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「気づかないまま主に仕える」

「気づかないまま主に仕える」
                2012年11月11日
             マタイによる福音書第25章31~46節③

「「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
 

このテキストから、本日で3回目の説教となります。先週は、特に、「最も小さな者のひとりにしてくれたのは、わたしにしてくれたことなのである」との御言葉を巡って、学びました。そして、この最も小さな者とは、先ず、自分自身のことであるということを確認致しました。つまり、イエスさまこそ、小さな者に他ならないこの私にイエスさまが、近づいて来て下さって、隣人となってくださったのだということを確認いたしました。私どもの人生を振り返れば、この私自身が「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねて」下さったのは、イエスさまごじしんでいらっしゃったということです。しかも、キリスト者はひとりひとり個人的に体験させていただくわけですが、しかし、何よりも、大切で、すばらしいことを確認しました。それは、キリスト者は、主の日のたびに、神の民全員で、霊的には、飢えて死なんとする私どもに、いのちのパンである御言葉を食べさせて頂き、いのちの水である聖霊を注がれ、渇きを癒される体験を重ねることができるということでした。主日礼拝式によってこそ、主イエスさまが、私どもの隣人となって、もてなしてくださるのです。だからこそ、生活の、人生の様々な困難、苦しみや悲しみ、孤独や痛みの中で、私どもが新しく立ち上がることが許されているわけです。何と言う幸いでしょうか。光栄でしょうか。心から感謝し、御名を崇めたいと思います。

さて今朝は、この御言葉に込められたもう一つの真理を、確認したいのです。それは、この最も小さな者の一人とは、その究極の一人とは、誰であるのかということです。究極の一人・・・。人類の中で、もっとも困窮のどん底を味わわれたのは、どなたでいらっしゃるのかということです。

マタイによる福音書をはじめ、すべての福音書は、十字架にかけられご復活なさったイエスさまから、つまり、終わりの個所から読み解くことが大切です。主イエスは、ここで言わば地上における最後の説教をされます。この後、26章から、一気に、十字架へと赴かれる主イエスのお姿が記されてまいります。十字架とは、何でしょうか。それは、神の御子でいらっしゃる主イエスさまが、神に見捨てられた場所です。父なる神の怒り、神ののろいを受けられた場所です。今朝の主イエスの説教で言えば、他ならない主イエスご自身が、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」と愛する神に宣告されたという、まことに恐るべき出来事なのです。もしかすると、びっくりなさる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、これが事実なのです。これこそが、福音の事実なのです。父なる神の愛するその独り子を、父なる神ご自身が、拒絶なさるのです。十字架につけられるということは、そのようなことです。木にはりつけられるということの聖書による意味は、神に呪われた存在ということなのです。永遠の火とは、地獄です。

教会の基本信条の一つに使徒信条があります。その中で、「主は、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人の内より甦り」そこでは、陰府に下られたことが、はっきりと告白されます。つまり、地獄に落ちられたということです。使徒信条が強調することは、十字架の死は、まさに、神の刑罰としての死、単なる肉体の死、肉体の生命の死に留まらないということです。神との交わりが断たれることによる霊的な死、人間としての決定的な死のことです。主イエスは、まさに、十字架でその死を死なれたのです。だから、主の行き場所は、陰府なのです。それは、神との愛の交わりが届かない場所です。主イエスは、まさに、神に見捨てられたのです。そして、その前に、主イエスは、弟子たちに見捨てられました。12弟子たちのひとりは、はっきりと主イエスを裏切りました。そしてその他の弟子たちも、主イエスが逮捕された瞬間に、蜘蛛の子を散らすかのように、主を捨てて、逃げ出したのです。弟子とは、神の民のことです。教会のことです。つまり、イエスさまは、教会からも見捨てられたのです。そして、現実に、イエスさまを十字架に追いやったのは、ユダヤ人、律法学者、ファリサイ派、祭司たち、つまり、ユダヤの指導者たちであり、また、現実に死刑を求刑し、十字架で処刑したのは、ローマの権力です。一般の人々から、権力の名の下、力の下、主イエスは、殺されたのです。捨てられたのです。

まさに、主イエスは、神からも、教会からも、国家、一般の人々からも、すべての人から見捨てられたお方なのです。つまり、イエスさま以上に、困窮、悲しみ、痛みを受けられた方は、誰もいないと言ってよいのです。歴史上、まさに、もっとも小さな者とされたのは、人間となられたイエスさまです。まさに、最も小さい者なのです。

そして、このように最も小さな者となられたのは、そもそも誰のためであったのでしょうか。何のためであったのでしょうか。他ならないこの罪人の私のため、私どものためです。私どもの罪の身代わりになって、このように最も小さな者となられたのです。本来、最も大いなるお方、主の主、王の中の王、全宇宙、全被造世界の主権者にましますお方が御子なる神でいらっしゃるイエスさまです。しかし、この御子が、私どもを憐れんでくださり、自分のせいで、自分の罪と咎のせいで、困窮の中に落ち込んだ者、霊的に死んでいた者、飢え渇き、惨めで孤独な歩みであった私どもの隣人となって、奉仕してくださったのです。その究極の奉仕、それこそは、十字架について下さることでした。まさに、私どもの救いのために、最も小さな者となってくださり、最も小さな者をはらわたを痛むほど、内臓をつかまれるかのごとくに激しい感情で、憐れんで下さったのです。

さて、冒頭に申しましたように、ここからの説教は、本日で第三回目になりますが、今朝もまた、同じことを敢えて語らせて頂きたいと思います。主イエスの説教は、その結論を単純に言えば、天国に入る人そして斥けられる人という取り返しのつかない、決定的な差、違いをもたらしたのは、その人が、地上で愛の業、愛の奉仕をしたか、しなかったのか、このこと一つで永遠の祝福と永遠の裁きとが二分されるということであります。

さて、ここで、私どもが、とても不思議に思うことがあります。それは、天国に受け入れられる人、神の国を受け継ぐほど、すばらしく愛に生きたその人じしんには、自分がそれほど愛の業をしたという自覚がないということです。とりわけ、イエスさまご自身に愛を返したという自覚がまったくないということです。

それは、何を意味しているのでしょうか。それは、彼らの善い業、信仰の働きが、天国を受け継ぐことを目指してなされたものではないということです。愛の業、愛の奉仕は、自分がイエスさまにしていただいたことを、心から感謝した結果、感謝の実りであるということです。何も、天国という究極のご利益を求めて、それをしたというわけでは、どうも、解釈できないと思うのです。主イエスの羊とされた者たち、主イエスの右に選ばれた者たちは、善い意味で、自分の善き業にたいして無自覚なのです。こだわりがないということです。彼らは、とにかく、自分自身がイエスさまにして頂いたことを、出会う人々に対してしよう、自分にしてもらいたいと思うことを、他人にする、したいと考えているわけです。それが、隣人になるというあり方を示唆していると思います。そして、イエスさまが自分にしてくださったことが基本になっていますし、福音書で教えられたイエスさまのお姿が基本になっていますから、結局、最も小さくされている人にこそ優しさを返す、助けよう、共に歩もう、訪ねて行こうと考えてしまうということでしょう。

反対に、地獄へと分けられ、落とされて行く人は、たいへん、びっくりしています。「決して、救い主がそのように苦しんでいるところに立ち合ったならば、何も奉仕をしなかったなどということはありえない」自分に対してと自信があります。確信があるのです。

そして、ここで改めて確認しておきたいのは、主イエスの左側に置かれる者とは、明らかに律法学者、ファリサイ派の人々が意識されています。彼らは、自分たちは、断食もするし、貧しい者に施しもしているし、神の言葉を守ることにおいては、なんら、落ち度はないと確信しています。ルカによる福音書には、徴税人とファリサイ派の人が祈るために神殿に詣でたときの譬え話が記されています。「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ファリサイ派は、週に二度断食し、そのお金を貧しい人々に施し、決められた通りの捧げ物を実行しているのです。誰からも、後ろ指を指されないというプライドを持っています。

この主イエスの説教を学んでまいりました中で、今回も敢えて強調しておきたいことがあります。それは、この説教において、いかなる意味でも、人が救われるのは、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみに基づくという福音の真理以外のなにものも語られていないということです。決して、行い、善い行いによって救われるとか、それもわずか、含まれるということではありません。福音の真理が説かれています。

主イエスがここで厳しく断罪なさった理由は、どこにあるのでしょうか。律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちが天国に入る民、特別の民であるという信仰の拠り所に、まさに、自分たちこそ、誰にもまして、信仰の実践、信仰にもとづく奉仕活動に励んでいるという確信があったのです。しかし、彼らは、それを、神から受けた愛と恵み、救いの恵みへの感謝として、なしたわけではないのです。

しかし、天国に入った者たちは、自分の日々の暮らしの中で、出会いの中で、してきたことが、主イエスに喜ばれ、主イエスに向かうものであることだけを意識していたのだと思います。さらに、こう言ってもよいかもしれません。肩に力を入れずに、ただ、自分がイエスさまにしていただいたのだから、それを誰かにお返ししよう。神の愛と恵みを分かち合って生きて行こう、そのような素朴な思いだけだったようにも読みとれるのです。

永遠の初めから、天地創造の時から恵みによって選ばれているという福音の真理は、空中に浮いている単なる思想ではありません。選ばれた人は、信仰を、神の御言葉を行うのです。確かに、信仰と行いとは、まったく別の事です。しかし同時に、信仰とそれに基づく行いとは、決して切り離すことはできないのです。私どもは、今一度、主に救われた者、神に赦された者は、どのように神に応答する者なのか、信仰による救い、恵みによる罪の赦し、それを教理の言葉では、義認と言います。そして、信仰によって救われた者の歩み、生活、それを聖化と言います。この義認と聖化との関係を、きちんととらえたいと思います。罪を赦された者は、必ず、主を愛する者となり、隣人を愛する者となるということ、その結びつきです。そしてその二つを結ぶのは、自分の力、人間的な努力ではありません。聖霊のお働きにあずかってなされるのです。最初も、真ん中も、最後も、キリスト者の生涯は、神の霊に導かれるのです。

世間的な言葉を用いるのは、きわめて慎重でなければならないはずですが、自然体という言葉があります。キリスト者として、なんだかとても難しい顔をして、信仰の戦いに勤しむというより、自然体で生きていながら、愛の奉仕、愛の働きができていれば、そんなキリスト者になれればと憧れるかもしれません。しかし、私どもは、もし、御言葉と聖霊に常に導かれているのであれば、自然体で生きていれば、ただ存在していれば、まわりの人々に恵みを分かち与えることができるのだと思います。ただし、わたし自身のことを敢えて申しますと、そのようになりたいと願いつつ、なお油断せず、なお努力を怠ってはならないと自戒しているつもりです。意識せずにということと、意識してということと、矛盾するかもしれませんが、しかし、同時に、大切であって、私どもは、同時に心がけるべきなのだと思います。

最後に、ロシアの文豪トルストイの「靴屋のマルチン」のお話をしたいと思います。わたしは、この作品は、主イエスのこの説教が生みだした、一つの傑作だと思います。主人公のマルチンは、妻も子どももずっと前になくして一人寂しく、毎日、靴の修理の仕事をして暮らしていました。やがて、聖書を読むようになりました。次第に、心の中が明るくなったのです。そんなある日、マルチンおじいさんは、夢のなかで、イエスさまからこう言われます。「明日、あなたのところに行くから待っていなさい。」マルチンは、翌日、楽しみに待ち続けました。ところが、いつもと同じ生活が続くだけでした。

ただしその日、何人かの人との出会いがありました。最初は、雪かきのおじいさんです。次に、雪降る外の通りを、泣きやまない赤ちゃんを抱っこしている夏服を着たお母さんです。そして、最後は、お腹をすかしてついリンゴを盗んで追いかけられている子どもと追いかけていたおばさんです。マルチンは、それぞれを自分のあたたかい部屋に招き入れます。スープを飲ませてあげたり、毛布をあげたりします。そのひとり一人の心は、暖かくなって行きます。

その日の夜、マルチンは、いつものように聖書を読みます。しかし、心の中には、「ああ、結局、イエスさまはいらっしゃって下さらなかったな」と、寂しい気持ちもわいてきていました。しかし、その晩、ちょうど読んだ聖書の個所こそ、この個所だったのです。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」つまり、マルチンは、その夜、気づいたのです。自分は、イエスさまにお会いした。イエスさまに、お仕えすることができたのだ。あのおじさんと共にイエスさまがいらっしゃった。あの母親と赤ちゃんと共にイエスさまがいらっしゃった。お腹をすかした子どもとお店のリンゴを盗まれて追いかけまわしたおばさんとイエスさまがいらっしゃったということです。

私どももまた、毎日、いつものように何人かの方々と出会うでしょう。また、いつもの方だけではなく、教会からでかけて行き、新しい人、小さな人と出会う責任も与えられているはずです。その人と、どのようにかかわるのかが問われているのです。私どももまた、知らない間に、主イエスに出会っていることがあるわけです。出会わなければならないとも言えるはずです。そこに伝道の課題、使命、責任があります。

ヘブライの信徒への手紙第13章にこう記されています。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」

さて、しかし最後の最後に今朝の説教をそこで終えること、終えてはならないと思います。どういうことかと申しますと、マルチンの物語は、言わば、成功の物語です。本人を含めて、みんなの心があたたかくなったからです。しかし、私どもは信仰の戦いへと一歩歩み出せば、ただちに現実の困難さ、その壁にぶつかるはずだからです。どんなにお祈りしても、どんなに真実に接しても、イエスさまの福音に耳を傾けてくれず、愛を理解してもらえず、むしろ、反発されることがあります。

しかし、その時こそ、この物語が、私どもをどん底から支えて下さるのです。愛が実らない、愛が現実には勝利しないと見えるところで、しかし、主イエスは、私どもの小さな拙い愛を、ご自身への愛と奉仕と受け入れて下さるからです。だから、私どもはなお諦めず、忍耐しつつ、この愛の戦いに励めるのです。教会に仕え、兄弟姉妹に仕え、隣人になる努力を怠らないのです。

そして今朝、そこからさらに掘り下げて考えましょう。福音は、決して、単なるヒューマニズムではありません。つまり、私どもの愛が決して勝利するとは、約束されていません。主イエスの愛、神の愛が勝利するのです。私どもは、それを信じるのです。私どもの愛、さらに言えば、神のまことの愛がすべての人に理解されるとは、聖書には、まったく記されていません。むしろ、正反対です。主イエスは、殺されるのです。しかし、このお方は、ご復活されました。そして、再臨されます。再臨のときに行われる最後の審判、再臨の審判こそ、神の愛の勝利なのです。私どもは、その日を信じて、なお、ひるまず、主を愛し、隣人を愛する者、愛に生きる者として歩んでまいりましょう。

祈祷
私どものために、十字架で死なれるほどまで小さな者となってくださった主イエスよ。あたなが、私どもの隣人となってくださったからこそ、私どもは救われました。罪赦された者として、愛の労苦に萎えることなく、聖霊の交わりの内に、私どもを励まし続け、あなたの愛の勝利を信じて、歩ませて下さい。