「私たちと一つになってこその十字架」
2012年11月18日
マタイによる福音書第25章31~26章5節④
【「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。 】
このテキストから、本日で4回目の説教となります。しかし今朝は、第26章の1節から5節までをあわせて読みました。マタイによる福音書は、この第26章からいよいよ、主イエスの十字架の死に至る最後の一週間として集中的に受難のイエスさまを描きだします。ちなみに、バッハのマタイ受難曲は、この26章から始まります。十字架の死へと、まっすぐに進み行かれる主イエスのお姿を、わたしどもはついに本日から学び始めるわけです。
私どもは、第24章から25章まで、主の再臨の説教を繰り返して学んでまいりました。そこで学んだ真理は、主イエスが再び来られるその日、人間は、永遠のいのちと永遠の滅びとに決定的に、裁き、分けられるということでした。再臨の主イエスは、そのような主権者、裁き主、王でいらっしゃるとの自己紹介を学びました。そして、今朝も学ぶこの最後説教は、言わば、再臨の教えの総仕上げです。ここでこそ、まさに鮮やかにその真理が予告されます。「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
さて、そこで問題になるのは、いったい、この左側に分けられる人とは、誰のことなのかということです。これまでの主イエスの説教を素朴に読めば、明らかです。それは、律法学者たちであり、祭司たちであり、ファリサイ派の人々たちであります。彼らが烈火のごとく怒り、身もだえするように悔しがったのも、当然と言えば当然かもしれません。彼らは、もはやこれ以上、イエスの活動、その伝道、説教をさせてはならないと考えたのです。その究極の方法として、イエスをリンチではなく、法の正義の名の下に、公正な権力の名の下に、処刑すること、殺すことです。本来であれば、「主イエスよ、わたしを赦し、御国に入る者とならせて下さい」と願ったら良いのです。しかし、彼らは、主イエスの説教を聞けば聞くほど、心をかたくなにして行きます。赦しを願い求めるどころか、今や遂に、その計画を実行することと決めてしまったのです。その最後の最後の引き金を引かせることとなったのが、この説教なのです。
さてしかし、私は、それにもまさって私どもがここで理解しておくべき大切な点があると思います。私どもは、この説教が死の直前の説教であったということの意味を掘り下げて考えてみたいのです。何故なら、この説教によってこそ、私どもは、いよいよ十字架の意味、救いの恵みの重さを際立たせられことになるからです。
そろそろ、待降節、アドベントが近づいてまいりました。12月2日から待降節第一主日が始まりますが、私どもは、12月1日、「イエスさまのお誕生会」子どものクリスマス集会を行います。そのような時期に、必ずと言ってよいほど、読まれるのは、やはり、マタイによる福音書の冒頭の物語だろうと思います。第1章18節にこうあります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。降誕を祝うとき、「インマヌエル」という言葉が、何度も語られるだろうと思います。そして、その言葉は、まさにマタイによる福音書に記されていることを、今朝、深く心に刻みたいと思います。それは、「神が我々と共におられる」と言う意味だと、私どもは学びます。そして、神が私どもと共におられる出来事は、まさに、イエスにおいて起こった出来事だと学ぶわけです。それなら、いったい、イエスさまにおいて何が起こったのでしょうか。
主イエスは、もともと永遠の父なる神の独り子でいらっしゃいます。父なる神との関係において独り子なる神でいらっしゃいます。光よりの光、まことの神よりのまことの神です。その栄光と尊厳と権威において同一のお方です。劣っていらっしゃいません。しかし、この独り子でいらっしゃる永遠の神が、人間を救うためにどうしても、どうしてもしなければならなかったことがありました。それは、人間と同じ立場に立つということです。それは、かりそめのことではないのです。つまり、いっとき、30年余りの間だけ、地上で人間の姿かたちをとるけれども、本来は、人間ではないのだから、仮の姿となるということ、ではありません。それは、異端者が考えるイエスさま理解です。私どもの主イエス・キリストは、かりそめの人間なのではありません。まことの人間なのです。マリアから聖霊によってお生まれになられ、人類の罪の鎖からは、切り離されてお生まれになられた以外は、すべて、私どもと同じ人間となられたのです。このへりくだりの御業は、ひとへに、十字架を目指すためです。十字架で死なれるために、どうしても人間にならなければならなかったのですし、そして、父なる神も、独り子なる神もそれをよしとなさったのです。
このイエスだからこそ、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』と仰るのです。主イエスは、私どものことを、ご自身の弟、妹と見て下さるのです。神の子であり、父なる神につながる神の家族として受け入れて下さるのです。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
この御言葉は、先ず、そこから聴き取り直したいと思います。キリスト者のたったひとりに食べさせ、飲ませたなら、宿を貸してあげるなら、着せてあげたり、見舞ってあげたり、訪問するなら、それは、まさにイエスさまご自身にして差し上げるということになるわけです。つまり、キリスト者は、正真正銘、神の子だということでしょう。そして、キリスト者とはキリストが宿って下さる神の神殿、キリストを宿しているということです。
ただし言うまでもありませんが、キリスト者が他のキリスト者に向かって、他の会員に向かって「わたしによくしてくれるのは、当然のことですよ。」「わたしはキリストを宿しているのだから、わたしに、奉仕してくれるのは、あなたの祝福ですよ」とか、そのような思いや言葉が出ることは、本来、ありえません。しかし、繰り返しますが、主イエスは、そのように評価しておられるのです。主イエスは、そのようにお互いが仕え合う道、お互いが足を洗いあう道を示されたのです。ヨハネによる福音書では、最後の晩餐の前に、主イエスが弟子たちの足を洗われた記事が収められています。そこで、主イエスは、わたしがあなたがたにしたのだから、あなたがたもお互いにしあいなさいと命じいられました。主イエスは、私どもキリスト者どうしが本当に愛し合い、仕え合い、お互いの内に宿っているキリストを大切に、このうえなく大切にして行く道を、このような物語を語って下さることによって、見事に教えて下さったのです。
確かに、この御言葉は教理的な言葉ではないと思います。再臨の説教において、イメージ豊かに、福音の真理を生き生きと語って下さる中で語られた物語です。しかし、私どもはこの物語の中に、教理の言葉、聖書の教え、教会の教で言えば、「二性一人格」の教理が見事に語られていると思います。特に、イエスが、真の人でいらっしゃるという救いの真理です。しかも、そのイエスさまの真理、主イエスの真の姿が、まさにわたしの救いそのものとなることを、このような仕方で暖かく描き出された御言葉が他にあるかと思います。
この物語、この説教を通して、主イエスは、今朝も、私どもに向かって、真心から、愛を込めて「わたしの兄弟」「わたしの姉妹」と呼んでおられるのです。しかも、それは決して上から目線のものではないのです。本来は、まさに上からはるか遠く、はるか高くから聴き取るべきお方の御言葉です。しかし今、弟子たちの前に主イエスがおられ、同じ地平に立って語られたのです。いへ、おかしな表現ですが、主イエスは、下から目線で、私どもより下にいらっしゃって、もっとも小さく、もっとも困難で、もっとも悲しいところで、苦しみのどん底から「わたしの兄弟」「わたしの姉妹」と呼んでおられるのです。
兄弟なるイエスさまは、わたしが飢え、渇き、生きて行く不安と人間関係の混乱の中にいたとき、主イエスが誰よりももっとも近くに来て隣人となって下さいました。最後に主イエスが仰って下さった牢にいたときとあります。皆さまは、ここで、さすがに、そこまではイエスさまにしていただいたことはないと思われるかもしれません。しかし、違います。むしろ、この牢獄にいた自分を訪ねてくださるイエスさまにこそ、私どもキリスト者は、誰でもお会いしたのです。その経験を受けたのです。
わたしも、何度か、名古屋拘置所に伺ったことがあります。未決の死刑囚の方をお訪ねしたのでした。テレビや映画であるように、窓ごしに小さな穴があいていて対面することができます。刑務官が立ち合っています。10分かそこらの短い時間しか、面会はかないません。確かに、わたしもお訪ねしたことはあるわけです。しかし、当たり前ですが、わたしは拘置所の中に、入ったことがありません。入れません。そして、当たり前ですが、わたしは、時間がきたら、自分の家に戻るのです。しかし、主イエスがして下さったこととは、いかなることでしょうか。
その前に、そもそも、私どもは、自分が未決の死刑囚であるという自覚をどこまで深めているでしょうか。それが、厳しく問われます。その自覚がなければ、聖書の物語、主イエスとその説教は、自分とはかけ離れたものとなります。絵空事に聞こえるのです。最後の審判で、神が永遠の祝福と永遠の刑罰とに、右と左に決定的に裁かれるという現実に、おそれおののくことがありません。私どもは、神との関係において罪人です。神を神としない自己本位という罪の支配の中で、死と滅びへと定められていた人間です。死へと売り渡されていたのです。永遠の滅び、永遠の神の刑罰へ落ちて行くことを定められていたのです。それは、あたかも死刑囚が刑の執行を牢獄で待っているかのようです。脱獄不可能です。それほど、悲惨な状況にいたのです。それが、わからなければ、福音が分かりません。赦しが分かりません。神を、生ける神としておそれおののくことができません。神の愛の大きさとその恵みの大きさが分からないのです。
さて、私どもが牢獄にいるということは、十戒の前文で表現すれば、エジプトの国、奴隷の家にいたのです。それは、新約において表現すれば、罪の支配の下、死の奴隷とされて、一生涯恐怖の中に閉じ込められている人間ということです。その牢獄に父なる神は、御子を面会者として、送り出して下さいました。御子なる神は、そのために人となられたのです。しかも、人となられたイエスさまは、もう、後に戻られません。人となられることを取り消すことがおできになりません。しかも、人となられたイエスさまの面会とは、単に、窓越しから語りかけられるということを意味していません。主イエスは、私どもの牢獄の中に入り込んでくださったのです。そして、それは、無実の罪でもなんでもなく、まさに自分の罪の故に牢獄の中に入っているこのわたしを、牢獄から釈放するためでした。私どもが来ていた罪の故に汚れた着物の上に、ご自身の義の衣を着せて下さったのです。美しい衣です。神の子の服です。王子の服です。そのすばらしい服を着せて下さったのです。そして、神の家に住まわせて下さいました。それこそが、キリストの教会です。私どもに当てはめれば、名古屋岩の上教会です。この神の家に住むことができる特権を与えて、私どもは釈放されたのです。
そして、私どもは知るのです。自分の代わりに牢獄の中に入られたイエスさまが、まさに、自分のかわりに十字架で殺されたということです。これが、福音です。主イエスが人となられ、もっとも小さな者となられたのは、私どもが人であり、罪人であり、罪人のなかの罪人だからです。そして、私どもの兄弟となって下さいました。これが、インマヌエルの目的なのです。だからこそ、このお方が十字架で死なれたことによって、その死が私どもの死となる、救いの道が開かれたのです。十字架の死は、わたし自身の死となったのです。十字架の死は、わたしの罪の刑罰としてのわたしの死となったのです。繰り返して申します。それは、罪人である私自身の死となったのです。主イエスは、罪人と一つになってくださったのです。インマヌエル、神が私たちとともにいてくださる。という現実は、裏からみれば、神が、私どもの罪の責任を負って下さる、罪責を負って下さるということです。神が罪人となる。神が罪人の身代わりになってくださるということです。それが、この主イエスの物語によって、はっきりと悟ることができます。信じることができます。
だから、だからこそ、私どももまた、最も小さな者の中にキリストを見いだす道が開かれています。困窮の中にいる人々の中に、キリストを見いだす眼が開かれ始めています。
そして、それは、先ず、自分から始める以外にありません。つまり、自分とイエスさまがいつも一緒にいて下さることを受け入れることです。信じることです。イエスが私どもと共にいてくださるということは、隣にいてくださることを意味するだけではありません。主イエスが、私どもに宿っていて下さるということです。主は私どもの内に住んでいて下さるということです。あなたの内に、イエスは聖霊によって宿って下さっているのです。それほどまでに、私どもは神に愛され、主イエス・キリストと一つとされているのです。
そうであればこそ、キリスト者お互いの交わりもまた、新しく見つめ直すことができます。あなたの中に、キリストを見る。教会員の中にキリストが宿っていることを新しく発見し続けることです。それが、教会を神の家、神の家族の交わりへと形成して行く力となるのです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第12章でこう命じています。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」使徒ペトロは、第二の手紙の第1章でこう命令しています。「あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
兄弟愛の根源は、キリスト・イエスにあります。主イエスが私どもの兄弟となられたことに基づきます。主イエスへの愛は、教会員への愛になるのです。ならなければならないのです。尊敬するということも、相手を優れた者と思うことも、そのキリスト者のうわべ、信仰歴やら生活態度やら、何よりもその人の社会的立場がどうこうということでは全くありません。キリストが宿っておられるからなのです。この事実は、信仰と信仰の眼が開かれていなければ、分かりません。
そして、私どもは、そこで信仰の想像力をストップさせてはなりません。むしろ、ここで主イエスによって鋭く問われていることは、それを超えて進むことにあるのです。つまり、キリスト者に限定しないということです。出会う相手がキリスト者であろうがなかろうが、その人がただ、小さくされている人であれば、ただ、困窮の中にいる人であれば、それは、イエスさまご自身が彼らを憐れんでおられるそのゆえに、ただ主イエスが彼らと共にいて下さる故に、ただ主イエスが彼らの隣にいて下さるその故に、私どももまた、彼らの隣に行くことへと促されるのです。そして、主イエスはここで教えて下さったのです。彼らの隣に行くことは、主イエスさまの隣に行くということだという真理です。
昨日、この礼拝堂で、中部中会のディアコニア支援委員会が開催されました。お二人の兄妹が陪席されました。10人のキリスト者、牧師、長老、執事、伝道所委員の皆さんと昼食を頂きました。本当に、いっしょに食事をすることは楽しいことです。すばらしい交わりです。キリスト者どうしの醍醐味の一つだと思います。しかし、その交わり、その委員会も又、自分たちが楽しみための委員会活動ではありません。被災者を支援するディアコニアのためです。
そもそも、私どもの震災ディアコニアの心とは、被災者の隣に行くことは、主イエスの隣に行くことであったはずです。私どもが行く前に、主イエスがそこにいらっしゃることを信じ、だからこそ、私どももそこを目指したのです。私どもは、ここで教えられつつある福音の真理、奥義をいよいよ深めて行く必要があります。
「最も小さな者のひとりにしてくれたのは、わたしにしてくれたことなのである」との主イエスの御言葉は、限りないほどの深さをもって、福音の恵み、救いの恵みを私どもに教えてくれます。これで、ここからの説教は終わりにしなければなりません。しかし、この御言葉から立ち去って行くことはできません。一生涯、このイエスさまの御言葉を心に刻み、恵みを味わい、そこから底知れない神の愛を受けて、立ちあがってまいりましょう。
祈祷
父なる御神、あなたは、私どもを罪と死の支配から解放するために、御子を罪と死の支配のもとにお渡しになりました。しかし、御子イエス・キリストは、死の力を打ち破り、ご復活して、今や、あなたの右におられます。しかも、私どもと同じ肉体をもったままです。それゆえに、私どもの救いは揺らぐことはありません。永遠まで、私どもと共にいて下さることを決意して下さり、実行してくださったあなたの恵みを心から感謝致します。どうぞ、私どもが、自分自身の弱さや汚れに眼を止めないで、私どもと共に、私どもの内におられるキリストを認めさせてください。兄弟姉妹の内にキリストを見いださせて下さい。そして、この世においても、弱さと困窮の中にある方の中に、キリストを見いだしながら、歩む者としてつくりかえてください。アーメン。