを、見つめ直し、そして、もう一度、優先順位をわきまえて、ただ神の栄光のためにと、あなたに向かって、新たに歩み出させて下さい。アーメン。