★ 先週、夏期宣教講座の世話人の辻教師から講演記録のCDを購入し、時間の許す限り、読み、聴きました。出席できなかったことの大きな損失を思わせられました。・・・「知らなかった罪」と何よりも自分を守るために「知ろうとしなかった罪」を真剣に考えなければならないことを、改めて、皆さんと確認したいと思います。
☆ 第一講演の朝岡勝牧師(日本同盟キリスト教団理事)の、「伝える教会から仕える教会へ」という主題に、明確なメッセージが込められています。おそらくこれまでの、日本同盟キリスト教団(福音派)の教会観の変更を促すような主張です。伝道する教会からディアコニアの教会への転換の提言と言えると思います。福音派は、1974年のローザンヌ誓約(世界的な会議)において、「教会は、伝道だけではなく社会的責任をも担うべき」ことを公にしました。福音派陣営において、画期的な前進でした。しかし、「伝道と社会的責任」の間にある「と」についての明瞭な議論は、あまり耳にしません。そもそも、キリストの福音、神の国の福音を宣教=「伝道」する使命こそ、教会の存在理由です。ただし、その「神の国の福音」を正しく理解するならば、この地上に神の国の正義と平和と愛を映し出すためのさまざまな課題を担うことが当然求められるはずなのです。私どもは、なお「ディアコニアに生きる教会」(仕える教会、奉仕する教会)の学びを深めてまいりましょう。
朝岡牧師を中心に、日本同盟キリスト教団は、3:11以降、教団として被災地に奉仕者をチームとして派遣し続けて、現在、のべ、80チーム(!)が教団として派遣されているとのことです。すばらしい実践です。
★ もうひとりの講演者は、日本福音ルーテル教会の内藤新吾牧師です。先生は、原発震災以前から、原発の危険性、特に浜岡原発の危険性を訴え、牧師の中では、おそらく最も熱心に原発の即時停止を求めて戦っておられた方の一人かと思います。原発について即時停止を唱えないことがどれほど、非道徳的なことであるかを訴えておられます。教会のホームページには、牧師挨拶として下記のように記載されています。
【主イエスは私たちに、心を尽くして神を愛しなさいということと、隣人を自分のように愛しなさいということの二つを、戒めとして教えられました。神を畏れ愛し仕えることと、隣人を愛し仕えることとは、切り離せないことです。◆ 中略 ◆ところで、隣人を愛する、あるいは隣人に仕えるということについてですが、これについても、神は私たちに二通りの仕方でそれがなされるべきであることを、語っておられます。分かりやすい箇所としては、イザヤ書58章6~8節です。そこには、「悪による束縛を断つ」すなわち「虐げられた人を解放する」ことと、「飢えた人にあなたのパンを裂き与える」こととの、二つの働きが必要であることが記されています。◆教会は、またキリスト者個人でも、どちらかというと自分のパンを分け与えることしか考えないのではないでしょうか。「くびきを折る」ことも必要なのに、そうした課題はいつも放っておかれがちではないでしょうか。しかしそのどちらもが必要です。私たちは、何が克服されなければならない問題であるかを学び、そして取り組みをしていく群れでありたいです。】
先生がホームページに記された救済理解とは、異なる立場に立ちます。しかし、上記のご指摘には、まったく賛同します。内藤牧師から鋭く問われるのは、「悪による束縛を断つ」ことに相当する教会の政治的発言、権力者への抵抗の意思表示、原発即時停止、全面禁止を発言し、行動することの方が、より優先されるべきとの主張についてです。私どもが、かつて、伝道新聞において「憲法9条・20条」、そして「教育基本法」を擁護する姿勢を地域社会に闡明したことは、まさに、その行動の一つと考えています。しかし、原発問題には、まったく無言であった事実があります。先生の問いかけを、先ず自分自身、深く、真剣に聴きとりたいと思います。被災地ディアコニアで、迫害されることはありません。しかし、権力者の不正を批判(=預言者としてのディアコニア)すべきとき、愛と勇気は、さらに強く求められ、御名の為の迫害へと繋がって行くでしょう。
☆ 先週の仙台における会議で、「ミッション協議会」より、追加の財政支援を受けることができました。名古屋岩の上伝道所の小さな被災者支援の奉仕に寄せられる期待と祈りを思わざるを得ません。
★ 教会設立を目前にする今年。前回の読書会の学びのプリントとした文書に、「設立までの最後の年。加入期と同様、最も困難を極める霊的戦いを予想している。」と記しました。まず、長老と執事候補者の霊的、実践的準備が第一に求められます。次に、会員の準備です。教会が存在する限り、毎年、霊的な戦いの積み重ねですが、今こそ、それが集中的になされて行くはずですし、しなければ設立はかないません。
☆ 7月中旬からのマタイ講解説教。そこで語られた福音は(当然ながら)、まさに今の私どもをただす御言葉であると震えるような思いを抱きます。聖書の真理。福音の真理を闡明にする究極の責任を思います。