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「信仰と賢さ」

「信仰と賢さ」
                2012年10月7日
             マタイによる福音書 第25章1~13節
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。
十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 
 先週の新聞の社説で、少子高齢化の時代の中で、どのように多くの人たち、特に女性の労働環境、状況を改善できるかという文章を読みました。その論説は、あまり心に響きませんでしたが、コピーライターの糸井重里さんの言葉に、心が動きました。それは、このような短いことばでした。

「たぶん、『がんばりようがある」とわかれば、みんな、なんとか、がんばっちゃうんだと思う。/「がんばりようがない」というときが、いちばん、じつは、くるしいわけで。』(糸井重里「羊どろぼう。」から)

 なるほどと思いました。わたしは、糸井さんがおっしゃるような、「がんばりようがある」という状況を、聖書の教えの要となる言葉に置き換えて表現することができるだろうと思いました。「がんばりようがある」とは、つまり、希望があるということだと思います。将来があるということです。そして、「がんばりようがない」とは、希望がない状態、つまり絶望ということだと思います。明日がない、明日が見えないという状態です。そして、今日の日本の社会を覆っているのは、まさに、「一寸先は闇」という不安だと思います。

主イエスは、ここでたとえ話を用いられます。これは、おそらく子どもたちにもよくわかるものだと思います。花婿を出迎える花嫁の友達、十人のおとめたちのたとえです。おそらく、このたとえ話の下には、当時の結婚式の独特の仕方が背景にあるはずです。しかし、これはあくまでもたとえ話です。信仰生活、教会生活のたとえです。

 「花婿」は、いうまでもなく、イエス・キリストです。したがって、花嫁とはキリストの教会のことです。地上における教会の姿を、婚約者が挙式を待っている状態に、なぞらえられているわけです。そこには、二人の間の愛の関係があらわされています。教会は、日々、その日を待ち望みつつ、歩み続けるわけです。しかも、この譬からわかることは、花婿は、遠い国に出張中というわけではなく、あるいは、たといそうであったとしてもいつでも連絡が取れる関係にあるということです。二人の間には、ホットラインが常時繋がっているのです。つまり、祈りの交わりがあるということです。礼拝する関係が常時、あるわけです。キリストとの聖霊による交わりは、いつでもどこにいても可能なのです。ただし、未だ結婚していません。この時期は、結婚生活までの訓練です。試練でもあります。しかし、すでに、楽しいときは、始まっているわけです。

 花嫁の友人たちは、花婿が親しい人々、友人か、親戚かあいさつ回りをしているわけです。そして、最後に、花嫁の家に迎えに来るわけです。花嫁の友人もまた、教会のたとえであり、キリスト者のことです。これは、とても大切な点です。十人のおとめは、未信者ではありません。キリスト者です。つまり、教会生活をしているということです。教会生活をしているから、花婿が来ることを、知っているのです。だから、ともし火を掲げて、待っているのです。

 さて、たとえ話は、動きます。花婿が来るのが大変遅れているのです。夕方から夜までと予定していたはずですが、既に、深夜になってしまったのです。そして、この10人が10人とも、うとうとし始めます。そしてなんと、全員、眠り込んでしまいます。

 再臨の教えが語られる中で、この箇所は、びっくりするくらい特別な譬だと思わざるを得ません。何故なら、再臨の教えで、基本的に強調されることは、主イエスが来られるその日その時を誰も知らないわけですから、目を覚ましていなさいということだからです。再臨への備え、用意とは、信仰が常に、覚醒していること、いきいきと働いていることなのです。ところが、ここでは、愚かなおとめだけではなく、賢いおとめたちもまた、眠ってしまったというのです。 

 いったいこの譬から何を悟るべきでしょうか。私どもは、前回、再臨の日が遅れているけれども、必ず、その日が来ることを信じ、教会生活にいよいよ励んでゆこうという聖書のメッセージを学びました。しかし、その一方で、このようなことが起こることも注意しなければならないのです。それは、再臨の日を期待するあまり、日常生活をおろそかにしてしまうということです。いわゆる宗教的熱狂主義です。これは、教会の歴史の中でも、外でも起こりました。時に、社会問題として取り上げられることも起こります。宗教にはまってしまった人々、あるいはおかしな宗教は、教えそのものによって、この世の事柄と、関わることを避けるわけです。そして、自分達だけにしか通用しない価値観の中に、閉じこもるのです。ときに、それが反社会的な行動になることもあります。オウム真理教事件は、その典型でした。信仰者であろうがなかろうが、人間は、どれほど修行しても、眠ります。いへ、人は、きちんと睡眠をとらなければ、明日の仕事がなりたちません。その意味で、賢いおとめもまた、寝てしまう。それは、当然のことであるわけです。つまり、キリスト者は、日常生活の中で、再臨に備える人々であり、そうすべきであるということです。教会の改革者マルチン・ルターの言葉として言い伝えられてるとても有名な言葉にこういうものがあります。「たとい明日、世が終ろうとも、わたしは今日、リンゴの苗木を植える」私自身、どこでルターが語ったのか、本当にルターの言葉なのかわからないのですが、しかし、キリスト者が日々の務めに手を抜かないで、真心を込めて、働く姿として受け止めています。

さて、ここで、フクシマ原発震災のことに触れたいと思います。爆発した後、もう、耳にタコができるほど、「想定外」という言葉を聞かされました。それは、油ではありませんでしたが、電源喪失に備えて、予備の予備としての電源、つまり、バッテリーを準備していなかったというわけです。もし、それを想定して、サブバッテリーを準備してあれば、ここまでの過酷事故は、おそらく防げたはずなのです。

賢いおとめは、想定しました。つまり、花婿が遅れる可能性を想定していました。同時に、自分たちが眠ってしまうということも想定していたはずです。だから、万が一に備えて、非礼がないようにと。予備の油を壺に入れておいたのです。

それにしても思います。いったいなぜ、この二つの立場に、これほどまでの差、とりかえしのつかないほどの差、天と地のへだたりをもたらしてしまったのでしょうか。つまり、ここで言われている愚かさとは、何のことかということです。いったい、聖書で言われている賢さとは、どのようなものなのでしょうか。

 それは、先週学んだ、忠実さと深くかかわります。それは、主なる神への忠実さということでした。御言葉への忠実さです。ここでの賢さも全く同じです。それは、神とのかかわりの中での賢さです。それは、自分が神の僕であることの深い自覚を持つことです。なによりも、神が全知全能のご存在で、究極の知恵を持ったお方であるとの知識です。それは、叡智とか上智とか特別に言われるほどのものです。つまり、私どもの主なる神は、人間の小賢しい知恵とは比較にならない完ぺきな知識と知恵をもっておられるという信仰の知識を持つということです。そして、単なる信仰の知識ではなく、その知識を生かして生活に用いるということです。その意味で、この賢さとは、知恵を含んでいます。したがって、自分のちっぽけな頭の中で、神をあれこれ議論してみたり、いじってみたりすることを止めることです。自分の頭の中に納まるような神は、死んだ神、偶像でしかありません。私どもの神は、生ける、すべてを知られる神でいらっしゃいます。ですから、賢さとは、神の前に、自分を低くすることです。低くしている人です。その弁えを持った信仰者は、軽々しく、これが神の御心なのだ。神の導きは、これこれこうなのだと言えなくなるはずです。神にゆだねる謙遜さ、主にお任せして、信じ従う謙虚さ、それが、賢さです。

 その意味では、世間で「あの人は賢い人だ」と言われる方向とは、異なっているのです。反対に、信仰の賢さに生きているキリスト者は、ときに、「愚鈍」とか、あるいは、「時代遅れ」とか、そしられることもあるかもしれません。
 賢いおとめは、花婿が来ることを中途半端に考えていたのではありません。リアルに考えているのです。彼は、必ず来る。しかし、いつ来るのか、それは、自分で決めることではない。だから、万が一、夜中、明け方になるかもしれない。一晩中、明かりをともせる油は、必要だ。だから、壺を用意しておこう。そのように彼女たちは、考えたのです。
 一方で、愚かなおとめたちは、確かに、同じように待っています。しかしそれは、単に形式上であったということです。本当に、到着することを信じているなら、徹底して信じているなら、単に、たいまつを掲げているだけではなく、到着するまで、つまり、朝日がのぼるまでの半日分の油を準備すべきだったのです。

 つまり、二つのグループの差、つまり、油の用意があったかどうかということの中に示されるのは、信仰の心そのものです。神を神とする信仰の心です。主を主とする信仰の心です。あまりにも単純といえば単純かもしれません。この壺に蓄えられた油のことを、古来、「聖霊に満たされていること」とか、「愛に満たされ、いつも神と人に奉仕していること」だとか、解釈されてきました。それは、不可能ではないかもしれませんが、むしろ、もっと単純なことです。御言葉の約束への信頼です。花婿でいらっしゃる主イエスが、花嫁である私ども教会を必ず約束通り、迎えにきてくださると信じる信仰、信頼のことです。

再臨の主を信じること、それは、十字架と復活のイエスさま、天におられるイエスさまへの信仰と結びついています。これらは、分けて考えることはできないのです。「イエスが十字架についたことは信じるけれど、復活は信じられない。」とか。「十字架と復活までは信じるけれど、天に昇っておられることは信じられない。」とか「十字架、復活、昇天は信じるけれど、再臨は信じられない。」とか、そのような議論は、結局、自分の賢さを誇りとし、自分の頭のなかでおさまる神だけを信じることでしかありません。つまり、信仰らしさを備えているようにみえますが、信仰ではないのです。

 そして、いったい誰が、そのような厳しいこと、究極のことをを断定なさるのでしょうか。それは、主です。主なる神です。主イエス・キリストであり、父なる神です。神が、この両者を、人間的に申しますと、あまりにも大きな差で、区別なさるのです。

愚かなおとめたちは、花嫁の到着の知らせで目を覚まします。「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。」そして、一緒に起き上った賢いおとめに、すがりつきます。「『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』」

 わたしは、人間的に見れば、このたとえ話は、あまりにも冷たいと思ってしまいます。このように忠告したくなる人も出るかもしれません。「賢いおとめさんたち、本当に、あなたがたが信仰的に賢いというのなら、そんなときは、黙って、自分の分を分けてあげればよいのではないですか。小言ひとつも言わないで、そっと、分けてあげられたら、本当の意味で、聡明でかっこいい女性ではありませんか。賢さより、同情する気持ちを持っていないと人間としてダメですよ」しかし、これは、信仰のお話なのです。

 ここで、明らかにされる信仰の真理は、なんでしょうか。信仰とは、まず何よりも、分けてあげられないということでしょう。つまり、信仰とは、神とその本人との間にある関係なのです。それは、最も大切で、厳かで、夫も妻も、親も兄弟も入り込めない人間として最も大切な領域です。国家も学校も、誰も、そこに入り込んではならない領域です。人間の尊厳にかかわるのです。だから、まさに、信仰とは、尊厳なのです。それを、友達でも親でも、国家でも会社でも、それをわたしが代わりになんとかしてあげましょうと、入り込めないのです。まさに、その本人の責任となるのです。

 さて、次にまた、人間的に読むと、何か嫌な感じすらしてしまうかもしれないのは、花婿のこの態度です。「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。」こんなに、ご主人様、ご主人様とすがっているのに、ぴしゃりとはねつけるのは、料簡が狭いとすら思います。しかし、繰り返します。聖書の譬は、信仰の真理の譬なのです。

 ここでも、愚かなおとめたちが開けてくださいと願ったのは、やはり、形式上のことなのです。第18章で、主イエスは、ペトロから、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」らと質問されました。主は、仰せになられました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」つまり、神の赦しは際限がないということです。ただし、これは、何でもかんでも赦されるということを意味するものではありません。真実の悔い改めが伴っているということです。形式上ではありません。もとより、それを完全に判定できるのも、神のみです。しかも、この譬では、最後の審判のことなのです。そのとき、もはや、悔い改めることができないのです。わたしどもは、うっかりすると、悔い改めることを人間の能力のように勘違いします。しかし、信仰と悔い改めとは、神の恵みです。神からの賜物です。自分で、都合よく、悔い改めることは、できないのです。聖霊のお働きなのです。だから、ここで愚かなおとめたちは『御主人様、御主人様、開けてください』と一応は、言いますが、この言葉は、神の御目における悔い改めとは、異なるのです。

 さて、教会は、再臨の教えのなかで、このたとえ話をしばしば、語ってきました。一つには、わかりやすいからであったと思います。しかし、同時に、ここに込められた信仰に生きる真剣さが、自分たちの中で、崩れやすいからでもあったからだと思います。実に、10人のおとめのうち、半分が、救いから漏れてしまっています。これを、どう、理解、解釈すべきでしょうか。わたしは、これは、神秘だと思います。人間が、解説してはならないと思います。ただ、警告として受け止めるべきです。一緒に、働いている人のなかで、一人は、あげられ、一人は地上に残されると、既に学びました。私どもができるのは、この御言葉の威嚇に恐れることだけです。そして、信仰の単純さ、素朴さ、つまり、賢さに生きることができるようにと祈りを集めることです。
 
私どもには、約束があります。主が私ども罪人を、清い花嫁、美しい花嫁として迎えに来て下さるという約束です。それが、私どもの希望なのです。その日を待っているのです。その日、私どもの目から、すべての涙はぬぐわれます。苦難も試練もすべては完成されてしまっているからです。すべての悩みは、解決されるのです。私どもには、明日があるということです。希望の明日があるのです。キリスト者とは、がんばりようがあることを、神の御言葉によってはっきりと教えられた者です。主イエス・キリストによって、鮮やかに、その御言葉の教えによって確実に教えられた者です。

大会から出されている聖書日課の「リジョイス」の中で、わたしがもっとも励まされ、素晴らしいと思うのは、筋ジストロフィーの病と闘っている21歳の青年とそのことばです。タイトルは、「明日を夢見て」です。まさに、彼を支えているのは、明日です。希望です。主が再臨される日です。そのとき、病は癒され、本来の肉体が与えられます。本当に、その日が来るのです。だから、がんばりようがある、わけです。

祈祷
花婿なるイエス・キリストよ、あなたを待ち望みつつ、今朝もここで、あなたを主とあがめることができました。聖霊によってこの礼拝堂に隣在してくださいます恵みの奇跡を感謝いたします。どうぞ、人間中心の賢さは、あなたの前に愚かでしかないことを深く悟らせてください。信仰の賢さ、御言葉への信頼を深めさせてください。必ずあなたが来られ、御国が完成される日を、待つ者とならせてください。そして、その信仰によって、私どもの日々の生活が、その日に耐えられるようなものとならせてください。不信仰の愚かさに何度も転落する私どもを、力強い御手をもって引き揚げ、歩ましめて下さい。アーメン。